第16話その1 庚申を待つ東宮の後宮の女性たち、そして何もしたくない実忠

 程なくして、あて宮が懐妊したという知らせが正頼邸に入った。

 仲純の死など悲しいことがあった後だったので、正頼も大宮も格別に嬉しいことと思う。

 周囲の元懸想人達も、やはり東宮との間に何よりも深いつながりがあったのだな、としみじみとした気持ちになったという。


   *


「本当に、これからは尚更お体をいたわりなさいませ」


 あて宮の局である藤壺では、女房達が口々に祝いの言葉を述べる。

 ここには沢山の女房が居るが、皆十五歳のあて宮より年上だった。

 中納言の君は十九、孫王そのうの君は二十一、そちの君は十七、宰相のおもとは十八、そして乳人子の兵衛ひょうえの君は二十歳である。

 彼女達は年も近く、あて宮の良い遊び相手にもなっていた。

 他に中将の御、弁の御、大輔の御、木工の君、少将の御、少納言、左近、右近、衛門などという年かさの女房も側に仕えていた。

 皆それなりの教養と嗜みを持ち、藤壺を居心地の良い所にしようとしていた。


「予定では十月というところです」


 主人の月のもののことも把握している彼女達は、そこから逆算して左大将家へと伝えたりもする。


「本当に宜しゅうございました」


 兵衛の君は涙ぐむ。そうでなければ、死んだ仲純も報われない、と彼女は心の隅で思う。


「そうね」


 あて宮はそんな彼女達に対し、やはり何を考えているか判らない存在だった。

 東宮に対しても、素っ気ない程の態度を崩さない。

 兵衛の君や孫王の君はそんな主人を見て、時々不可解な思いに捕らわれる。



 正頼邸の一角では、あて宮懐妊の知らせを聞いたちご宮が「当然よ!」と口の中でつぶやいていた。

 彼女は兄の思いを最初から知らされていた。当の兄から相談されていた。

 困ったことだとは思っていた。だが死んでしまえばそんな「馬鹿な」と思っていたことも美化される。

 どうしてもう少し優しく言葉をかけてやらなかったのだろう?

 あて宮に対する不満は、日を追って大きくなる。

 だがそれを口にはしない。妹は何よりも、我が家を栄えさせるために入内したのだから。そして父母の望み通りに首尾良く懐妊したのだから、責める言われは無いのだ。

 だからと言って。

 ちご宮は行き場の無い思いを日々ぐるぐると回す。


「どうしたんだい、ずいぶんとふさぎ込んで」


 夫の左衛門督忠俊さえもんのかみただとしは、そんな妻を毎日不思議に思う。


「兄上が亡くなって以来、ずっとそんな感じだね。あんまりふさぎ込んでいると、お腹の子に良くないよ」


 はい、と彼女は答える。そう、この夫にも日々馴染んできており、今では今宮や女一宮の居る大殿へはあまり行かない様になっている。

 子供時代とはもう違うのだ。



 一方、今宮と女一宮にも時は流れつつあった。


「暇ね」

「暇だわ」


 不謹慎だとは思いつつも、そういう言葉がつい二人の口から出てしまう。

 あて宮が入内してからというもの、かつての求婚者達からの文も無くなり、寂しいことこの上ない。

 彼女達に求婚するための文が来ない訳ではない。

 だが途中で止められ、実際に手元に来ることはまずない。


「あなたはさすがに帝の女一宮だから、そうそう皆、手が出せる訳ではないけど、私の場合、何かと皆、あて宮の代わりにしようって魂胆だわね」

「そんなこと無いわよ」

「それにあなたには帝も院の帝も、仲忠さまに縁づけようとしてるし」

「それを言わないでよ」


 一宮はむっとした顔になる。

 あて宮が入内して以来、彼女もただ愛らしいだけの少女ではなくなった様に今宮には見える。


「それを言ったら、あなたこそ涼さまと、という話も出ているんじゃあないの?」

「話は無い訳じゃあないわよ」

「いいじゃない。じゃあ。あなたは涼さま。私は仲忠さま。こうなったらもう割り切るしかないじゃない。他のどうでもいい人達とくっつけられるよりは、どんな裏があっても、好きな人のほうがいいもん」


