第10話その1 忠君、かつて自分を陥れた継母を保護する。そして東宮登場
同じ頃、やはり都へと連れて来られた者が居る。あの法師、忠君である。
彼は現在、嵯峨院にたいそう可愛がられている。
現在の院の住まいの中に、加持祈祷をする壇所をわざわざ彼のために設け、常に側に居させて離さない。
その忠君――― 今でこそあて宮への思いに悩まされているあたり何であるが、元々きちんと教えを受けている法師である。
実際に院が加持祈祷をさせると立派にその効果は現れたという。
そこで院は帝に彼を内裏の西にある真言院の
弟子や信者も多くなり、彼は唐突に羽振りが良くなった。
内裏の帝がお召しがあって参る時には、車を立派に仕立てて大勢の供を連れて参内するようになった。変われば変わるものである。
さて。
新たな生活に彼が慣れたある日、彼は一人の乞食女に出会った。
被っている
顔は真っ黒、足は針よりも細いかと思われる程に痩せこけた老婆である。
布のぼろぼろになった着物はあちこちにつぎが当たり、短くなって臑も丸見えである。
その女が、この阿闍梨を見た時、手を捧げてこう言った。
「せめて、ああせめて今日一日のお恵みを」
阿闍梨は哀れに思い、物をやると問いかけた。
「そなたは昔はどの様に暮らしていた者であるか?」
すると女は畏まって答えた。
「はい。昔、私は『
阿闍梨は何となく嫌な予感がした。
「続けて」
「はい。しかしその夫が亡くなった後、私は年下の右大臣に恋してしまったのでございます。ああ、何とはしたないことと笑わないで下さいまし。私は本気だったのでございます。向こうは決して私のことを好いてはおりませんでしたが、私は本気でした。あの人の心をつなぎ止めようと、持っているもの全てを投げだし、何でもしました」
更に嫌な予感がした。
「しかし駄目でした。私は考えました。何がいけないのだろうと。そして愚かな私はこう思い当たってしまったのです。彼の息子がいけないのだと!」
嗚呼、と思わず阿闍梨は内心うめいた。自分がまずいものに当たってしまったことに確信したのだ。
「あの方は、前の北の方との間に生まれた子供を何よりも可愛がっておりました。それ故私はその子を憎みました。その子が居なければいいと思いました」
胸の中でかっと熱いものが燃えるのが阿闍梨には判った。
「その子はとても素晴らしい子でした。ただ悪口を言うだけではどうにもならない、と思い、……彼を陥れました」
「どの様に?」
若干震えがちな声に気付かれないだろうが、と阿闍梨は案じた。
「その家に代々伝わる宝の帯を盗み、その罪をその子にかぶせたのです」
ぐっ、と袖の下で拳を握った。
「しかし悪いことはできないものです。その子は姿を消し、そのせいであの方は力を落とし、やがて亡くなってしまいました。私はと言えば、使った財があまりに大きく、気が付いた時には、もう何も残っていなかったのです。そして今はこの様に、生き恥をさらしても長らえております」
そうだったのか、と阿闍梨は大きく息を吐いた。
その帯は、その昔彼の父大臣が大願をかけて求めたものだった。
自分が出奔を覚悟しなくてはならない程に父君の機嫌が悪かったのも、全てはそのせいだったのだ。
この女の。
「何故そなたはその様なことをしたのだ?」
「判りませぬ。今となっては。馬鹿なことだと今は思います。ただその時は必死だったのです」
「罪も無い人にその様なことをすると、死後も地獄の底に沈んで、浮かぶことはできないだろう」
するり。口がそう動いてしまった。
「後生です! お許しを、お許しを!」
女は涙をぼろぼろと流した。必死で彼の裾に取りすがろうとした。
「このことを後悔する間も、胸の奥が、炎で焼かれる様に苦しいのです! もし取り返せるなら、あの頃に戻ってやり直せるならと何度思ったことか」
「しかし既に起こってしまったこと」
声が冷たくなっていくのを彼は感じた。
「判っております。判っておるのです! 私は悪いことを致しました! あの時あの様なことをしなければ! でもしてしまったこと、取り返しがつかないこと、その事実が私をいつも鋭く突き刺すのです」
うっうっ、と女はその場に泣き崩れ動かない。
この女は既に充分な報いを受けているじゃないか。しかも健康を害している様だ。長くはないだろう。
阿闍梨はその様子を見ながら、次第に自分の中に突如湧いた憎しみがほろほろと砕けていくのを感じた。
女がひどく哀れに思えた。
「さあ泣くのは止めて、立ちなさい」
「法師さま」
女はじっと阿闍梨を見つめた。
やめてくれ、と彼は思う。そんなすがる様な目で見るのは。ただ自分は。
