第十八章(空誓空刻)
最南第一飛行隊、通称『南一空』の基地は最南港の北隣にあった。軍民両用の空港なので、管制塔はかなりの規模がある。王都の灯台や最南鎮守府よりは小さいが、南に全く障害物がなく、管制席や司令室からは最南港全体を見渡すことができた。普段は漁船や遊覧船で賑わっているが、今は調査船がまばらに航行しているだけで、港には軍艦が整然と並んでいた。
誰もいない司令室で、隊長のスィラは一人悩んでいた。机には一通の王族命令書が置かれている。
『最南第一飛行隊は、翠北港へ出撃せよ』
期日も、出撃させるべき戦闘機の数も書かれていない。聡明な空宮様(イスカ)が、このような曖昧な命令を出したことは今までにはなかった。命令書を持ってきたフォギの偽造ではないかとも疑ったが、末尾には間違いなく彼女の王族印が押されていた。理由を確かめに行きたかったが、彼女はメルを始め一切の面会を拒んでいた。
「失礼します。」
副隊長のゼーメンが入って来た。
「守宮様からミューナが届いております。」
「ミューナ?」
南一空の最後の実戦、最南沖航空戦からすでに20日以上が経過しており、ミューナの補充は既に完了している。
「どうやら、特注品のミューナのようです。」
「特注品…?」
「長距離用に改造されています。」
興味が湧いたので、そのミューナを見に行くことにした。外の空気を吸って気分転換をすれば、良い案が思い浮かぶかもしれない。
ミューナ。この国の技術の粋を結集して作られた戦闘機は、そのスペックを遺憾無く発揮して戦闘を勝利に導いてきた。未だ調査段階ではあるが、黒の国の戦闘機の能力を殆ど上回っていることがSTSBによって明らかになりつつある。しかし、航続距離においては黒の国が圧倒的に上回っていた。原因は燃料にある。ミューナに黒の国の燃料を使えば従来の9倍、理論上はこの惑星-この国では『蒼球』と呼ばれている-を一周することが出来ると試算されていた。蒼の国がこの燃料を作るのは当分先になるだろう。それまでは防衛戦闘を続けるしかないというのがスィラの考えだった。それだけに、イスカの命令はスィラを当惑させた。メルは慎重派だと聞いていたが、ミューナを送ってきたということは、考えが変わったのだろうか。
3機のミューナが整然と滑走路前に並んでいた。一見すると何の違いもないが、よく見ると対艦ミサイルの部分が巨大な燃料タンクになっている。
「これで航続距離は3倍になるそうです。更に、いざという時には切り離せるそうです。」
「対艦ミサイルもなしにどうやって港にある艦を沈めるんだ?大体、3機ばかり送ってきても、どうしようもないだろう。」
たとえ全員がメルのような技量を持っていても、わずが3機で翠北港を攻略できるはずがない。南一空にある既存のミューナを出撃させるにしても、この改型ミューナとは航続距離が違うために足並みが揃わないだろう。
「私もそう思ったのですが、守宮様は『3機で十分だ』と。」
「3機で十分…?」
「空宮様から頂いたミューナを無駄にするな、とも仰っていました。」
スィラはだんだんメルの意図が分かってきていた。航続距離を伸ばすために限界まで軽い装備になっているにも関わらず、ライブカメラがしっかりと取り付けられている。
(守宮様は翠北港を攻略するつもりはないのだ。)
敵の規模がハッキリしない以上、無理な計画は作るな。とはいえ王族命令書に背かせる訳にはいかないから、最小規模の小隊で行ってこい。出来れば港全体をライブカメラに収めて欲しい。3機の改型にはそういう底意が含まれているのだろう。
「相変わらず王族の殻から抜け出せない人だな。」
毒づいては見たものの、王族命令書に囚われている自分自身に向けた言葉にも思えた。気に入らない人だが、今回の話は悩むスィラにとっては渡に船の『命令』だった。
「ゼーメン、どの小隊が適任だと思う?」
最南沖空戦以降、南一空は目立った戦果を挙げていない。最南島の防衛は重要な任務だが、人工島攻防戦における南二空の華々しい活躍に比べると、どうしても地味に見えた。元々反りが合わない南二空の活躍を苦々しく思っている隊員は沢山いる。
「最南沖空戦の際、出撃出来なかった小隊がありましたな。最も戦果を挙げたいと思っているのは彼らでしょう。」
「ミクロス隊か。」
弾道ミサイルの迎撃でミューナが故障し、最南沖空戦に出られなかったミクロス隊の気持ちは、一パイロットとして痛いほど分かる。
「しかし、ミクロス隊には戦闘機同士の実戦経験がない。そこが不安だ。」
「だからこそです。」
ゼーメンは眉を吊り上げた。
