第4話その3 上野宮の偽あて宮あてがわれ事件、そして五月五日の節句
「何てこと、と私は思わず血の気が引く思いでした。宮様もさすがにそこまでは、と思ったのですが。
『うーん。結局はそれしか無いかもな。目に見える結果はなかなか出ないし。お前等に任せよう』
そんなことおっしゃるのです! ああどうしましょう。ええ確かに私はこちらにお仕えする身ですが、そんな大それたこと、さすがに困ります。何とかならないでしょうか。私はこうやって文を渡すしかできません」
すると正頼はその場で大爆笑した。
「わしをどんな馬鹿だと思ってこんなこと思いつくのやら」
「誠に父が申し訳ないことを……」
彼女はひたすら平伏した。
いくら今は無関係とは言え、父宮の浅はかな考えが恥ずかしくて仕方がない。
「まあそう言うな。あの宮も途中までは良いことをしたのだ。実際に取り立てられた学生も居る。貧しい者も感謝しているだろう。そなたの父宮は決して悪い者ではないのだ」
「そうおっしゃって頂けると非常に有り難く……」
そうなのだ。それが
彼女は知っている。良いと言われることは素直に受け取り、惜しげなくする。
実際、あの屋敷に居た頃、姫君としての扱いを過度に受けたことは無い。
かと言って、脇腹の子と卑しまれることもなかった。
むしろそのあたりは、伯母よりずっと優しいところがあると思っていた。
だがその一方で、あまりにも人の言うことを信用しすぎた。
法師も苦学の学生も無頼の徒も、彼にとっては皆同じなのだ。
もっとも、それ故に集って来る者は上野宮を利用するだけでなく、いい主人とも思っている様だが……
「ともかくあて宮さまをこんなことで盗まれでもしたら」
「そんなことはさせぬ。まあそなたはご苦労だった。あとはわしに任せよ」
孫王の君は引き下がった。
「
「ここに」
「何でも
和政は寺に行き、場所を取ろうとした。
すると待ちかまえていた様に、上野宮に仕えている男共がやって来て言った。
「うちの宮様を邪険にしてるお殿さんの為にゃ、場所なんかほんのちょっともやれないね」
「そんなこと言わないでくれよ。ただ車を一つ置くことができればいいんだ」
「一つでいいのか?」
「中の大殿の姫君達が見物にいらっしゃる。それだけなんだから。頼むよ」
男共は顔を見合わせると、にっと笑った。
「よし、まあ『仇は徳をもって』とも言うしな。いいだろう」
そう言って場所を取らせた。
*
そして法会当日のことである。
「用意はいいかな」
正頼はにんまりと笑う。
そこには、美しい娘が一人用意されていた。
「あの、本当にうちの娘がこれで宮様の北の方になれるのでしょうか」
身分の低い使用人の一人が、おそるおそるそう問い掛ける。
「心配ない。必ずなれるだろう」
「どの」宮かとは正頼も説明していない。彼は歳の頃はあて宮と同じ、大層美しい娘を持っている、ということで話を出された。
美しい装束を着せられ、髪の手入れをされると、娘はまるっきり姫君そのものだった。しかし本人にしてみれば、何が何だか判らなかった。
「あて宮のおかげだぞ。皇族ではない普通の人の身分の良いのよりもずっと良い暮らしができるだろう。だから決してそなたは自分が身代わりだとは言ってはならないよ。自分はあて宮だと心の底から信じているのだぞ」
そう言って正頼はにっこりと笑った。
娘は背筋がぞっとなった。父親の方を向いた。その表情を見て、自分がとんでもないことに巻き込まれているのに気付いた。
お付きには
黄金造りの車に偽あて宮と大人や童を乗せ、
いずれにせよ、よほどの位の者しか乗れない車だったので、中に入っても皆何処か居心地が悪そうだった。
会場である寺では、一応名目である法会は行われていた。
しかし。
あくまであて宮をおびき出すためのものだったから、きちんと高僧を呼んで本式の法会をする訳ではない。古式を真似て、もったいぶった音声楽をする程度である。
そうこうしているうちに、左大将の車が前駆け三十人くらいと共にやってきた。
上野宮はその黄金の車にあて宮が本当に居ると思ったのだろう、「法要を始めなさい」と命じた。
