第1話その2 仲忠くん、吹上のあるじ、源涼くんと浜で出会う

「何?! 仲忠がいない?」


 仲忠の供人が、顔色を無くして報告してきた。仲頼と行正は二人は顔を見合わせた。またか、という表情である。


「は、はい… 急に何か思い立たれたのか… 馬を走らせて…」


 あっという間に見えなくなったのだという。


「若君のことですから、こういう所では何かしらなさるかも思ってはおりましたが… こう不意に… 申し訳ございません」

「まあ… それはいい。そなたも苦労だな」


 仲頼はふう、とため息をつく。

 周囲では自分の供人達が何事かと彼に問いたげな視線を送る。

 少将の供人には将監以下の部下、それに馬副や小舎人などで総勢四十名を越える。

 行正や仲忠も多少の違いはあるにせよ、多数の供人を従えているのは同じである。

 その彼等を放って、主人は何をしているのか。

 ふと行正は空を見上げる。春先ののどかな空だ。風も柔らかで、微かに潮の香りがする。


「馬は?」


 問い掛ける。


「少し向こうに乗り捨ててありました。…それに烏帽子も」

「烏帽子だけか?」

「い、いえ、履き物も…」


 仲頼はそれを聞くとちら、と友人に目配せをする。


「松方、浜は近いのか?」

「へ? 浜ですか?」

「以前、そなたはここに来たのだろう? ここから浜は近いのか?」

「ええ」


 松方はうなづく。


「馬を走らせれば、吹上の浜はもうすぐです」

「待ちきれなかったんだな、あいつは…」


 行正は口の端を歪める。


「けど烏帽子まで取るか?」


 ぽん、と仲頼は自分のそれを叩く。行正はふっと笑う。


「しかし判らなくもないですね」

「そうかぁ? 俺は駄目だな。裸になっちまった様な気がいる」

「それはあなたが子供の頃から見慣れているからですよ。私には少し彼の気持ちが判りますがね」

「…あの、」


 仲忠の供人は戸惑いながら言葉を投げかける。だが続かない。


「ああ、そうだな… 松方」


 仲頼が呼びかける。


「はい?」

「道を知っている者は、そなたの他に居るか?」

「先日私と一緒に参りました者なら」

「では俺達は少々寄り道をするぞ。そなたも一緒に来い。浜への案内をしてくれ」

「わ、私も参ります!」


 仲忠の供人が慌てて声を張り上げた。



 すずしが仲忠に最初に会ったのは、浜だった。

 珍しい。

 彼は思った。

 見渡す限りくすんだ色の砂、砂、砂。

 浜のこの場所に人が来ることなど滅多に無い。ましてや、自分と同じ年格好の青年など。

 足跡の先は、遠い。

 そっと近寄る。見下ろす。しゃがみこみ、水に手を浸している。

「何をしているの?」

 問いかける。青年は、黙って顔を上げる。

 丸く瞳が見開かれる。

 と。


「あわわわわわ」


 声が上がる。

 す、と波が引いていく。足元の砂もまた。ぴしゃり。青年は尻餅をつく。


「おやおや」


 くすくす、と涼は笑う。青年はむっとした顔で見返す。


「海は初めて?」

「初めてですよ」


 膨れる。くるくると変わる表情。珍しい。


「初めての方が、裸足で波打ち際? 怖いもの知らずだ」

「……珍しかったんです。ただもう」

「珍しい?」

「湖とは違う。とても広い。こんな広いとは思わなかった」


 ゆっくりと立ち上がる。


「湖には行ったことが?」

「幾度か。悪友達に連れられて行きました。湖は静かで、果てがある… 安心できる」

「ここには果てが無い。で、怖くなった?」


 青年は黙って口を曲げる。


「怖くてはいけませんか?」

「いや」


 即答する。


「海は広くて大きい。そして恐ろしい。それは当然のこと。ほら、あの波を見てごらん」


 指さす。

 青年はつられる様に顔を上げる。低い音と共に、白い波が湧き立つ。

 光の方角。朝の終わり。


「眩しい」


 青年は目を細める。


「眩しくはないのですか?」

「私は平気。慣れている」

「僕も眩しいものには慣れていると思ったのですが」

「湖で?」

「いいえ、山で」

「山」

「ああでも、あの眩しいのは光じゃあなかったな…」


 言う間にも、波はその形を刻々と変えて行く。


「空と海との境が判らない…」


 青年はつぶやく。


「空と海はつながっているのでしょうか」

「空は空、海は海だ」


 涼は答える。


「空は何にも侵されることはない。たとえ澱んだ雲に覆い尽くされ、降り注ぐ雨が海に還ったとしても、空は空であり、それ以外の何ものでもない。海はその空の色を映す。映すことができる海は、空と同じではない。そこには必ず境がある」

「……よく判りません」


 青年はぐっ、と目を一度瞑る。


「だけどこんな、光に満ちた瞬間には、……確かに、空と海はつながっている様な気持ちになる。海の果ては夢の果てだ、と知っていた人が言っていた。その人は、海に友人を送り出した。だが戻っては来なかった」

「僕の祖父も海に出たのだと聞いています」

「君の」

「いえ、祖父は戻りました。運の良い方でした」

「戻られたのか」

「ええ。でもそれから祖父の心の中には、大きな空洞うつほができてしまったのだと、―――母が教えてくれました」

「ご存命ではない」

「僕が生まれる少し前に」


 ごぉ、と遠い波の音が流れて行く。風の音が耳に飛び込む。


「だから、ずっと海のことは気になっていました。その果ての国のこと。果ての国に居る方々のこと。音。音楽。それに」


 青年は涼の方を真っ直ぐ向く。ふっと笑う。


「琴」


 琴?  