「この作戦は生還出来る可能性は極めて低い。実戦経験のある隊員は温存すべきと考えます。」
この先いつまた戦闘に巻き込まれるか分からない。経験ある隊員を温存したいというゼーメンの考えは残酷だが分からなくもなかった。
「よかろう。ミクロス隊に出撃を命じよ。」
「ハッ。」
往復約2万5千キロの戦いなど、聞いたことがない。想像を絶する厳しい戦いになるだろう。スィラはどんよりとした南の空を物憂げに眺めた。
「やっと来たか!」
ミクロス隊隊長・ズーマは飛び上がらんばかりに喜んだ。ミューナが故障して最南沖空戦に出られず、その後は全く敵と戦う事がない。飛雲航空隊や南二空の戦果が入ってくるたびに、悔しさで眠れぬ夜を過ごしていた。そんな状況で、敵地に初めて攻撃をかけるという歴史的任務が飛び込んできたのである。
「リギト、ジェイズ、このチャンス、逃すわけにはいかないぞ!絶対に戦果を持ち帰るんだ!」
リギトとジェイズはミクロス隊の隊員である。リギトは不安そうな顔をしていた。
「しかし、ここから敵基地までは1万キロ以上あると聞いています。ミューナの航続距離は5千キロ。一体どうやって帰るのでしょう…?」
「途中までは空中給油で行く。しかも、守宮様が考案した新型ミューナで出撃する。航続距離は3倍になると聞いている。」
その代わり、敵と出会っても重い燃料タンクを切り離すことは出来ない。いくら敵が性能で劣るとはいえ、苦戦するのは間違いなかった。
「今度の戦いは今までのどの作戦よりも難しいのは間違いない。だがここで結果を出せば、我が隊は永遠に名を馳せることが出来る。」
ズーマは愛読書、「希一隊戦記」の一節を思い出していた。
(どんなに苦しくても信念を曲げるな。不可能の先に希望はある。)
1万2千Km先にある希望を見に行くのだ。そこには将来出来るだろう「南一隊戦記」に刻まれる戦果が待っているはずだ。
ノノウが戻ってきたのは、会談の翌日のことだった。メルもよほど待ち遠しかったのか、わざわざ空港まで出迎えにきてくれた。
「中宮陛下、ただいま戻りました!」
「まだ正式な命令は来ていない。それに、今まで通り『守宮』で良い。」
「いえ、実は…。」
ノノウは鞄から書簡を取り出した。驚くことに王族の書簡である。
「テアちゃ…煌宮様からの正式な命令を預かって来ました。」
「ほほう…。」
どうやら、相当テアに『教育』されたらしい。メルは書簡を受け取るとニヤリと笑った。
「『メルちゃん』でも良いよ。」
「バ、バカなこと言わないで下さいっ!」
ノノウに『バカ』と言われたのはこれが初めてのことだった。どうやら今回の件でノノウは大きく成長したようだ。
(それでいい…。)
ラディが亡くなりイスカも倒れた今、メルと腹を割って話せる人は誰もいない。王族恐怖症の彼女には荷が重いと思っていたが、『今のノノウ』になら話せる。ノノウと一緒に最南鎮守府に戻る中で、メルは静かに腹を決めた。
「それで、重大な話というのは?」
車の中で話さずに司令宮室まで待ったということは、余程の事情があるのだとノノウは感じていた。部屋には二人以外の誰もいない。
「ノノウ、我々には感覚はいくつ備わっていると思う?」
「一般には視・聴・嗅・味・触の五つですね。他にも温覚・痛覚・平衡感覚などもありますが…。」
「パイロットにはそれらに加えてもう一つ備わっている。『直感』だ。」
「…。」
メルが何を言いたいのか、ノノウは良く分からなかった。突然、テアの言葉が脳裏をよぎる。
(メルはね、あんなに男勝りな性格なのに『女の勘』を持っているのよ。)
「つまり、何か良くないことに気づかれたということでしょうか。」
「じいのことだ。」
「アブエロ様…?」
アブエロは矍鑠としているが、今年で71になる。どこか病気なのだろうかとノノウは不安になった。
「じいが、私に何かを隠している。」
「そんな、まさか…。」
メルの祖父にして、彼女が最も信頼を寄せる人物である。アブエロがメルを裏切るなど万に一つもありえないことだ。
「フォギがイスカさんの王族命令書を持って来てからだ。あれ以来どこか様子がおかしい。」
ノノウはだんだんメルが言わんとしていることが分かってきた。
「フォギ様が空宮様に王族命令書を出させた理由をアブエロ様が知っているということですね。」
「そうだ。しかし、なぜじいが知っていて私が知らないのか、そしてそれが何なのか、突き止めてほしい。」
難しい話だ、とノノウは思った。じっと考え込んで、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「守宮様にこのことを隠しているのはアブエロ様だけではありません。」