宮のもと普段居着いている身分の低い者達が、声を合わせて法要の真似事を始めた。
正頼側では、何が起こるのか判っているので、この猿芝居が可笑しいやら情けないやらで思わず苦笑してしまう。
そのうち、博打打ちや無頼の若者達が黄金車にと近づき、一気にそれを奪い取った。控えていた正頼の下仕え達は、打ち合わせ通り、一斉に慌てた振りをした。
上野宮は慌てて奪った車の御簾みすを開くと飛び乗る。そこには確かに美しい娘が乗っている。それを見て上野宮は満面に笑みを浮かべた。
「おおやった、やったぞ。ああ、あなたが今まで惜しんで惜しんで絶対にわしにくれようとしなかった姫さんだね」
娘の方は、突然車がさらわれた衝撃と、正頼に言われたことが重く心にのし掛かり、声も出なかった。
「まあ、これで今までのあの左大将の無礼の罪も許してやろうぞ。皆喜べ。やっとこの娘を奪い取ったぞ、双六仲間達!」
おお、と博徒や若者達の声が響いた。牛飼い達も、手をはたはたと打ってはやし、笛など吹いて騒ぎ立てた。
やがて皆で屋敷へと帰り着くと、娘をあらかじめ用意しておいた部屋へ据えた。
娘は呆然として、自分のための部屋を眺めた。
確かにそれまでの暮らしとは天と地の差だった。大殿が四つ、板屋が十、そして蔵もある。庭の池は広いし、山も高い。
もっとも、上野宮自身は案外質素な暮らしである。
寝殿は十人程の侍に守られている。がそれ以上ではない。沢山の無頼の徒は居ても、女房達を数多く置いている訳でもない。
偽あて宮は一緒に連れて来られた木こりの娘ともに、これからどうなるものか、と震えていた。慣れない装束がどうにも居心地悪かった。
そんな娘達の思いは知らない上野宮は、その晩から七日七夜、宴会を開き、酒盛りや管弦を盛大に行った。
博打打ちや
「あなた方のおかげで、念願の思いが叶った。これから御願果しに仏像を作って奉りましょう。万の神にも、お礼に
浜床に据えた、ようやく手に入れた人には。
「あなたのために、この様に多くの神仏に祈った甲斐がありました。いやあ一緒に御願果たしができるなんて、何て嬉しいことだ。―――荒ぶる神ですら、お祈りすれば願を叶えて下さるのに、優しいはずのあなたのお心は何と冷たいことでしたろう」
偽あて宮の北の方は、それでも無学な娘ではなかったので、即座に返した。
「―――住み慣れない宿は見まい、見せて下さいますな、とお祈りしていたのにこういうことになってしまって、……私には神があっても、何の甲斐もありませんでした」
孫王の君はその後、身代わりの娘のことも不安になり、知り合いから時々文を貰っていた。
「宮様は根は単純で良い人ですから、北の方のことは大事になさっています。素性が明らかになったかどうかは――― 正直、私どもには判りません」
もしかしたら、素性は判っていて、それでも優しく北の方として扱っているのかも、と彼女はほのめかしてきたのだ。
*
「どうだろうねぇ」
ある晩、忍んできた仲忠は彼女にそう囁いた。
「私は上野宮に直接会ったことは無いけど、そういう人だったら、案外素性が判っても大事にしてくれるのではないかと思うのだけど」
「どうしてそう思えるのですか?」
ふふ、と仲忠は笑う。
この青年の手は、非常に怖いと孫王の君は思う。
格別なことをしていないのに、彼女の身体はいつの間にか自分のもので無い様な心地になって行くのだ。
「物好きだとは思うけど。でもああいう人が居ないことには、生きていけない人も多いんだよね。君はどう思うか判らないけど」
仲忠はそう言って、そっと目を伏せた。
「どんな理由であれ、ちゃんと食べるものと寝るところを与えてくれる人は、いいものだよ。やって来た物乞いの態度が可笑しいと、何もやらずにからかってあざ笑う様な公達より、僕は好きだけどねえ」
そう言いながら仲忠は彼女の胸に顔を埋めた。
彼は孫王の君の所々
もどかしさに彼女が強請ると別の場所へと手を移すが、指も舌もひどく名残惜しそうに離れて行く。
「あなたのことが大好きだよ、孫王の君」
空々しく聞こえるのに、彼女はその言葉が耳に入るのを心地よく思わずにはいられなかった。
