第2話その1 三条殿の姫君達の懸想人の噂―――異様に執着の激しい実忠
「あなたはどう思っているか知らないけれど」
拳を握りしめ、一人の少女がまくし立てる。
「私はあの方、一番困った人だと思うわ」
「そうかしら? 一番熱心じゃないの」
その側で、別の少女は目をきょとんとさせて問いかける。
「確かに
「そぉ?」
「そうよ」
「そうねえ」
更に別の少女は脇息に頬杖をつきながら言う。
「あなたはもっと若くて綺麗な方が好みだものね」
「や、そういうことじゃあなくて」
「違うの?」
「や、それはそれで違わないけど…… もう!」
くすくす、と少女達は笑い合う。
そしてそれを傍らで眺める少女がもう一人。薄い笑みがその表情を覆っている。
「んもう、そもそもあなた自身はどうなのよ、あて宮」
「……そうね」
それ以上の答えは無い。
*
都の三条大宮に、数町の広大な屋敷が建っている。
今を時めく左大将、
「三条殿」と呼ばれるそこには、彼とその妻子、そしてその連れ合いが同じ屋根の下に暮らしている。
正頼は妻を二人持つ。
身分といい、後ろ盾といい、どちらも正式な妻である。
その彼女達からは息子が十二人、娘が十四人生まれている。
そしてそのうち、帝の妹君である大宮から生まれた子供達は特に出来が良かった。
女御となっている大君を初めとして、息子達は将来を嘱望され、娘達には次々と求婚者が現れた。
中君から八の君は既に婿が通う身である。
宮や大臣、さもなくば将来を期待される若者の元に彼女達は縁付いている。
故に現在、男達の視線は、そのすぐ下の娘に向けられている。
「左大将の婿」という地位が欲しい者、好色な者、ただひたすらに純情に慕う者、理由はそれぞれであるが、狙いはただ一つである。
九の君、あて宮。
彼女はそう呼ばれている。
*
「また黙って。あて宮は誰が好きとか、そういうのは無いの?」
少女の一人はぐっと身を乗り出す。
「あなたはいつもそうやって本当のことを知りたがるのね、今宮」
あて宮は
「ええそうよ」
良く似た顔同士が近づく。
「私は色々なことが知りたいの。全てがはっきりするのが好きよ。姉上達とは違ってね」
そしてぱっ、とあて宮から離れると、あはは、と口を大きく開けて今宮は笑う。
彼女は十の君。あて宮の一つ下の妹である。
顔立ちは姉と良く似ている。美しいと言って間違いは無い。
違うのは印象だ。
明るく華やかな色の小袿をまとい、その上に艶のある黒々とした真っ直ぐな髪が流しているあて宮に対し、今宮は地味な色合いの細長に、やや赤みがかった髪を耳ばさみに後ろで括っている。
この時代の美しさはその「印象」にかかっているだけに、二人の違いは大きかった。
「あなたの乳母が嘆くわよ、また」
「構わないわよ。ねえ
脇息にもたれていた少女に呼びかける。少女は身体を起こし、ねえ、と今宮と声を揃える。
一宮と呼ばれた彼女は今宮と同じ歳である。姉妹ではなく、姪にあたる。彼女達の一番上の姉、
女御が生んだ宮は皆、この三条殿で育てられた。
特にこの女一宮は、あて宮と今宮、そしてもう一人、結婚したばかりの八の君、ちご宮と一緒に居ることが多かった。
そして女が集まると姦しい。
この時期、彼女達の話題は、あて宮の求婚者に集中していた。
「さて、今までどれだけの人から、あて宮はお文を頂いたかしら?」
一宮が訊ねる。
「沢山よね」
ちご宮は答える。
それに応える様に、今宮は指折り数える。
「確か、右大将兼雅さま、
「ふふふ。
一宮が面白がって付け加える。
あて宮は不愉快そうに眉を微かに寄せる。
彼等三人はある方面では有能だが、多くはその奇行ぶりで冷笑の的となる者達だった。