「フォギもだな。」
「フォギ様もですが、肝心なのは空宮様自身が隠しているということです。空宮様にアブエロ様、どちらも守宮様に近い人達です。その二人が隠しているとすれば、余程プライベートなことなのでしょう。そう考えると、一つ不可解なことが思い浮かびます。」
「不可解なこと?」
「空宮様が倒れられてから既に二週間近くが経っています。それなのに、病名が一向に分かりません。それにずっと病院に行かず、リゾートホテルにいるのもおかしいと思いませんか。」
普通ならこの島の最高医療機関である最南島南部中央病院に入っているはずだ。
「病院に入ったら、鎮守宮である私に情報が入るからだな。」
「そうです。おそらく飛雲の船医が主治医となり、往診で診ているのでしょう。第六艦隊直属の飛雲であれば最南鎮守宮の影響が及ばず、情報が漏れることはないからです。しかしそれから5日後、政局が思わぬ誤算を生み出しました。」
「思わぬ誤算…?」
「守宮様の連合侯就任です。」
メルはノノウが何をさせようとしているか分かった。連合侯は、全ての軍の上に立つ役職である。
「飛雲にいる主治医に連合侯令を出せば、イスカさんの病気が分かる訳だな。」
正直やりたくはない。しかし、フォギがこれに味をしめて、イスカを利用し続ける可能性は高い。それは避けなければならなかった。
「分かった。今から書くから、それを飛雲に持って行ってくれ。」
そう言ってペンを取った瞬間、司令宮室の電話が鳴った。
「はい、ノノウです。…わかりました。お伝えしておきます。」
「誰からだ?」
命令書を書きながら、メルが尋ねる。
「南一空からです。作戦を担当する小隊は本日中に人工島に移動、明日作戦を実行するということです。」
「そうか…。」
目まぐるしく動いていく情勢を前に、メルは感情を置き去りにしていくしかなかった。命令書をノノウに渡すと、何も言わずに次の仕事に取りかかった。
マトキス部隊が人工島に上陸してから二週間が過ぎた。艦砲射撃を耐えて地下壕に籠って戦い続けた黒軍も、戦車と火炎放射部隊の前に殆ど掃討された。まだ一部隠れている兵もいるようだが、組織的な抵抗はここ数日全くなかった。マトキスは戦闘と平行して滑走路の修築も行っていた。人工島にミューナが離着陸できるようになり、さらに敵を警戒できる範囲も広がっていた。翠北港を攻撃する場合、最南島から行くのと比べて4000Km分の燃料を節約出来る。今回の作戦はこの飛行場の存在も大きかった。
ミクロス隊が人工島に到着したのは昼頃のことだった。滑走路こそ整備されているが、あちこちに弾痕や戦車の通った痕、敵の遺留物が散乱している。不安な顔をするリギトの隣で、ズーマは興奮していた。
(これが戦場か…!)
軍事マニアでもあるズーマは、戦争に関する本は一通り読んでいる。しかし、今見ている景色は本に書いてあるどの場面よりも臨場感があった。116年ぶりに起きた陸戦。まさにここで歴史が動いたのである。
「ズーマ殿、お待ちしておりましたぞ。」
マトキスが出迎えに来ていた。
「殆どの敵は掃討しておるが、どこに敵が隠れているか分からん。ご用心されよ。」
そう言いつつ、マトキスはズーマが乗って来たミューナに近づいた。
「しかし対艦ミサイルもなしに小隊だけで敵基地を強襲して、どれだけの戦果が出せるであろう。スィラ殿も、酷な命令を出すものだ。」
「隊長は我々を信頼してくださっているのです。我々に出来ることは、目の前の敵を撃滅することだけです。」
「私なら、信頼する部下にこのような危険な命令は出さん。」
マトキスの一言がズーマの胸に突き刺さった。今までずっと見て見ぬふりをしてきたものを、無理やり見せられた気がした。一礼して去っていくズーマの背中にマトキスは声をかけた。
「命は大事になされよ!作戦よりも大事なこともあるのだぞ!」
新婚の妻の顔が頭に浮かんだ。ずっと考えないようにしていたのに…。歴史を変える瞬間が目前に迫っているというのに、ズーマの胸には迷いが生じていた。
メルは最南ドッグに来ていた。人工島沖海戦から5日が過ぎたが、第二艦隊の修復は思うように進んでいなかった。大破した巡洋艦2隻は未だに遺体の収容すら完了していない。彼らが身を盾にして守った第二艦隊司令宮・強宮は責任を取って自殺してしまった。後任の司令官は未だに決まっていない。王都にいた統宮派の王族の司令宮クラスの人物は次々と逮捕されており、統宮派の鎮守宮も生き残りに必死で、とても第二艦隊司令宮を派遣できる状況にはなかった。
「全艦が戦列に復帰出来るまでに1ヶ月はかかるだろう。それまでに決まると良いがな。」