「そなたが生きている間は私が世話をしてやろう。亡骸も弔い、地獄の苦しみが少なくなる様に供養もしよう」
ありがたや、と女は阿闍梨を臥し拝んだ。
実際彼は言った通り、女のために小さな小屋を作り、食べ物や着る物の世話をしてやる様になったという。
*
さてその頃、左大将の大宮腹の末っ子、「宮あこ」君に物の怪がついて重態になった。
そこで左大将はこの阿闍梨に加持祈祷を頼んだ。すると宮あこ君の様態は瞬く間に良くなった。
宮あこ君は病気を治してくれたこの阿闍梨に感謝しつつ、楽しくお喋りをする仲となった。
だがある日、阿闍梨は少年に文を渡してこう言った。
「春日詣の時に、琴を弾いていた御方に差し上げてはくれまいか。そしてぜひお返しを」
宮あこ君は驚いて目を瞬かせた。
―――とても素晴らしい方だと思っていたのに。
嫌な気分になった。
「姉上はこういう文は見ない方ですから」
少年はやんわりと断っているつもりだった。
だが阿闍梨はこう続けてきた。
「どうしてですか。こんなにあなたの病気を治してあげたというのに…… お願いです。その心持ちを察して、私のことも考えてはくれませんか」
宮あこ君は余計に嫌な気持ちになって、こう言った。
「無理だと思いますよ。期待しないで下さいね」
無理だろう、と少年は思っていた。
そして実際そうなった。
*
「姉上にお文」
不機嫌そうな顔を隠すこともなく、少年はあて宮に文を手渡した。もういい、これで自分の役目は済んだとばかりに。
「まあ、そういうことはしてはいけない、と常々言っているではないですか」
やはり不機嫌そうに姉は眉をひそめた。その顔も実に美しい。
「でも」
「どなたからですか」
「真言院の阿闍梨からです」
まあ、と声を立てると、あて宮はその文をびりびりと破いてしまった。
当然だろう、と宮あこ君は冷ややかな目でその文の残骸を眺めた。
*
「真言院の阿闍梨ですってーっ!」
「ええ、そうなのでございますよ」
今宮の声に、はあ、と
「また何でそんな方が」
「判りません。先日、ご病気がお治りになった宮あこ君が文をお持ちになったとのことで」
ふん、と今宮は鼻息荒く腕を組む。冗談じゃない、と彼女は思う。
「真言院の阿闍梨! 真言院の阿闍梨と言えば徳の高い法師様じゃないの。そうよ、そういう偉い方が、そんな下世話な懸想文など出していいの?」
「私どもには何とも……」
「いいわ、それであて宮はどうしたの」
「お怒りになって、開きもせずに破り捨ててしまいました」
「そうよ、それが正しいのよ」
うんうん、と今宮は思う。
「神泉院で…… そう言えば、帝があて宮を例の源氏の君に、とおっしゃったとのことだけど、それについてはあて宮は何か言っているの?」
「いえ、そのあたりは… あて宮さまはいつもの通り、東宮さまへのお文にはお返事なさいますが」
「他の人へはまるっきりという訳ね。全く罪作りな人なんだから!」
そしてその足で彼女は一宮の元へと向かった。
この同じ歳の姪は、神泉苑での帝の言葉にどうしていいのか判らなくなっているらしい。
「一宮! どうしちゃったの、昼間から寝込んで」
「今宮ぁ」
あて宮と変わらない位、とよく褒め称えられる、艶のある長い髪がざっと動く。
そして泣きそうな声が今宮の耳に届く。
「ああもうそんな、顔くちゃくちゃにしちゃって……」
「どうしよう…… お父様ったらあんなこと、勝手におっしゃって」
「ってあなたね、そもそもあなた自分が帝の女一宮ってことの意味、判っているの?」
「判っているわ…… だから凄く何か、何かなのよ」
一宮は側に寄った今宮にばっと抱きつく。
「お父様は私が仲忠さまのことが好きだって知らないんだもの」
「だからいいじゃない。好きな人と結婚できるなら、それこそ万々歳でしょう?」
「だけど仲忠さまはそんな風に決められるのが嫌だったらどうしよう」
そう言って子猫の様に一宮は泣き崩れる。やれやれ、と今宮は思う。
彼女は結果良ければ全てよし、という考えも持っていたので、一宮のこの動揺も一過性のものだと思っている。
おそらく一宮は幸せになるだろう、なって欲しいと彼女は思う。
そしてその一方で、源氏の君のことがぱっと頭に浮かんだりする。
「そう言えば今宮、涼さまはあて宮に、とお父様おっしゃったんじゃなかった?」
「らしいわね」
「あなたそれでいいの?」
「いいのって何」
ぐっ、と涙を拭って一宮は今宮をにらむ。
「あなたはそれでいいの、って聞いてるの」
「私? 私がどうして」
「だってあなた、涼さまのこと好きでしょ」
はい?