*
そのうち、五月五日の
左大将正頼は必要なものを、自分の持つ実入りのいい荘園地のある国々の受領にそれぞれ用意させていた。
まず、大君の
あて宮以下の女君達には伊勢守が。
正頼と大宮の分は紀伊守が。
婿君達七ヶ所のためには大和守と山城守が。
大殿の上には播磨介が。
子息達には備前介が。
そして臨時の客人のためには、但馬守がそれぞれ用意することになっていた。
当日になると、近江守からはじめ、それぞれが素晴らしいものを揃えて参上した。
節会の始まりである。
左大将邸の正殿に近い池のほとりには馬場がある。そこで競馬が行われた。
子息達、婿君達があれこれ左右に別れて競うのである。
まず最初に、大宮のきょうだいである
二番目は
三番目は
四番目には四の親王と、ちご宮の夫である左衛門督の
五番目には五の親王と、三の君の夫の頭宰相の
六番目には六の親王と、正頼の長男である左大弁の
七番目は兵衛督と、四男右衛門佐の
八番目は五男兵衛佐顕純と兵部少輔が争い、顕純が勝つ。
九番目には九男式部丞清純と七男侍従仲純が。これは仲純の勝利だった。
そして十番目には、八男の皇太后宮大夫の
その後、左近衛だけで
その間、主である正頼は
紅白二組の騎手が、庭上の紅白の
馬場ではこの様に様々な催しが行われていたが、やがて右近衛の者達も大勢やって来たので、そこで宴の始まりとなった。
*
さて。
この日、正頼邸に大勢の来客があったと聞いた帝は、急なことであり、何かと足りないものは無いか、と心配になった。
そこで引き出物になるものを兵衛佐行正を使いにして贈ることにした。
「ずいぶんと華やかな宴となっている様ですな」
御前に遅くまで侍っていた左大臣と平中納言は噂をしながらも、何かと心落ち着かなくなっていた。
帝はそんな二人の様子を見て微笑んだ。
「行ってきなさい。気になるのだろう」
苦笑しつつ、二人は左大将邸へと向かった。
*
正頼も、婿君達もこの大層な来客に驚いたが、すぐに喜び、宴の席に招き入れた。
再び競馬が始まった。今度は左右馬寮に別れての対決だった。かなりの乱戦となったが、最終的には右近衛側の勝利となった。
後はもうひたすら宴に尽きた。
内側には公達、
酒を酌み交わし、あちこちから管弦の音が聞こえ、笑い声、先程の競馬の健闘を称える声、様々に楽しい夜が過ぎて行く。
そんな中、左大臣がぽつりと言った。
「こんな席なのだから、我が息子、実忠が出てきてもいいはずなのに、何故居ないのだろう……」
「御病気だと伺いましたが? 兄上」
正頼は答える。
実際彼は、同じ屋根の下に仮住まいをしている実忠にも、誘いはかけたのだ。
しかし無理強いはできなかった。
左大臣は言う。
「不思議だな。実忠は、昔から病気一つしなかった奴なのに……」
理由が判ってはいるので、正頼はどう答えて良いのか迷う。
そのうちに左大臣はぽつりぽつりと話し出した。
「まあこういう時だし、そなたにも酒の席に紛らわせて、前々から言いたかったことを言おうじゃないか」
「何なりと、兄上」
「それでは言わせてもらうが、……うちの、大した奴でもない実頼でも、そなたは婿にしてくれたのに、どうして実忠はそうできないのだ?」
左大臣は正頼の兄である。そしてその次男は、正頼の四の君の婿となっていた。
「あいつは、うちの沢山居る息子達の中でも一番出来の良い奴でな。わしも一番可愛いと思っている」
まあそうだろう、と彼以上に沢山の息子も娘も持っている正頼は思う。出来のいい子供はついつい目をかけてしまうものだ。
「そなたの所の仲純と大して歳も変わらないことだし、同じ様に目にかけてやってくれないものか」
正頼はそれを聞くと笑いながら言う。
「いやいや、兄上のおっしゃるよりずっと前から、実忠に関してはそう思っております。しかし彼に相応しい様な娘のほうが居ないのですよ。それに今は五月。結婚には忌み月ですし」
本当か? と左大臣の目が訴える。正頼はそれには笑って答えない。
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