第一艦隊に続き、第二艦隊まで率いなければならないのか…。眉をひそめるメルに、伝令の兵が駆け寄ってきた。
「守宮様、空宮様がお呼びです。」
ノノウは、飛雲艦内で待たされ続けていた。空宮の主治医は中々やってこず、ようやく姿を現したのは、なんと二時間も経ってからだった。普段から誰に対しても丁寧なノノウだが、この時ばかりは声のトーンが下がっていた。
「私は連合侯の使いとして来ています。それを二時間も待たせるとは、一体どういうつもりですか?」
「申し訳ありません。急患が出たもので…。」
「この艦には100名近くの医官が乗り合わせているはずです。どうしても貴方でなければならない理由があったのでしょうか。」
嘘は一瞬で見破られ、ノノウの顔は更に険しくなった。
「まずは私を待たせた訳を教えて頂きましょう。」
真っ直ぐに主治医を睨みつける。数々の戦場や会議を経験してきたノノウには、年不相応な迫力が身についていた。
「実は…空宮様に命じられたので、ずっと部屋に籠っていました。この話は、空宮様が直接守宮様に話さなければならないのです…。こちらが命令書にあったカルテです。ですが、」
主治医は地面に膝をつき、頭を下げた。
「どうか、守宮様に連絡するのは待ってください。お願いします!」
そのカルテには、驚くべきことが書かれていた。
(場合によっては、望宮家の今後に大きな影響が…!)
ざわめくノノウの心を表すように、突風が窓を叩いて不気味な音を奏でた。
イスカと会うのは、二週間ぶりのことだった。
(やつれたな…)
数日で愛する人と家族を失った悲しみは想像を絶する。兄を失ったメルも、その気持ちは十分に分かっていた。ヨロヨロと身体を起こすイスカを見ると、何の病気なのか問い詰める気にもならなかった。どう切り出すか迷っているメルを見て、イスカが先に話し出した。
「子供が…出来たの。」
一瞬、頭が真っ白になった。鼓動がはやまり、耳鳴りがやけに煩かった。
「兄上の…?」
イスカが頷く。長い沈黙の後、メルが声を絞り出した。
「どうして…どうして、教えてくれなかったのですか?」
イスカは目を閉じ、眉をひそめた。
「煩わせたくなかったから…。」
「しかしそれでフォギに脅されて王族命令書を」
「言わないで!」
イスカは耳を塞いで叫んだ。
「これ以上私を…惨めにしないで。」
病床から見る後輩の活躍は、羨ましくもあり怨めしくもあった。精神的ショックで思うように動けない自分が情けなかった。自分がラディの子を宿した今、メルは全力で守ろうとするだろう。そして自分はそれを頼るしかない。それはイスカにとって、屈辱以外の何物でもなかった。
「バカなことを言わないで下さい。」
メルは怒っていた。
「私はずっと貴女の背中を追いかけてきました。何度も頼ってきたし、模擬戦で負けたこともありました。でも、惨めだなんて思ったことはありません。」
「それは後輩だから言えることよ。」
「違います。」
メルは力強く首を振った。
「ノノウと出会って気付いたんです。この戦争が始まってから、幾度となく彼女に助けられてきました。自分の傲慢さ、情けなさ、力不足を何度思い知らされたことか…。でも、大切なことを学びました。人を信じる力です。」
「…あなた、変わったわね。以前のあなたからは考えられない言葉だわ。」
「そうですか?」
照れ隠しに笑ったが、そうかもしれないとメルは思っていた。
「笑い事じゃないわ。」
イスカは大きく溜息をついた。彼女の心の中にあった、大きな塊を吐き出しているようにも見えた。
「そこまで言うならさ…守ってよ。」
イスカは真っ直ぐにメルを見つめた。
「私はどうなってもいい。生まれる前に父を亡くし、罪人の一族の娘を母にもつこの子を、あなたの力で幸せにしてあげられる?」
メルはイスカの手を取り、ギュッと握りしめた。
「約束します。身を盾にしてでも、この子を守ってみせます…!」
自分をずっと助け続けてくれたラディに何もしてあげられなかったことを、メルはずっと後悔していた。自分が兄の名代を名乗り出ていれば彼が海華の艦上で死ぬこともなかった、なぜそれを思いつかなかったのか…。そう自分を責めた時もあった。彼の愛した人と、彼女に宿った希望の光を守る。それが自分の使命だとメルは感じていた。
人工島にあった建物は第六艦隊の艦砲射撃と陸軍の戦闘によって全て破壊されているため、マトキスの部隊はテントでの暮らしを余儀なくされていた。ミクロス隊も例外ではなく、小さなテントで出撃前の一夜を過ごさなくてはならなかった。
「どうだ、一杯やらんか。」