今宮は耳を疑った。
「そうでなくてどうして『女房』だなんて嘘ついて、涼さまと延々文通なんてしてるの」
「そ、それは」
「涼さま、今度三条へ越して来るわ。ご近所になるわよ」
「……」
「文使いも楽になるわよ」
「……」
「その時も延々『女房』って言い続けるつもりなの? 『女房』相手に軽々しく忍んで来られたりしたらどうするの?」
「そ、その時はその時よ!」
そう、と言って一宮は再び横になってしまう。手がひらひらと「出ていって」とばかりに動く。
全くみんなみんな。
今宮は簀子をどすどすと足音高く歩んで行く。
面白くないから、あて宮のところに来た文でも見てやろう、と再び来た道を戻って行く。
「ここしばらくに来たのはこれ?」
一つを取り上げた。
*
神泉苑の出来事は周囲に衝撃を与えはしたが、それでも懸想人達はめげないのである。
九月の終わりには、まず東宮が文をよこした。
「―――この秋はこの秋はと頼みにして、情けを知らないあなたを待つ私は、いつになったら永久に変わらない蔭を得られるのでしょうね」
帥の君が言う通り、あて宮は東宮にはきちんと歌を返していた。
「―――いつも色を変える秋ばかりで、色を変えない他の時に声が聞こえないのでは、松虫の音/あなたの仰せも信頼することはできませんわ」
同じ頃、実忠が鈴虫を送ってきた。
その声の美しさに、皆うっとりと聞き惚れた。
だが「自分の代わりに鳴いておくれ」と詠んだ歌には返事はなかった。
菊の盛りには兵部卿宮が、十月一日には平中納言が、弾正宮は紅葉の色の濃い一枝にかこつけて歌を送ったが、いずれも返事は無かった。
仲忠は冬の始まりに、宇治川の網代に出向いたついでに送ったが、それも返事は無し。
初雪の降る日に涼が送った文は、左大将があて宮の側でそれを見て褒め称えていたにも関わらず、何の返事も無し。
冬の日も次第に過ぎて行き、時雨がしとしとと降る日、仲純が堪えきれずに歌を詠んだが、それにも何も答えは無し。
仲頼は十一月の下の酉の日、賀茂の臨時祭の勅使に立つと言ってあて宮に歌を送ったが、やはり返事は無し。
行正がその後に送った文にも何も反応は無かった。
神泉苑で「方略」の宣旨を受けていた藤英は、六十日以内に帝からの課題をこなさなくてはならない身であった。
この課題をこなせば、彼は更に帝から認められ、きちんとした官位も与えられるだろう、と噂されている。当人もそれを心得ているが故、準備に余念が無い。
この頃彼は、左大将の支援により、衣食住には事欠かない身となっていた。
だが衣食足りれば別の悩みも増える。
「―――白い雪は降るけども心の中は燃えさかっていよいよ赤くなった。私の様な分別のある者でも恋には惑うものだなあ」
藤英がその歌を口ずさむのを、ふと聞いてしまった女房は、「自分でそういうことをいう人って嫌だわ」と思ったとか思わなかったとか。
*
懸想人達がそれぞれにが気を揉んでいるうちに十一月がやってきた。
その最初の日、東宮が残菊の宴を開いた。
この東宮という人は、帝の中宮腹の一の皇子である。そして将来、非常に優れた帝になると嘱望されているひとでもあった。
後見としての中宮の実家も、摂関家であり力強い。
もっとも、この中宮はやや気が強く、兄弟達からはやや敬遠されている向きがある。
帝は彼女を東宮の母として、また最初の妻としておろそかにはしない。
だが左大将の娘である仁寿殿女御への寵愛ぶりと比べれば、それはずいぶんと形式的なものに見える。
それ故に彼女は東宮に対する期待が大きい。東宮自身はそれにややうんざりしている気配がある。
そんな彼が開いた残菊の宴には、皇子や上達部がほとんど残らず出席していた。居ないのは右大将兼雅くらいなものであっただろうか。
博士達文人に詩文を作らせ、管弦の遊びをしたり、それはたいそう華やかなものとなっていた。
