第3話その1 若者たち帰宅――仲頼の土産に舅感激し、仲忠を見ては母は過去を思う
さて、仲忠一行が都に戻ったのは四月四日のことだった。
「すぐに皆さん帰ります?」
問い掛ける仲忠に仲頼はいや、と首を横に振る。
「俺はそのまま在原の家に戻る。お前等も一緒に来いよ。やっぱりあの舅どのにはきちんと挨拶をしなくてはな」
「そうですね」
笑いながら誘う仲頼にうなづきながら、行正は宮内卿のことを思った。
宮内卿・在原忠保の家は、仲忠や仲頼の実家の様に生まれながらに裕福なところではない。
「何でも、あの殿は仲頼さまを婿にお取りになってからのお世話で、ずいぶんと物いりだったそうです」
目端のきく女房が、彼に何かと伝えて来た。
「この今の世の中、どれだけ美しい娘であろうと、物持ちで無い限りそうそう通う男など無いところに、仲頼さまを婿にできたことが何よりもの喜び―――とばかりに、先祖代々の財産や、女の方には無くてはならない髪道具の一式まで、惜しいと思われる様なものはずいぶんと売ってしまわれた様です」
それはまた、ずいぶんなことだと行正は思った。
「だが仲頼が仲頼らしく過ごすには、ずいぶんな費用が必要ではないか?」
自分と同程度に帝のおぼえめでたいとしたら。
自分は先の帝、
だが一度婿取りされてしまったとしたら。
「はい。ですからあの方が婿入りされてから、ここ数年のうちに、長年年貢や地代を待って家計に当てていた近江の土地も売ってしまわれたそうです」
行正はそれを聞いてため息をついた。
「仲頼はそれを知っているのだろうか」
女房はいいえ、と首を横に振る。
「向こうの女房に聞いたところ、婿君には決して悟らせない様に、とのことでした」
「そういうところは全くもって、鷹揚な奴だからな」
そこまでして尽くしてくれる舅が居ながら、どうして奴はあて宮に恋などしてしまったのだろう、と行正はしみじみと思う。
少なくともこの直情型の友人が、左大将に繋がるのを目的であて宮に文を送っているとは思えない。そんな器用な奴ではない。
だとしたら、直接姿を見たか、声を聞いたか、はたまた名手と言われている琴の音を聞いたか。
いずれにせよ、実体のはっきりしないものではなく、あて宮そのものに惹かれなくては友人が動くことはなかっただろう。
「それでは今度の吹上行きでも向こうは苦労するだろうね」
「はい。……正直、失礼ながら、仲頼さまが少し憎らしゅうございます」
「憎らしい」
「旅支度のために、殿は
「……きっとそのことも、決して仲頼には気付かせないのだろうな。奥ゆかしい人だから」
実際、出かける時の支度はきちんとしたものだった。
供人も、道中の食料も吹上までの充分なものが用意されていた。
「仲頼さまの北の方は『正月の節会にはどうなさるのですか』と驚いたそうですが、父君は『今年の稲が豊作だったらすぐ返せるよ。心配はない』とおっしゃったそうです」
しかし稲が豊作かどうかなど、決して思う通りに行くものではない。苦労を知っている人がそのことに気付かないはずはない。
行正は、戻った折りには何かしらの礼をしないことには、と思ったものだった。
と同時に、友の心を奪うあて宮が、恋しいながらも多少憎くも感じられた。
*
宮内卿宅では早速、彼等の帰りを祝ってささやかな宴がひらかれた。
「あちらは如何だったかな? 浜辺のご馳走に満腹しておいでになっては、この山里など大したものではないだろう」
宮内卿は謙遜して言う。仲頼は答える。
「いえ、こちらが気掛かりで、おちおちご馳走も頂く気持ちになれませんでした。どれだけ美しい景色、素晴らしいもてなしを受けたとしても、側に居るべきひとが居ないことには」
「そう言って下さるのは非常に嬉しい。これからも私達の大切な娘を大事にしてやって欲しい」
宮内卿の言葉が、行正には非常に重く響いた。
「そう言えば、お土産があるのです」
仲頼はそう言って、吹上からの土産ものを持って来させる。
「おお、これはまた素晴らしいものを……」
―――そう、吹上で、彼等は帰り際、贈り物をどっさりと受け取っていた。
種松は涼のためなら、とばかりに精巧な細工物を三人に用意させていたのだ。
まず「はたご」一掛。
「はたご」とは通常、馬の食料を入れる「竹」籠のはずだ。
だがしかし現実のそれは、明らかに銀製。しかも高価な沈木で作った鞍を置いた銀の人馬に牽かせている。その山形の蓋を開けると、唐の綾、羅や紗といった美しい布が積み重ねられている。