 一宮は言い切る。


「強くなったわねえ、一宮」

「だってあて宮を見ていたら、やっぱりそう思ったもの」


 口をとがらせる一宮に、今宮は訝しげに首を傾げる。


「あて宮は誰か好きな人が居たと思うの?」

「そういう訳じゃないわ。居たとしても、あて宮が、そんなの私達に見せる程の隙があったと思う?」


 今宮は首を横に振る。隙など何処にもなかった。

 乳人子の兵衛の君にしても、彼女の真意は掴めなかった様だ。


「東宮さまはきっとあて宮の気持ちが掴めなくて苛々すると思うわ」


 そうかもしれない、と今宮は思う。

 他の妃達を顧みない程の訪れは、彼のその苛立ちを反映しているのかもしれないと。


   *


 そんな他の妃達とあて宮に対する対応の違いが顕著だったのは、二月の二十日の庚申こうしんだった。

 この夜、東宮の妃達は、それぞれ御馳走をすることになっていた。

 あて宮の局では、庚申の夜よりも前に、殿上や帯刀の陣に菓物を出そうと計画し、左大将の元に使いを送っていた。

 東宮の食卓にも、様々に立派なものが用意される。

 まず黄金の毛彫りを施し、上に銀製の折敷を置いた金属製の台盤を三十。折敷には花文綾と羅とを重ねている。

 檜破子ひわりごが五十、普通の破子が五十必要だったが、檜破子は妃達それぞれが分担し、普通の方は正頼が自分に仕える受領達に命じて受け持たせた。

 据え物としては、政所より炊いた米を十の檜の櫃に四石、十の黒柿の脚をつけた朴製の中取にそれぞれ用意した。

 他に、一尺三寸ばかりの樫の器に、生もの、乾物、鮨物、貝物などを高く美しく盛って、柊の脚をつけた朴の木製の木皿に据えた。

 酒は一石入る樽を十用意した。

 碁手には銭三十貫の他、まゆみの紙、青紙や松紙などが筆と共に蘇芳の机に乗せられ十。

 被物としては、女装束や白張袴などが。

 これらのものが、正頼やその子息達によって一気に運ばれて来る様子は実に堂々としていた。

 菓物や酒を透箱に入れたものが、蔵人で木工寮の助をしている人を使いにして帝から用意されたりも。


 涼からは、沈の破子が十。

 中には顔に塗る白粉をご飯に見立てて入れている。その他、敷物や袋なども美しいものを奉った。


 仲忠からは、合薫物、沈で作った鶴、筆、黄金の硯や亀、双六の盤、碁石などが銀の透箱十に用意された。

 双六の盤は唐錦で飾られ、線は金銀で描かれている。

 碁石は白石と瑠璃石が銀製の容器にそれぞれ入れられている。碁手の銭は同じ銀の箱に入れられて奉られた。


 正頼は、涼や仲忠からの贈り物を見て絶賛した。

 この様に、あて宮と、それ周囲の人々によって用意されたものや贈り物は、後でそれぞれ行くべきところに分けられたのだが、非常に豪華なものであったと言えよう。

 他の局と比べるとそれは明らかだった。

 この庚申の夜、あて宮の藤壺の局には、たくさんの人々が集い、御馳走が並んでいた。



 さてその側にある昭陽殿しょうようでんには、左大臣の大君おおいぎみが暮らしている。

 彼女は現在三十歳。

 東宮に最初に入内した妃ではあるが、がっちりと堅太りした身体と、決して美しいとは言えない容貌、そして何と言っても―――

 距離がら、藤壺での殿上人の大騒ぎが良く聞こえてくる。

 それを耳にした昭陽殿の君は、憎々しげにこう言った。


「意地の汚い夏犬の様に、がつがつとまあ、貰い物を奪い合っているわ! いやそれより藤壺だわね。あれだけの物が用意されていれば、皆釣られて来るのも当然だわ」


 吐き捨てる様な口調に周囲の女房も「尤もだ」とばかりにうなづく。

 そう、このつむじ曲がりの性格のために、彼女は東宮から避けられているのだ。

 そして避けられれば避けられる程、出自ばかりは素晴らしい彼女のこと、意地になる。


「今日は庚申待ちなんかしないわ。寝ましょう寝ましょう」

「そうです。あの様な者達に従うことはありません」

「そうですそうです。寝ましょう寝ましょう」


 そこに四五人ばかり控える女房達は主人に追従する。

 彼女達も主人に従ってか、決して貧しい訳ではないのに、薄汚い白い絹の唐衣に薄紫の裳をつけて、数も少ない。



 梨壺の君は昭陽殿ほどつむじ曲がりではないので、おっとりのんびりと庚申待ちをしていた。

 彼女は右大将の大君――― つまりは仲忠の異母妹で年は十八。すっきりとした美しい姫君である。

 周囲には二十人程の女房達が控え、裳唐衣も主人の好みが反映したすっきりとしたものだった。

 このひとは殿上に破子を二十、碁手として銭二十貫や、青い透箱に入れた陸奥紙みちのくがみや青紙などを積んで出している。

 豊かではあるが、それを誇示はしない控えめな態度が普段から東宮に気に入られている人である。



 嵯峨院の女四宮の局には、女房達が十五人、童が四人がこの場で庚申待ちをしている。