「ああ、それと何と言ってもこれを忘れてはいけないわ。東宮さまもその一人!」
「どの方が一番素敵だと思う?」
一宮は皆に問い掛ける。
「難しいわねえ。皆それぞれに素敵な方じゃないの。それに私にはもうその話をしても仕方ないでしょう」
既に夫を持つ身であるちご宮は苦笑する。
「ああ御免なさい。でもそれはそれとして」
「それはそれとして?」
「そう、それはそれとして」
それなら、とちご宮は首を傾ける。
「何と言っても、姿が素晴らしいのは、仲忠さまかしら。美しい方よね。でも私、行正さまの声は好きよ」
「あの方は確かにいい声だわ。でも少し軽薄そうに感じるのよね。本気が感じられないって言うか。丁寧すぎるって言うか」
今宮は軽く眉を寄せる。
「姿なら私も同じだわ。仲忠さまが一番よね。今の都の若い方で、あの方に姿形で勝るひとなんて居るのかしら、ねえ、一宮」
「もう!」
一宮は頬を赤らめ、大きく首を横に振る。
「……蹴鞠の時なら、仲頼さまが結構格好良かったわ」
「そぉねえ。あの方は動いている時の方が格好いいのよね。お歳はもう右大将さまに近いというのに元気だこと! 仲忠さまは全然そういうことはしないのが残念」
「お父君の方は? ねえあて宮」
「立派な方ね」
短く答える。
三人の少女はまただ、と吐息をつく。
今宮は思う。一体、この姉には好きとか嫌いとかいう感情があるのか、と。
*
今宮は姉の求婚者の大半が嫌いだ。
そしてその中で一番嫌いなのは、源宰相実忠である。
彼は熱意がある。恐ろしい程にある。それだけは認める。
だがそれが、彼を嫌いな最大の理由であった。
今宮は自分づきの女房に調べさせていた。
実忠があて宮に思いをかけ始めたのは、裳着の式を行った十二歳の二月からである。
あて宮の乳母子である「
あて宮はその時こう答えたという。
「その卵の様に、恋心が孵らないことを願うわ」
次に彼は、桜の花びらに歌を書き付けて兵衛の君に渡したという。
困った兵衛は「誰宛とも知れませんが」とあて宮に見せた。
するとあて宮はこう言ったという。
「誰ですか、兵衛に言い寄って来るのは」
無論、誰宛てかなどお見通しだった様である。
また別の時である。
島が趣深くできた
大層手の込んだものであったせいだろうか、あて宮はこう言って兵衛を怒ったと言う。
「どうしていつも困ったものを私に見せるの」
だが兵衛もここは引かなかった。
「まるで世間の物事を知らない方の様に思われますよ」
と。
そこまで判らないひとだと、自分の姫君が思われたくないのだ、と彼女は暗に訴えた。
そこであて宮はこう言ったという。
「では兵衛の言葉としてお返しなさい」
そして歌を返した。
実忠はたいそう喜んだとのこと。
しかしそれで味をしめたのだろうか。次の文にはこう書かれていたという。
「強いて申し上げたのでお気に触ったと思います。これからは思い切って文は出さないことにします。
―――死ぬと言ったら世の中の人は物笑いにもするでしょうが、私にとっては、いっそそれも本望です。あなたを思い続けている私の命はあなたの思いのままなのですから」
兵衛はため息をつきつつ、今度ばかりは、と頼み込んだそうである。
仕方なくあて宮も歌を詠み、今度は自分からのものとして渡したという。その歌もまた実につれないものだったという。
だがそんな歌であっても、それを受け取った実忠が嬉しがったことは言うまでもない。
そしてとうとう、月の美しい夜に寝殿に立ち寄った実忠は、兵衛を呼び出し、庭の花の美しい様子と共に、自分の苦しい物思いを切々と語ったという。
特に「
「この様にあの方におっしゃらせて、こちらが何もしないということがありましょうか」