次に沈木作りの男に引かせた同じ作りの
だがそこには
また、色々の唐の組み紐で籠の様に編んだものが、
銀を散らした鋳物の海。
そこには造花を付けた沈木の枝を沿えた、
島の上には銀や沈で作った鹿や鳥も置かれている。
海には大きな黄金の舟。
舟には薬や香の入った袋、沈の
そして折櫃には銀の鯉や鮒が。
煌めかしい壺には、またそれに似つかわしいものが入れられ、麻で結んである。
それらの美しい見立て物に加え、帰りの旅行用の装束を「一日一装」ということで一人につき三装、それに
加えて、それぞれに動物の贈り物。
仲忠には様々な
仲頼と行正には、馬は黒鹿毛で、牛は堂々とした暗黄色のものだった。
無論、道中の食料も用意された。いやそれだけではない。また別に米をそれぞれに二百石入れた舟を二艘ずつそれぞれ送られている。
北の方からは銀の透箱を送られた。それぞれに黒方の香木の墨、砂金、金幣、銀幣が入っていた。
―――で、これらの煌々しいもののうち、沈の破子を仲頼は宮内卿に送ったのである。
「義父上、それに加えて、牛も四頭頂戴致しました。ぜひ受け取って下さい。それに妻と義母上には」
と、透箱を渡した。
ありがたいことだ、と宮内卿はうっすらと涙ぐんでいた。
**
「ずいぶんと長かったね」
仲忠は宮内卿宅からその足で、桂の別荘へと戻った。
「心配かけました。父上。母上はお元気ですか?」
「そんなに心配ならすぐさま行ってやるがいいさ。ところでお前、吹上はどうだった?」
「文で色々お伝えしたでしょう」
「お前の口から聞くのが一番さ」
「まあそれはおいおい」
「おいおいかい」
「一言では言い尽くせません。あ、素晴らしい馬をいただきましたので、それは父上に差し上げます」
「馬かい?」
「素晴らしい馬ですよ。皆四頭づつもらいましたが、それだけではなく」
細工の馬を渡すと、ううむ、と兼雅は腕を組んだ。
「そういうものをぽん、と土産にできるとはさすが『財の王』だ。さてさて他の話は無いかい」
「……っと、僕は母上にお土産を渡さなくちゃ」
素っ気なく仲忠は父の元を立ち去った。
*
「まあお帰りなさい」
そう言ってゆったりと北の方は微笑む。
透箱や、細工物を渡すと彼女はまあ、と小さく声を立てた。
「こんな、勿体ないわ」
「母上以外には誰もあげたいと思うひとが居なくて」
「そんなこと言って。聞いていますよ。あて宮に文を出しているのでしょう?」
「ええ」
やはり素っ気なく仲忠は答える。
北の方はそんな我が子を見て、少し不安になる。本当に息子はその女性に恋をしているのだろうか。
世の中の男が一体どうなのか、彼女は知らない。夫一人である。
息子が外で何をどうしているのかも知らない。
彼女はただ、いつもじっと待っているだけである。昔から。
そう、父、清原俊陰が存命中からそうだった。
父が何をどう思って、当時の帝、現在の嵯峨院からの誘いを疎んじ、治部卿という肩書きのもと、人に殆ど会わない生活を続けていたのか判らない。
ただ彼女がその人嫌いの余波を受けていたのは事実である。
母の早世がそれに拍車をかけた。
父は母を追う様に亡くなった。
それ以来、その頃には彼女に打診されていた入内の話や、様々な公達からの文だのは影も形も無くなってしまった。
当時の彼女は知らなかった。
宮内卿忠保が思う様に、世間では親の権勢や財産を武器に婿を手に入れることが多かった。「治部卿」亡きあとの彼女に用のある男は無かった。
彼女は一人残された。
仕える者も一人減り二人減り……
出て行く際に彼等は家財のなにがしを持ち出した様だが、奥床しい、言い換えれば世間知らずの姫君は無論知らなかった。
気付いた時には、寝起きする部屋の、更に一角にしか物は残っていなかった。
忠実な
せめてもと、乳母はその召使だった「嵯峨野」という名の
―――嵯峨野は実に現実的な女だった。
特にその力は、彼女が兼雅と契って後に発揮された。
彼女が兼雅と出会ったのは、秋八月も半ばの夜である。
彼は夜になってから一人出かけていったのだ。元服前の甘やかされた「若小君」にしてみれば冒険だったのだろう。
聞こえてくる琴の音に彼は誘われ、彼女の元へと辿り着いた。
二人はその日のうちに恋に落ち、二晩幼い手で互いを求めあった。
だが次に二人が出会うには十年という月日が必要だった。