 問い返そうとした時だった。


「おーい、仲忠ぁ!」


 波の音に混じって、声が聞こえた。


「あ、見つかっちゃった」


 青年は肩をすくめる。

 声は、彼の足跡の向こうからだった。やがてその主が馬で駆けてくる。


「若様ーっ! あれほど勝手に行かないで下さいって言ったのに!」


 馬の脇には、徒歩の男達が幾人か。


「仲忠… と?」

「はい」

「では君は、もしや藤原の?」

「ええ。あの、あなたは?」


 苦笑する。

 ここで、この浜で、一人勝手気ままに振る舞える者など、一人しかいない。


「私は涼と言います」


 そして付け加える。


「この吹上の宮のあるじです」


   *


「……全く、烏帽子も履き物も無しで、あるじの君に会ってたなんて、お前の父上に知れたら何と言われるか」

「いや、だって、空が綺麗で、何か爽やかな匂いがして」


 ようやく合流した友人は、既に目的の地のあるじの君に出会っていた。


「涼どの、お久しぶりにございます」

「ああ松方どの、本当にまたいらしてくれたのですね」


 青年は満面に笑みをたたえる。松方はどん、と自身の狩衣の胸を叩く。


「無論です。必ず近い内に、そして都で有名な方々をお連れします、と約束したではないですか」

「それではこの方々が」


 側で声を張り上げている三人の方を向くと、涼は思わず自分の顔がほころぶのを感じる。

 先程出会った仲忠に、身分では変わらぬだろう二人が烏帽子をかぶせ、履き物を揃えている。


「あの三方は仲が良いのですね」

「いやもう、都で一番よく知られている公達ですからね」


 ほぉ、と涼はうなづく。


「あそこで怒鳴りながら烏帽子をかぶせているのが左大臣家の少将仲頼どの、小さくなってかぶせられているのが侍従の君仲忠どの、その向こうで笑っておられるのが兵衛佐ひょうえのすけ行正どの」

「彼だけが少々お若い」

「ええ。でもいつも皆で楽しそうです。それに今ここにはいらしてませんが、左大将家の侍従仲純なかずみどの、この仲の良い四人が奏上して叶わないことはないと言われている程です」

「なる程、帝の覚えもめでたく」

「ことに、管弦の遊びに関しましては、彼等に並ぶ者は今の都には居ないのではないでしょう」

「彼は」


 涼は視線を仲忠に移す。


「いや、彼等は遊びは何が得意なのですか」

「皆それぞれに素晴らしいのですが……そう、仲忠どのの琴の琴は飛び抜けて素晴らしいとのことです」

「あなたはまだ聞いたことは?」

「残念ながら、無いのです」


 松方は苦笑する。


「あの君は、本当に滅多にその手を披露なさいません」

「確か帝の御前でも」

「ええ全くもって。帝もしかし、あの君に関しては仕方がないとお思いの様子です。本当に優れた手の持ち主は、場を選ぶのだろう、と」

「成る程」


 涼は微かに口の端を上げた。


   *


 浜からさほど遠くない場所に吹上の宮はあった。


「うわぁ……」


 仲忠は馬上で息を呑む。そうだな、と仲頼もつぶやく。


「松方の言った通りだ。本当にこれは『宮』としか言い様が無い」

「そうですね。あ、今あそこに孔雀が」


 行正が遠くを指さす。


「孔雀だけではありません」


 客人達に、あるじの君は笑う。


「色鮮やかな鸚鵡おうむも夏の林で遊んでおりますよ。また後でお見せ致しましょう」

「鸚鵡かぁ… 仲頼は見たことがある?」

「いや俺は無いな。確か行正は、唐に居た頃見たと言っていたろう?」

「遠くからですけどね。街で鳥売りを少しだけ見かけたことがあるだけですよ。確か、人の言葉を真似るんですよね」


 行正は涼に向かって問いかける。


「ええ。賢い鳥です」

「楽しみだなあ」


 のんびりとした仲忠の声に、涼の口元が緩む。


「ああ…… 花盛りだ」


 仲忠は手を上げ、示す。

 宮の東側には海。

 岸に沿って、藤の懸かった大きな松が二十町ばかり続く。

 その内側には桜。樺桜が同じ様に二十町の並木となっている。

 そして更に内側に紅梅が。更に更に内側、北の方にはつつじの並木が、春の色を存分に浮かべていた。


「ああ、花に酔ってしまいそうだ。―――こう言っては何ですが、御所より大きく、華やかだ」

「吹上の宮と呼ぶだけのことはありますね」


 客人達の賛辞に涼は笑う。 


「ただそう呼んでいるだけですよ。目立つ家ですから、そう言えば誰も間違いなかろうと……」


 そう。

 涼は思う。

 本当に、宮などというものではないのだ。ただそう呼んでいるだけだ。祖父がそう勝手に。

 涼が住む場所だから「宮」なのだ、と。

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