第7話その2 老宰相の話を仲忠の文で知る涼は、都に出ようか考え出す
真菅はその頃、女を呼んで返事を催促していた。
「ちゃんと送ったのか?」
「ええそれはもう。ちゃんとお返事をもらって来ると約束しましたから」
「では早く貰って来い」
まあ何ってせっかちだ、と慌てて女はなかとの所へ行った。
「お返事を戴きに参りました」
「お返事ねえ」
なかとはふう、とため息をついた。
「お文というのは、どなたのお返事であっても、一度くらいでお返事がある訳じゃあないのよ。度々の文があって、初めて一度お返事遊ばすのが普通なんだよ」
「そうですか。じゃあ殿にはそう申し上げましょう。あ、でも。一応そういうことがあるんだ、ということを文にしていただけませんか? ここだけの話ですが、うちの殿様、気が短くて」
そのくらいはいいだろう、と彼女は思った。
何も持たずに彼女が帰ったら、何か罰を受けるかもしれない。なかとは書く。
「大変いい折を見て、あなた様の仰せ事は申し上げさせました。しかしこういうことはどうして早々とお返事申し上げる方がありましょう。ご心配なさいますな。あて宮はもうご自分のものとお思いなさいませ」
女をそれを持って帰った。
真菅はいそいそとそれを開いた。が、どうも姫君の字ではない。しかも内容も。
途端、癇癪が爆発した。
「こいつはひどい
「め、めっそうもない」
「ええい黙れ黙れ! お前にやった米二石、とっとと耳を揃えて持って来い。お上に今すぐ訴えてやる!」
そう言うが早いが、真菅は女の髪に縄をつけて後ろ手に縛り、大きな木にくくりつけた。
女は半狂乱になって叫んだ。
「何をなさいます。よく御文をご覧下さいませ! あの乳母からでございます! 乳母が姫君がお返事をしない事情を申し上げているのです!」
「何」
一度放り出した文を真菅は慌てて拾い上げ、見直す。
途端、悪鬼の様な形相が緩んだ。
そして女の元へ近づき、手づから木から降ろし、縄も解いてやった。
「いやいやいや、あの方からかと期待していただけにな、筆跡がどう見ても若い女人のものではないのでお前が騙したのかと思ったのだよ。乳人か。いやいや、許せ」
そう言って簀子に筵で席を作り、食事を与えた。
食べながらも女は気が気ではなかった。米二石と布十匹をもらっても、何か非常に嫌な感じがした。
「事が成就したら、千匹もの綾錦でもお前にやろう。今のことは忘れてくれるか」
「頂けるのは嬉しいことですが、これから先も何かとこんなことがあるんでは、事の成就の暁にもちゃんともらえるかどうか怪しいものですねえ」
「何だその言いぐさは」
真菅は再び腹を立てた。
「だいたいお前は賎しい女のくせに何を生意気なことを言うのだ。ええい、また縛ってしまえ! お前なぞ居なくとも、こっちは物持ちだ。何とかするわ!」
「できるものならどうぞ!」
そう叫びながら女は逃げ出し、二度と顔を出すことはなかった。無論食事はきちんと平らげていた。
そして、この一部始終を見ていた帯刀は、柱の陰でため息と涙を落とすしかなかった。
真菅は次に、あて宮に仕える「
殿守は満面に笑みを浮かべて「それはたいそう宜しいことです」と言った。
真菅は彼女綾十匹と銭二十貫を取らせた。
*
……と、そんなことを仲忠はあて宮づきの
成る程、彼女を通してあて宮周辺の情報を手に入れている訳か、と涼は納得した。
自分にもそういう女房が居れば面白いのにな、と涼は思う。
そしてまたしばらくして、話題の滋野真菅に関する新しい情報がやって来た。
*
「秋めいてきましたね涼さん。海は如何ですか。こちらではなかなか面白いことがありました。例の滋野の宰相です。どうも彼、殿守に『あて宮を今月二十一日にお迎えしたい』と言った様で」
素晴らしい思い込みだ!