ズーマは懐にカップ酒と猪口を忍ばせていた。蒼の国の軍規では軍務中の酒は禁止されているが、戦争が始まってからは多少の飲酒は黙認されていた。黒の国の規模が分からない以上、戦闘の終結がいつになるかも分からない。いつまでも軍規に従っていると戦意の低下を招く恐れもあった。小さな猪口になみなみと注がれた酒を、三人は一気に飲み干した。
「さっき守宮様から激励の手紙が送られてきたぞ。ジェイズ、読んでみろ。」
三人はまるで目の前にメルがいるかのように直立不動になった。王族からの手紙を読む時の、軍の習わしである。
「先日のミサイル迎撃の功をここに頌(しょう)する。今度の作戦は王国の戦史に刻まれるであろう。王国の気風をもって、最善を尽くせ。」
『頌する』。王族が使う最大の賛辞である。
(遂に自分も王族に認められるほどの武人になったのだ…。)
感慨に浸るズーマの隣でジェイズは首を傾げていた。
「隊長、王国の気風とはなんでしょうか?」
公式にはあまり使われることのない表現である。考え込むズーマの隣で、リギトがポツリと呟いた。
「イルストル公の訓戒のことではないでしょうか。」
「全力で戦え、ただし絶対に生きて帰らねばならない、だな。」
ただ生きて帰る訳ではなく、生きて生きて生き延びて、死ぬまでこの蒼の国に尽くす。それが兵士の生き方だと南海海戦の英雄は言い続けた。100年経った今でも、この気風は軍に残っている。二人の猪口に酒を注ぎながら、ズーマは尋ねた。
「どうだ、二人とも死ぬのは怖いか?」
「そんなことはありません!」
真っ先にジェイズが否定する。
「私は…」
口ごもるリギトにズーマは優しく声をかける。
「分かっている。故郷に年老いた母と、幼い子供がいるんだろう?」
うなずくリギトの頭をポンと叩いた。
「かまわん。イルストル公の教えを守ることも大切なことだ。」
そう言いつつ、自分はどうなのかと考えた。歴史に名を刻めるのなら、死んでもいいと思っていた。でも今は…。迷いを振り払うように、ズーマは一気に酒を飲み干した。
翌朝、最南鎮守府の司令宮室にフォギが呼び出されていた。いつになく険しいメルの表情を見ながら、ノノウは不安な気持ちで仕事を続けていた。
「なぜ呼び出されたか、検討はついているだろう。私が言う前に自分から述べてみよ。」
フォギの額には汗が滲んでいた。ようやく発した声は弱々しく震えていた。
「空宮様…のことでしょうか。」
「王族を脅迫するとは、大それたことを考えたものだな。」
メルが本当に怒った時、感情が消えるのをノノウは知っていた。この表情を見るのはラディが暗殺された日以来である。
「あの日、私に臣従せよと言ったはずだ。私がいつ空宮様を脅せといった?兵の助命が叶えば後はどうでもいいのか?」
フォギは震えながら、ひたすら平伏を続けていた。
「ノノウに…参謀として、ノノウに勝ちたかったのです。私の方が年齢も学んできた時間も上なのに、彼女の作戦に完膚なきまでに敗れました。今回の作戦で彼女を見返したかったのです。」
しばらくの沈黙の後、メルはフッと笑った。
「分かった。ならば、お前の処分はノノウに任せよう。」
「お待ち下さい!」
声を上げたのはフォギではなくノノウだった。
「それはフォギ様にとって最大の屈辱です。将たる者が為すべきことではありません!」
「では、フォギ及び旧第一空母打撃群の兵士はみな処刑することにしよう。」
「そんな…!」
メルがスラスラと王族命令書を書き始める。フォギはノノウに哀願した。
「参謀殿、かまいません。私を、私だけを罰して下さい!どうか…!」
将ではない自分が決める資格などないとノノウは思っていた。しかし、このままでは無辜の兵士までが殺されてしまう。
「では正直にお答え下さい。あなたは誰から空宮様が妊娠していることを知ったのですか?」
「…旧統宮諜報部隊です。」
元々フォギが所属していた第一艦隊は、統宮家の艦隊である。
「その部隊は、今誰がまとめているのでしょう?」
「明確なリーダーはいません。統宮家滅亡後は、各々で活動しています。」
「その部隊、あなたがまとめることは出来ますか?」
「ある程度は…。」
「分かりました。守宮様、私の処分をお聞き下さい。」
メルは予期していたかのように筆を止めて頷いた。
「フォギ様を皇后付き諜報部隊隊長に異動とするのは如何でしょう。空宮様妊娠の情報を収集できる力があるなら、きっと煌宮様の役に立つはずです。」
「フォギがそれ受け入れるのなら、兵士の命は助けよう。」
「謹んで、お受け致します。」
メルは書いていた命令書をビリビリと破り捨てた。
「下がって良い。王都に戻る身支度を急げ。」