 本人は現在二十歳。このひともあて宮入内以前には東宮のお気に入りであった。



 あともう一人、平中納言の三の君が入内し、宣陽殿で暮らしていた。彼女は現在十六歳、で姿形は非常に美しい。

 この夜は兄の蔵人式部丞が一緒だったので、庚申待ちの退屈を彼とのお喋りで過ごしていた。

 まだ若いせいだろうか、それとも性格だろうか、藤壺の様子を耳にした彼女は無邪気にこう兄に言う。


「左大将どのの君は何って素晴らしいんでしょう。ほら、今日も女房達から聞いたんですけど、藤壺には素晴らしい贈り物が集まっているんですってよ」


 すると兄は苦笑しながらこう言ったという。


「あの方は並外れて優れているからなあ…… 誰も肩を並べることはできないだろうよ」


 そこには父である平中納言が求婚しても無駄だったことや、自分の妹がその身分柄勝てることはないことが頭にあったのだろうか。


   *


 実忠は、皆が皆打ち揃う庚申の夜にも来なかった。彼はひたすら小野で隠遁生活を送っていた。

 そんな彼から、三月末にあて宮に長歌が送られてきた。


「―――言葉に出して申しますと、身も心も粉々に砕ける思いでございます。

 この魂にあなたを思う心が取り付いてからというもの、静かな入り江の床を共にした鴛鴦の夫婦が、列を離れる様に、妻を捨て彷徨い出て、愛しい我が子が思いがけずあの世に行ってしまったのも知らずに、ただひたすらあなたのことを思う涙の川に浮き寝/憂い辛い思いをして、あなたの御返事を頼みに今か今かと待っていましたのに、とうとう御入内なさっておしまいになったので、頼みの綱も切れて、もう今日限りだと思った日から、重い病の身となって山里に一人思いに沈んでぼんやり暮らしていますと、夕日に輝いて一面に燃える深い海の様に、満ち潮の涙が袖に余って洩れてあふれても、もうお目にかかる工夫も絶たず、今となっては絶望の思いに悲しんでいます」


 返事など来るはずはないのだ、と実忠の中でも言う者が居る。

 兵衛の君にも言われたではないか、と。

 そして何と言ってもあて宮は既に東宮の妻で、そして身籠もっている。

 自分には、何をどうしてもどうならないことなど彼も判ってはいる。

 だがくどくどと書かずにはいられなかった。

 返事が来ないことは判っていても、書かずには居られなかった。

 時々、何故自分はこんな苦しい思いをして返事を待つのだろうと思うこともある。

 心配してやって来る、兄中将の実頼さねよりも折りに触れて、あきらめろと繰り返す。

 そう、頭では判っているのだ。だが止められないのだ。


「亡くなった真砂子まさご君が可哀想だとは思わないのか。袖君そでぎみのことはどうするんだ?」

「そなたの妻は今何処に居るとも知れなくて、皆で探しているところだ。判っているのか? その意味が」


 時々業を煮やした兄達は彼を責める。

 可哀想だとは思う。

 自分のせいだとも思う。

 だがその「可哀想」に妙に実感が湧かない。何処か遠いところ、誰かの話を聞いている様だった。

 何もする気がしない。

 ただもうひたすら、あて宮のことを思い、文をしたためて日々を送りたい。

 それだけでいい、と彼はぼんやりした頭で思う。


「……父上から文も来ているぞ」


 目を通す。

 父も辛いだろう。辛そうだとは思う。

 だがやはり実感が湧かない。

 これは自分のことを言っているのだろうか、自分を心配しているのか、そもそもこれが自分の父からの文だというが、何故自分の父は心配しているのか。

 判らなくなっている。


「皆心配している。何故良い家で将来を期待されていた者ばかりがこうも、と……」


 そうですか、と実忠は兄に答える。


「頼むから仲純の様に死ぬことだけは無い様にしてくれ」


 肩を掴まれ、兄に懇願される。

 それは無い、それは無いと実忠は思う。

 確かに自分は弱っている。だが死なない。死ぬこともできない。そんな勇気は無い。


 だってそうでしょう兄上。

 自分にそんな勇気があったらあて宮を盗み出すこともできたはずです。

 でも私の心がそれを許さなかったのです。

 私はあて宮を思っていたかったのです。

 私はあて宮を思っていたいのです。

 このままずっと、思っていたいのです。

 それがどうしていけないのですか、それ以上のことはしません。

 何も死のうとも思いません。

 あて宮に今更無体なこともしようとも思いません。

 できません。

 何をどうして兄上そこまで悲しむのですか怒るのですか。


「お前は」


 実頼は時々ため息をつきながら言う。


「本当に何もしたくないのだな」


 その通りだった。

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