涼は思わず感心した。
無論、今まで返歌の一つももらった訳ではない。そんな話を聞いたこともない。
それでいて、日取りまで指定して。
「さすがに殿守も驚いた様です。
しかも『姫君の御物忌みの日はいつか』などと聞いてくる訳だし。
慌てて『そんな急にお迎えなどなさらず、まずよく御消息なさって、御了解を得てからはっきりしたことはお決めなさいませ』と言ったそうです」
それはそうだ、と涼は思う。
「すると帥の殿は、
『何もそんな事するに及ばない。疑われる様な身分ならいざ知らず、贈り物もしようとしている物持ちだし、その上独り者だ。官位もある。何一つ御婦人がお嫌いになる様なことはないではないか』と」
涼は思わず人目も憚らず笑い転げた。これが笑わずにいられようか。
いや確かに嫌いになる様なことではないかもしれないが。
独り者というなら自分だってそうだ。
物持ちという点でも退けは取らないだろう。
官位こそないが―――
しかし官位どころか、そもそも東宮すら求愛しているというのに、そのことは全く考えていないのだろうか。
涼はこの老人の考えの偏りが可笑しくて仕方がなかった。
その偏りが、三春高基とはまた違う所が特に可笑しかった。
三春高基の偏りは一貫したものがある。
高基は「財が全てをかなえる」と思って食うものも食わずに貯めまくり、その財を現在ここぞとばかりにあて宮のために使っている。
彼は自分のやっていることは正しいが、周囲の感覚とは違っていることは知っている。だから目的のためには仕方なく合わせてもやる。
これが彼の勝負所なのだろう。好かれるためには何でもやろうという努力も見られる。筋が通っている。
しかし滋野真菅の場合、自分の思いこみが間違っているなどと全く思っていない。そこが可笑しいのだ。
仲忠は続けている。
「殿守は、ともかく帥の殿を抑えようとして、
『ええその通りでございます。どうしてあて宮のご両親がお許しにならないことがございましょう。ともかくまず御消息を』と文を出すことを勧めたのです。
で、彼には子が何人か居るのですが、そのうちの蔵人や木工の助に、
『お前達の継母君になる方が珍しいと思うような歌を一つ作ってみよ』と」
何でそこで子に頼むんだ! と涼は突っ込みたい衝動にかられた。
「蔵人は笑って、『自分のためなら色々作るんですが、格別人が誉めてくれたことは無いんですよ』とかわしました。
では誰が、と問いつめられて彼は兄の少将帯刀を指名した訳です。
帯刀は『簡単なことです』と言ってさらさらと書いたそうです。
『つねづね仲立ちしてもらっている者に申し上げさせておりましたが、最近おいでいただくことになっているところを掃除し、綺麗にするためにご無沙汰申し上げました。
早くこちらへ来る心づもりをなさって下さい。すぐにでもお目にかかって、細やかなお話もしていただこうと、お待ち申し上げております。
さて歌を詠むということは若者のすることで、私らしくありませんが、若い者が文を書く時にそれで色をつけると噂に聞きますので、私も一首。
―――あなたを恋い慕うので、老いの涙が積もって滝になり、髪も滝の様に白くなりました―――』
それで内々での取り次ぎに立っている宮内の君には、絹や綾を心付けに取らせたそうです。しかし
全くだ、と涼は思う。
三春高基の取り次ぎも、彼女がやっているはずだ。仲忠はそう書いていた。
宮内の君にしてみれば、断る訳にもいかず、さりとて、まじめに取り上げられる様な方々でもなく。
とりあえず物はくれるというからもらっておく。貰わなければ貰わないでまた何かとごたごたが起きるのだ。
そしてそんなことを彼女はよく孫王の君に愚痴るらしい。
孫王の君は歳下だが、左大将の信頼が大きい。
気も利いて、何かと疲れている様子の宮内の君を労ってくれるので、その時ついつい本音が出てしまうのだろう。
孫王の君からすれば、自分の大事な大事な女主人に近づこうとする妙な懸想人を警戒しての行動なのだが、宮内の君はそこまで気付かないらしい。
そして仲忠がそこから情報をもらい、涼に流している訳だが。
全く都人というものは面白い、と涼は思う。
ちなみに彼は、今まで聞いた懸想人の中で、実忠が一番奇妙だ、と思っていた。
無論この真菅や三春高基、それに上野宮も奇妙な人々である。
だがこの三人があて宮を得たいという理由は非常にわかりやすい。そして打算的だ。
「左大将の愛娘を自分の正妻に」である。
気持ちはそこには存在しない。そこに恋心は存在しない。
「妻に欲しい」と「好きだ愛しているあなたが欲しい」とは別物なのだ。
では実忠はというと。
仲忠曰く。
「実忠さんは恋に恋している自分に溺れている様に見えます」
最初にそれを聞いた時、涼は首を傾げた。
まだそれは、吹上の頃だった。雑談の中で実忠のことが出たことがある。
「彼も当初はあて宮を得ることが目的で文や贈り物をしていたのでしょうに、今では彼女を恋い続けることそのものに必死になっている様に見えます」
「恋い続けることに必死?」
「苦しいその状態が、気持ちいいんじゃなくちゃ、僕だったら嫌ですよ」
仲忠はあっさりと言い捨てた。
「だって彼は、元々左大将どのの甥ごどのだもの。僕等よりずっとあて宮に近い訳ですよ。今なんて全然家には戻らずに、婿じゃあないけど、左大将どのの屋敷に住み着いてるし」
「ええっ? でも住み着いているなら」
「そう。いくらでもその気になればあて宮の寝所まで近づくこともできるでしょ?」
全くである。
「忍び込んで既成事実を作ってしまえば、実忠さんだったら左大将どのだって許しますよ。東宮さまだってそうなったらそうそう手も出さないでしょうに」
「でも彼は、それをあえてしない」
「そうなんですよ」
肩をすくめ、仲忠は呆れていた。
「だから僕は思ったんですね。実忠さんは、あて宮が欲しいのではなくて、あて宮を追いかける、この苦しさという奴が大好きなんじゃないかなあ、って」
「私には理解できないな。苦しいのが好きだなんて」
そう言うと、仲忠はくすくすと笑ったものだった。
そんなことを思い出すと、無性に仲忠が恋しくなる。
いっそ都に出てみるか。
だがすぐに「駄目だ」という思いが鎌首をもたげる。
上京を考えたことが全く無い訳ではない。先日友達になった三人のことを思えばすぐにでも飛んで行きたい程だ。
だがやはりこの地で生まれ、過ごした日々は長い。長すぎた。
旅立つには少しばかり背中を押してくれる何かが欲しい。
仲忠の文は、少なからず自分の背中を押してくれるものだった。
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