どこか安心した表情で、フォギは部屋を後にした。二人だけになった部屋で、ノノウは盛大にため息をついた。
「最初から、兵士を殺すつもりはありませんでしたね?」
「…バレてたか。」
メルはようやく表情を崩した。
「王族とは窮屈なものだ。威厳のためには思ってもいないことを言わねばならん。」
「それにしてもやり過ぎです。」
「後、お前にも権力の怖さを知って欲しかったのだ。」
「権力の怖さ…。」
「お前がフォギを殺せと言っていたら、私は迷わず奴を処刑場に送っただろう。あの時、お前の言葉一つに奴の生死がかかっていたのだ。」
「…。」
「連合侯になった以上、私はより多くの命を預かることになる。戦争はこれからもっと重い局面に入るだろう。当然、お前の立案、行動一つに多くの命がかかってくる。今の気持ちを忘れるなよ。それが一つの命の重さだ。」
忘れたい記憶が蘇ってきた。王族と話すことを恐れて総参謀の地位を断ったために、結果として沢山の兵士が命を落とした。自分はもう自分だけのものではないのだ。ノノウが改めて心を決めた瞬間、例の電話がけたたましく鳴った。相手はマトキスである。
『ミクロス隊、只今出撃しました。空中給油隊は既に先行、予定通りです。』
この無謀な作戦も、自分がもっとしっかりしていれば未然に防げたかもしれない。たった3機。しかし、その中には3人の人生が詰まっているのだ。
(もう二度と無謀な作戦を許したりはしない。だから、帰ってきて…。)
ノノウは祈りをこめた眼差しで、南の空を見つめた。
人工島から南に2300キロ、ミクロス隊は予定通りのポイントで空中給油を受けていた。輸送機も護衛のミューナもここで離脱する。自分達だけの戦いが始まろうとしていた。
作戦がこれだけ早く実行に移ったのは雨雲が関係していた。これまでの戦いから、敵が分厚い雲の下では索敵能力が落ちることが分かっている。作戦当日、人工島の南西に南北に長い帯状の雨雲がかかることが予想されていた。ミューナは荒天下でも安定した飛行が出来る。その利点を活かした隠密行動であった。
「ミクロス1から全機へ。これから雲の中に入る。レーダーに注意しておくように。」
早期警戒管制機の投入で、人工島から半径5000Kmの敵の動きは把握出来る。しかし、その外に出るとミューナのレーダーだけが頼りだ。分厚い雲の中だと太陽の光も届かない。上下左右の感覚は姿勢指示器と長年の感覚だけが頼りだった。3機のミューナは闇の中を、一路南へと向かっていった。
ノノウがSTSBへ行ったのを見計らって、メルは司令宮室にアブエロを呼び出した。夕焼けが部屋を赤く染め、アブエロの頭は輝きを増していた。
「ジェンコから聞いたのだな。」
その一言で、アブエロは呼び出された理由を察した。
「申し訳ありません、どのような罰でも受けましょう。」
「王族の命令なのだから仕方ない。お前はしきたりを守っただけだ…だが、」
逆光でメルの顔はよく見えなかったが、声には寂しさが滲んでいた。
「私達の関係はそれを超えるものだと思っていた…。すまん、愚痴を言いたくなっただけだ。」
アブエロは返す言葉がなかった。部屋の雰囲気とは対照的に、沈んでゆく太陽は一層輝きを増した。
「頼みがある。来月開催される島長選挙に出て欲しい。」
島の民間トップの役職である。アブエロはかつて波島の島長を努めたことがあり、経験は十分だ。現島長のリブリは南海事件以降失言や失態を繰り返している。高齢ではあるが、アブエロが島長になった方が良いとメルは考えていた。加えて、信頼は揺るがないという、メルなりのメッセージでもあった。
「分かりました。戦時の民政をまとめ上げてみせます。」
「期待している。」
民間人の退避は進んでいるとはいえ、最南島に残ることを決めた人も多い。軍民一体となって最南島を、蒼の国を守る。最南鎮守宮に就任した時とは比較にならないほど、メルの心には大きな決意が宿っていた。
ミクロス隊は、ついに人工島の半径5000Kmを出た。ここからは早期警戒管制機のレーダーの範囲外である。ミューナ自体のレーダーは半径200キロしかない。敵がレーダーに映った際、既にミサイルを撃たれている可能性も十分に考えられた。更に、運のないことに雲が切れて晴れ間に出た。予報が外れたのである。
『ミクロス1から全機へ。東150Kmに雲がある。急ぎ向かう!』
ズーマの一声でミューナは一斉に東へ向かった。ミューナなら僅か10分の距離である。しかし、その10分が異様に長く感じられた。幸い視界は良く、すぐに目標の雲が見えてきた。安心した瞬間、アラームが鳴り響いた。
(どこからだ?)
