最後まで、Yes。

上之下 皐月

第一部 プロローグ

・・・猫が、獲物を狙っている。


僕が初めて“それ”を見たときそれはそんな風に見えた。




例えば、スマートな猫がちょこんと腰をおろし、じっと前を見つめている。


狙いを定めたのだろうか?


ふっと息を吐いた後、おもむろにその動作は始まる。


ゆっくりと、前足を伸ばしながら腰が突き出される。


引き絞った弓のように後ろ脚に体重が乗る。


体重が乗りきった後、その力を前に向かって開放する。


それがもし本当に猫であれば、跳躍し獲物を捕えていただろう。


その全ての動作はゆっくりとしていて、しなやかだった。




猫と違うのは“彼女”の手には玉ねぎのような円形をした、


取っ手の付いたピカピカの“石(?)”が握られている事。


そしてそれが全て氷の上で行われているという事。


「・・・きれいだ・・・」


思わず僕はつぶやいていた。


それが、僕とカーリングの出会いだった。




「どうだ、わへい」


隣で父が言う。


その顔はなぜか得意げだ。


「すごいだろ。日本でも最大級のカーリング場だ。大きいだろう?」


「うん。まぁ、ね」


僕はつぶやいてしまったことへの気恥ずかしさから、彼女の動きに目を止めたまま曖昧に返事をする。


その彼女はというと、後ろ脚を伸ばした体勢のまま彼女は少し滑り、握っていた石を離した。


その石は緩やかに回転をしながら氷の上を滑っていく。


石の横には王に従う従者のように、石と同じ速度で滑って行く二人がいる。


石の行く先には射的の“的”のような円が描かれた場所があり女性が一人立っている。


「イエス!!」


反対側でデッキブラシ(?)のような物を握った女性が叫ぶ。


その瞬間、石の横に付き添っていた二人がデッキブラシで猛烈に石の前を擦り始める。


「ウォー!」


その掛け声で二人は擦るのを止める。


石はスルスルと滑りながら速度を落とし円が描かれた場所の中心付近にピタリと止まる。


カーリングという競技を知らない僕でも、それがとてもいい結果になったのだと分かった。


彼女達はその石に集まり、何かしら話している。


そしてまた元に位置に戻り同じことを繰り返す。


僕と父は二階からそれを眺めていた。


「どうだ?わへい」


「和平(かずひら)だよ。自分でつけた名前くらいきちんと呼んでくらない?」


「いや、すまない。呼びやすくてな。で、こっちに引っ越してきたら、やってみないか?」


「…考えてみるよ」


「うん。カーリングはいいぞ。車椅子でやっている人もいる。生涯スポーツとしてもお勧めだ」


…腰を痛めたお前でも、な。


そんな言葉が聞こえた気がした。




小学校、中学校と剣道をしていた僕は、ある時腰を痛めた。


それが先天的で、この先も起こり続けるという事を知ったとき…僕は剣道を辞めた。


剣道にものすごく思い入れがあるかというと、そうでもないと思う。


でも、長年続けたスポーツを辞めたとき地面に足がついてないような、ふわふわした毎日を僕は経験した。


そしてそれまで暮らしていた東京からこの長野県に引っ越すという父の話を、中学校三年生の春に聞いたときの戸惑い。


『思春期の多感な時期に色々詰めこみすぎだぞ、親父殿』


そんな話を友達にすると、最初は様々な形の同情を受けた。


でも、皆受験でそれどころではなく、僕自身も夏が過ぎ、冬が来て受験が近付くと、卒業したらどうせバラバラになるんだ、と冷めている自分がいた。


僕は自分で思うより薄情なのかもしれない。




僕は父の実家があるこの長野県軽井町の高校を受験した。


なんとか無事に合格した僕は今日、父と学校の説明会に参加。


その後どういうわけか、この日本最大級のカーリング場に足を運んだのだった。


「父さんも中学校の頃まではやってたんだ。授業もあってな」


そしてまた得意げに言う。


父が饒舌になるときは、大抵僕を気にしてくれているのだ。


父なりに自分の“シゴノツゴウ”に息子を付き合わせてしまったことに罪悪感を感じているのだろう。




父と二人でカーリング場を一歩出た途端、情け容赦のない冷たい空気が全身を包んだ。


三月の初旬。東京では春が近付いてくる時期。


だが標高1000メートル近いここ軽井沢は、いまだに春の気配すら感じられない。


空を見上げると、どこまでも暗い夜空が広がっていた。


空の遥か彼方から冷たい空気の塊が落ちてくる。


そう思えるほどにここの空気は澄んでおり、清らかで、そして凍てついていた。


その空気が子供の頃から父の実家に来る度に感じる、軽井沢だった。


これにはまだ慣れそうもない。


目が暗闇に慣れてくると、夜空に無数の星が輝いているのが見えた。


これを見ると、東京の夜空は街の明かりが溢れ、汚れているのだな、と思う。


「今日は-10℃までは下がらないそうだ。暖かくなってきたな」


嘘だろ、と思うがこれがこの辺りの人の感覚なのだそうだ。


冗談抜きにして、真冬の夜、外に居続けたら凍死するだろう。


果たしてこんな寒い場所で暮らしていけるのだろうか?


夜空を見ながらふと、そんなことが不安になる。


「カーリング…面白そうだね」


ポケットに手を突っ込み、足元からも這い上がってくる冷気にガタガタ震えながら僕は言った。


「だろ!?高校にも部活があるんだ!父さんはな、子供は学校やクラス以外の居場所が必要だと常々思っていたんだ。だからわへいにも何か全くクラスとか関係ない世界を作って欲しくてな。何をやっても良いけどせっかく日本最大級が近くにあるんだからな。やらない手はないよな」


饒舌にまくし立てる父。


父は僕を気遣ってくれている。そして僕も、そんな父を気遣える程度には大人になった。


そんな大人になった僕の気持ちが「カーリング面白そう」という言葉となって口からこぼれた。


きっかけはそんなものだった。


「ねぇ父さん」


「なんだ?わへい」


「カーリングは円の中心に石が止まると何点入るの?」


「……」


父の表情から察するに僕はかなり的外れな質問をしたのだろう。




プロローグ完




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