やがて一通りのことをし尽くし、皆何かと物語をするばかりとなった。
その中で不意に東宮が口を開いた。
「今日この宴に集まった者の中で、非の打ち所も無い美しい娘を持った者が居るだろう。さて、誰かな」
左大将はそれまでいい気分で酔っていたところを、急に冷たい水を頭からかけられた様な気持ちになった。
「誰の娘が一番素晴らしいだろう? 何か品物を賭けて、娘比べをして勝った者に与えようか」
すると左大臣が口を開いた。
「どうも、この中にはその様に非の打ち所の無い娘を持っている者は無い様です。そうですね、この中では平中納言だけが娘を持っておりましょう。ですがその娘もまだ幼いと聞いておりますが」
やれやれ、とそれを聞いていた涼は思い、口を開いた。
「左大将どのこそ、姫君をたくさん持っていましょうが。そして世の中で有名な人々をあちこちから集めて婿に取っておしまいで。しかしまだ一人二人残っているとも聞きますが」
左大将はちらりと恨みがましい目で涼を見た。
一体どういうつもりでその様なことを彼が言うのか、正頼には判らなかった。あて宮をもらえるという気持ちの余裕なのだろうか、しかしまだ決定ではないだろう、と。
涼にしても、あの神泉苑の宴で帝の言葉は決定だとは思っていなかった。
確かに自分と仲忠はあの場で素晴らしい演奏をした。
が、あれは酔いの場だ。正式な命という訳ではない。
実際、あれから幾度も文も贈り物もしてみたが、あて宮自身からの返事はまるで来なくなってしまった。
口約束だ、という彼の読みは当たっていた様である。
もっとも彼は格別それで落胆した訳ではない。元々あて宮にさほど気がある訳ではないからだ。
それよりは相変わらず「女房」と名乗っている文の書き主の方が面白い。
できれば本当の名を知りたいところだが、当人が隠したがっている以上、むげに聞くこともできない。
まあ三条に越したことだし、やがて女房達の口からそのあたりは判るだろう、と彼は結構楽観していた。
「私の元にも一人は居ります」
「一人だけではないでしょう。大勢おありと聞いておりますよ」
「失礼な物言いですな」
横で聞いていた兵部卿宮も笑いながら、ちらと端を見る。おやおや、と彼は顔色を無くし、物も言えないでいる実忠に気付いた。
そんな実忠の様子に気付いているのかいないのか、東宮は口元に笑みを浮かべながら正頼に向かって言う。
「では
「東宮さま」
「ねえ左大将、どうして私をあて宮の懸想人の仲間に入れてくれないのかな。悲しいねえ」
嫌味な言い方だな、と思いつつ、左大臣が言葉を添える。
「東宮さまのお言葉がありましたら、正頼はすぐにでもあて宮を差し上げることでしょう」
「と言っても、私はかなりの奥手でねえ。その様に面と向かって言うなんてこと、どうしてもできなくて、まだ左大将には言っていなかったのだよ」
ほぉ、と左大臣は声を立てる。
「だから何かのついでにとは思っていたのだけど。あて宮には何度か文を送っているんだけど、どうもあの方、はきはきと返事を下さらないのでね」
懸想人達は東宮の愚痴の様な言葉に、揃って「もう駄目だ」と思った。
何せ東宮である。
東宮があて宮を望むなら、自分達がどうこう言ったところで、もうどうにもならないだろう、と彼らは思った。
特に実忠の様子はひどかった。呆然として宴が終わってもその場から動こうもせず、従者がほとんど引き立てて帰る様な状態だった。
そこに居た他の懸想人も、嘆きはした。平中納言も兵部卿宮も、「負けた」という思いで一杯だった。
しかしそれはあて宮への気持ちではない。懸想人としての自分が負けたことに対する悔しさだった。
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