北か南か東か西か、答えは無線で飛び込んできた。
『下です!各機に2機ずつ合計6基、来ます!』
艦船はレーダーに映っていない。おそらく潜水艦に探知されたのだ。
『各機雲を目指して散開せよ!』
チャフとフレアを撒き散らしながら3機は回避行動をとった。しかし、燃料が重すぎていつものパフォーマンスが出せない。加えて、ここで燃料を使いすぎると、作成が達成出来ないという事実が、判断を鈍らせた。さらに、レーダーはもう2本のミサイルが向かって来ていることを示していた。
(この程度のミサイルで…!)
雲に入ればミサイルの命中精度が落ちるかはわからない。しかし、大量の燃料を使う切り返し(ブレイク)が出来ない以上、賭けるしかなかった。ミサイルが残り10Kmに迫った時、ズーマは雲に突入した。2基のミサイルがミューナの傍を通過する。妨害材の効果か雲の影響かは分からないが、とにかく潜水艦からのミサイルは回避できたようだった。
『ミクロス2、3、応答せよ!』
『ミクロス2より1へ、3の墜落を視認…。』
(ジェイズ…。)
ミサイルを振り切れなかっだのだろう。普通に戦えていれば、こんな最後になることはなかったのに。忸怩たる思いがズーマの胸中を支配した。
『本機はブレイクの際に増槽を喪失、残り航続距離は5000Kmです…。』
作戦遂行には後13000Kmの航続距離が必要だった。このまま翠北港に向かえば、リギトは翠北港に辿り着く前に力尽きるだろう。
『ここから人工島まで5000Kmだ。近くまで行けば空中給油も出来る。身軽さを生かして全力で戻れ!』
『隊長は…?』
返ってくる答えが分かっているのだろう。リギトの声は震えていた。
『歴史を作るのが俺の本望だ。帰ってくるのを待っていろ。命令。反転し、帰投せよ。』
リギトは断腸の思いで帰途についた。増槽がない身軽なミューナが黒の国のミサイルに落とされることは殆どない。リギトは潜水艦からのミサイルを華麗に躱し、元の雲に突入した。リギトが囮になっている間に、ズーマは潜水艦を振り切った。敵に気づかれた以上、敵は一気にこちらに向かってくるだろう。全てを振り切ってみせる。翠北港まで残り5500Km。ここから南に行った蒼の国の人間はいない。歴史を刻むべく、ズーマは一人南へと進んでいった。
作戦開始から10時間、人工島に1機のミューナが辿り着いた。パイロットは疲労困憊で立っているのもやっとの状態だったが、報告は行うことが出来た。
「ミクロス隊は人工島南5000Kmで敵潜水艦に遭遇、3番機が撃墜され、当機は増槽を喪失、隊長より帰投の命を受け、只今帰投しました。」
「隊長機は?」
「単機、南に向かいました。今頃は翠北港上空にいるはずです。」
「そうか…ご苦労。」
最後の言葉が願望であることを、マトキスは分かっていた。往復10000Kmでこの疲労度である。翠北港を往復するだけでも大変なのに、敵にまで注意しなければならない。もし多数機編隊を組んでいたら、大損害は免れなかっただろう。
(アイツ…引き返さなかったのか。)
ズーマと話した時、彼の顔には明らかに迷いが生じていた。戻らなかったということは、迷いを振り切ったのだろうか。
(こんなことがあってはならんのだ。)
ズーマレベルのパイロットを要請するには数年を要する。その重要性を首脳部は分かっているのだろうか。マトキスは不安に思った。自分達の次の戦場は翠北港上陸戦だろう。人工島上陸戦の際の敵の抵抗を考えると、相当な損害が出ることが予想される。彼らの作戦に隊の犠牲者数が左右される以上、今日のことを対岸の火事と思うわけにはいかないのである。
ラルバが最南中央病院に呼び出されたのは、これが10度目のことだった。翠の国の文化や軍事、そして黒の国のことなど様々なことを聞かれてきた。今度は何を聞かれるのだろうと思いながら意思表示機に座った。いつもと違うのは、右手に大きなスクリーンが用意されていることである。翠の国では白黒で画質の悪い映像しか流れなかったが、ここではまるでそこに本当の世界があるかのような精密な映像が流れる。初めてその映像を見た時、この国なら黒の国から故郷を取り戻してくれるかもしれないと希望を持った。それから一ヶ月、遂に蒼の国が翠北港を攻撃するというニュースが舞い込んできた。翠の国の者達は皆喜んだが、ラルバは懐疑的な見方をしていた。攻撃機が僅か3機だというのである。自国の防衛に600機以上使っておきながら遠征にこの数というのは、パフォーマンスの意味合いがあるのではとラルバは感じていた。
しばらくすると、モリノミヤ様が入ってきた。彼女と会うのはこれが2度目である。
(待たせたな。)
座るや否や、彼女は意志を送ってきた。
(お久しぶりです。翠北港への戦闘機派遣、国の者達は大変喜んでおります。)
たとえパフォーマンスだとしても喜んでおくしかない。ここで彼女に好印象を与えれば、さらなる戦闘機の派遣があるかもしれなかった。
(お前に見せたいものがあってな。)
(見せたいもの?)