だがあて宮はそれには平然として応えなかった。代わりに仕方ない、とばかりにちご宮が動いた。箏の琴を弾きながら、歌を返したのだ。
ちょうどその時、今宮もその場に居合わせた。
実忠は聞こえてきた箏の音と歌に対し、喜びに満ちた返しをした。
さてそこで、今宮の中に微妙な嫌悪感が生じた。
ちご宮の歌自体が、誰とも推測のできないものだったからかもしれない。だが実忠の返しもまた、誰に対してなのかはっきりしないものだった。
彼女は実忠が居なくなってから、ちご宮に尋ねてみた。
「あの方は、さっきのがお姉様なのかあて宮なのか判っているのかしら」
ちご宮は困った顔をした。そして取りなすように木工の君が答えた。
「こういう場面では、実際には誰であっても良いのですよ」
それに彼女は余計にむっとした。
それじゃあ「あて宮」という名がついていれば、誰でもいいということになるじゃないの。
彼女はそう思ったのだ。
おりしも上野宮による「偽あて宮略奪」事件が起きた頃である。
古皇子・上野宮は、あて宮の懸想人の一人であったが、こともあろうに、彼女を盗もう、という行動に走ってしまった。
元々無頼の者などを多く身内に入れている宮のことである。乱暴にやり方であれ何であれ。結果さえよければ満足だったのだろう。
だが事前に計画は漏れ、素知らぬ振りで左大将正頼は、美しいが身分は低い少女達を使い、偽あて宮を用意して盗ませた。
上野宮はそれに満足し、その偽あて宮との盛大な婚儀をあげ、―――今もってそれが偽者と気付いていないらしい。
それでは、今この目の前にいるこの姉は、一体何なのだろう。
そんな気がしないでもない。
確かに美しい。
だが、自分や姉と並んで鏡で見比べた時、何処がどれだけ違うのか、という気がしないでもない。
そして噂ばかりで懸想する男達。
実忠はその後、志賀に詣でたり、比叡山に籠もっては歌を送ってくることが多くなった。
あて宮はそれに対しては、返したり返さなかったりと、気まぐれだった。正直、兵衛の君も自分の主人の気持ちを量りかねた。
とりあえず彼にはこう言っているという。
「あて宮様は、あなた様に北の方がいらっしゃることが気がかりの様です」
そう、彼には既に妻子が居るのだ。
三条堀川のあたりの自宅に北の方を据えて、
だがあて宮に懸想してからというもの、彼は左大将の屋敷に客人としてずっと居座り、家には全く寄りつかなくなってしまった。
「いやもう何というか、哀れで…」
偵察に出した彼女の女房は涙ながらに語った。
二人の子のうち、十三になる真砂子君は、特に父親が大好きで、帰りを今か今かと待ちわびていたのだという。
母君も実忠に帰りを促したが「もう少し待って欲しい」というだけだったという。
北の方は「今までが幸せ過ぎたのだ」と思ってただもう堪え忍んでいたが、子供はそうはいかなかった。
「父上がいらっしゃらないのは、もう私達の――― 私のことをお嫌いになったからだ」
真砂子君は実際はともかく、そう思いこんでしまった。
どうやらこの少年は、思い込みの激しい性格を受け継いでしまったらしい。
少年はそのまま次第に病気がちとなり、やがて父君を恋い慕いつつ亡くなってしまったのだという。
実忠はそれをまるで知らなかった。
それどころか、彼がそれを知ったのは、比叡に恋の成就を願いに行った時だったのだ。
同じ場所で真砂子君の四十九日の法事を行っていた。その時ようやく彼は、自分の息子が亡くなったことを知ったのだ。
「それでも懲りずにあて宮に恋しているなんて」
熱心を通り越して気持ち悪い、と彼女は思わずには居られないのだった。
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