何しろ当時の太政大臣の秘蔵っ子の四郎君と、何処と誰とも知れぬ娘である。
彼には彼女を探す術も力もなかった。
そして彼女は彼どころではなかった。妊娠していたのだ。
その妊娠を、産み月近くなるまで気付かなかった。いやそもそも、そんなことが起こるとも知らなかったのだろう。
身体の変化に気付いて指摘したのは、嵯峨野だった。
月のものが無かったか、と問いかけても「そんなものかと思っていた」とあっさり答える姫君である。
任せておけぬ、とばかりに、この媼は老体にむち打って走り回った。
食事の世話から出産、生まれたばかりの赤子の世話も、授乳以外の全てをこの媼は受け持った。正直言って、仲忠が無事生まれたのはこの嵯峨野のおかげである。
やがて仲忠が五つ程になった頃、この逞しい媼は亡くなった。
兼雅の北の方となった今だったら、どれだけのことが嵯峨野に返せるかと思うと、非常に彼女は胸が痛む思いをする。
しかし嵯峨野亡き後の暮らしには辛いものがあった。
正直、彼女は自分が日々何をしたらいいのかもさっぱり判らなかった。
それまでは、嵯峨野が食事を用意してくれたら食べ、しなかったら何も食べない。
彼女は食事を作ることができなかった。
それ以前に食べ物を得ることを彼女は知らなかった。
どうしたらいいのか判らないままに、それでも残されたものや水を口にしていたうちはいい。
それすらも無くなった辺りから記憶はぼんやりとしている。
腹が満たされたと思ったのは、仲忠が運んできたものを口にしてからだった。
幼い仲忠は、親切な人が食べ物をくれた、と言った。彼女はそれをそのまま信じた。信じようとした。
時には魚を「自分で取った」と言った。
時には疲れ果てた格好で木の実や芋を手にしていた。
それらを調理したのも彼である。母親は何も知らなかった。
「母様は何も心配しないで」
そう仲忠は言った。確かに言った。
およそ子供の言葉ではなかった。思えなかった。
それ以来、彼女は息子の言葉には何でも従っている。
疑ってはいけない、と思っている。
それが良いか悪いかは判らない。彼女には判断できない。
彼女が判るのは、琴だけだった。
琴。
そう、彼女は父、清原俊陰からその手の一切を伝えられていた。
当時、人嫌いになった父は。屋敷から出ることが殆ど無くなっていた。
名手と謳われたその琴の琴を彼女に教えること以外、何もする気が起きなくなっているかの様だった。
血であろうか。四歳位から習い始めたが、十二三歳くらいで、父の教えること全てを覚えてしまった。
その父から受け継いだ琴だけを持ち、彼等は当時、山の空洞うつほに移り住んでいたのだ。
そこは不思議な所だった、と彼女は今になれば思う。
人が住むべき場所ではないにも関わらず、住めるかの様に仲忠が整えてくれたのだろうか。寂れ果てた屋敷の一角と大して違いは無いくらいの場所になっていた。
いや、近くに果物や木の実の採れる木、清らかな水がわき出る泉があるあたり、屋敷よりずっと住み易く思えた。
ここなら誰かに水を汲んできてもらうのを待つではなく、自分で立ち上がり、取りに行くこともできる様な気がした。
それに何と言っても、そこは山深く、誰の目も気にする必要が無いのが嬉しかった。
つまるところ、彼女が何もしなかったのは、彼女自身の「姫君」という自意識が、身体の動きそのものまで縛っていたとも言える。
仲忠は「母上はそんなことをしなくてもいい」と言った。
だが彼女もさすがにその時には、自分の身の回りのことは自分でする様にしていた。鏡に映る自分の姿があまりにも悲しかったのだ。
顔を洗い、豊かな髪を梳り、暖かく爽やかな日には洗髪もした。
仲忠は何故か色々なことを知っていた。
時々ふいと姿を消すと、山の食料を取って来て、時には火を起こし、簡単ではあるが調理もした。
汚れた服は洗う。破れれば繕う。寒くなれば、何処からか持って来る。
無理してはいけませんよ、と言いながらも、彼女には息子を止める力はなかった。息子が何もしなかったら、育ち盛りの少年と、女盛りの母は生きては行けなかったろう。
何もできない自分というものを、彼女はひどく思い知らされることとなった。
せめても、とばかりに彼女は仲忠が七歳になった頃から琴を教えだした。
俊陰から伝えられた琴のうち、比較的穏やかな音を出す「ほそお
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