(もうそろそろ来るだろう。)
彼女が画面を指差す。真っ黒なスクリーンをじっと見つめていると、突然画面が明るくなった。
(これは…!)
翠北港である。この国の映像にしてはやや粗いが、海岸線の形は間違いなく祖国のものだった。
(その様子なら間違いないな。お前達の国だ。)
(間違いありません、我らの…。)
想いが詰まって意志にならない。ラルバは食い入るように画面を見つめた。
遂に、視界に捉えた。1万Kmの距離を越え、まだ国中の誰も見たことがない島を眺めている。ライブカメラをONにした瞬間、ズーマの目的は達せられた。今まさに、蒼の国に新たな歴史が生まれたのである。しかし、感傷に浸っている間はなかった。翠北港から大量の地対空ミサイルが放たれる。雲に戻るか、島に突入するか、ズーマは決断を迫られた。一瞬の逡巡の後、ズーマは増槽を切り離した。もう後戻りは出来ない。一気に急降下して低空飛行に入る。ミューナの脇で大きな水柱が上がった。
(距離を詰めればミサイルは対応出来なくなる…。)
海面ギリギリを、滑るように疾走する。やがて大量の艦船が見えてきた。手当たり次第に対空ミサイルを撃ち込む。何発か着弾したようで、黒煙が上がる。その煙を利用して高度を上げた。黒煙を抜けると、眼下に要塞都市が飛び込んできた。
(これが、敵基地か…!)
何本も滑走路が並び、大量の戦車と戦闘機、倉庫や銃器が確認出来た。兵士達がバズーカらしきものを、こちらに向けて撃っているのも見える。
(これから皆はコイツらと戦うのか…。)
どんな戦いになるのか、想像する時間はなかった。今度は大量の戦闘機が向かって来たのである。
増槽を切り離した時点で、「退却」の選択肢は無かった。如何にミューナの情報を敵に渡さずに終われるか。必死に目標物を探す。ロックオンを知らせるアラームがけたたましく鳴り響いた瞬間、ズーマの目がミサイルの運搬車らしきものを捉えた。
(そろそろいくか…。)
目標を目がけて一気に急降下していく。ミューナには緊急用の脱出ボタンが備わっているが、ズーマは敢えて押さなかった。確実に目標に当てるということもあるが、何より「蒼黒戦争最初の捕虜」という不名誉な名を歴史に刻む訳にはいかなかったのである。
運搬車が大きくなり、当たる瞬間に映像が途絶えた。メルは真っ暗になったスクリーンのスイッチを消し、ラルバの方を向いた。
(どうだ、翠北港で間違いないか?)
(はい…。しかし、私が知っていた頃とは全く違う場所でした。)
(そうか…。)
翠の国は全土を占領されたとみて間違いなかった。もし上陸するとなれば、相当な犠牲を強いられるのは確実だろう。
(それにしても…)
(はい?)
(いや、こちらの話だ。)
意思表示機に座っていたことを思い出し、慌てて立ち上がる。ズーマ程のパイロットを、このような作戦で失ったのは痛恨というしかなかった。
(今の気持ちを忘れるなよ。それが一つの命の重さだ。)
ノノウにかけた自分の言葉が跳ね返ってくる。それを振り払うように、メルは部屋を後にした。
蒼空の守護 @mura_tetta
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