第五章(開戦)

今日は風が強い。帝王逝去を悼み、いたるところで掲げられている黒い弔旗はどれも激しくはためいていた。まるでこの国の心を表しているようだな、とスィラは思わずにはいられない。

思えば不思議な運命である。尊敬するイスカの下から引き離されて、20にも満たないメルが新しい上司になり、さらにその一つ下で将兵養成学校をクビになったノノウに飛べと言われている。普段の訓練なら命令を突っぱねたかもしれない。しかし今スィラがプライドを優先したら、この島は後一時間もしないうちに灰燼に帰すであろう。30機の敵機がこちらに向かっているのである。

「…以上15のミューナ小隊は直ちに発進し敵を撃滅せよ!」

最南第一飛行隊は、3機を一小隊とする16の飛行小隊とスィラの隊であるグベイル隊の隊長機および護衛の5機、合計54機で成り立っていた。データリンクがブラックアウトし、機体を修理中のミクロス隊とグベイル隊を除く45機にスィラは出撃の令を下したのである。


いよいよ実戦か。ケアスは身震いした。一昨日人生最大の緊張を味わったばかりだというのに、わずか二日で更新されるとは。前回とは違い今回は明確な『敵』である。一昨日引き揚げられた戦闘機の情報は、ここ最南第一飛行隊の中にも伝わってきていた。その情報を聞いて皆安心した。戦闘機のスペックはこの国でいう大艦巨砲主義時代のものとほとんど同じだというのである。ミューナに向かってそのような戦闘機が飛んできたとしても、蝿(ハエ)を叩き落とすようなものだ。黒の国、恐るるに足らず。自分は何機落とせるか計算し始める者もいた。そんな雰囲気がガラリと変わったのは、つい数分前のスィラの一言だった。

「皆心して聞け。一昨日引き揚げられた戦闘機だが、あれは翠の国の物である。ラルバ殿の話では、黒の国の戦闘機は音速以上の速さが出る上、誘導ミサイルも備わっている!心して当たらなければ、痛い目をみるぞ!」

一瞬の沈黙、しかし次の瞬間パイロット達はみんなそれぞれ覚悟を決めた。

南海海戦以来、この国の兵士には「全力で戦え、ただし絶対に生きて帰らねばならない」という気風が初代希宮イルストルによって植えつけられた。ただ生きて帰る訳ではない。生きて生きて生き延びて、死ぬまでこの蒼の国に尽くす。退却、敗走した際は反省し、その反省を次に生かすのである。パイロットの養成に時間のかかる空軍では、かなり徹底してその気風があった。もちろん、それを可能にするだけの資源と物量がこの国にはある。

ケアスも故郷の浜島に女手一つで自分を育ててくれた母を置いてきている。母の為にもここで死ぬわけにはいかなかった。

「おい。」

覚悟を決めてミューナに向かうケアスに、野太い男の声がかけられた。振り返ると、そこにいたのはミクロス隊隊長のズーマである。

「俺と代われ。」

ズーマはケアスにとって先輩の小隊長である。しかし、いくら先輩の命令でも上官命令を曲げてまで従う訳にはいかなかった。

「無理です。スィラ大隊長の命令には逆らえません。」

「いいから代われ!」

歴史が変わる空を飛びたい。それがズーマの夢だった。今が正にその時である。国家の存亡を賭けた戦いが始まるのだ。ケアスの胸ぐらを掴んで締め上げる。そのままケアスを持ち上げて睨みつけた。苦しむケアスが足をばたつかせる。

次の瞬間、ケアスは苦しみから解放された。何者かがズーマを殴り飛ばしたのである。殴った主を見て、ケアスは思わず敬礼した。

「ゼーメン副隊長!」

「早く行け。遅れてはならん。」

ゼーメンは最南第1飛行隊の副隊長で飛行隊の中では最長老であり、スィラが最も信頼を寄せる人物であった。ゼーメンはケアスを見送った後、ズーマに向かって一喝した。

「馬鹿者!これから戦いに行く者に対してふざけた真似をするな!」

「しかし」

言いながらズーマはしまったと感じた。この老パイロットは言い訳を激しく嫌う。身構える暇もなく顔面にもう一発鉄拳を喰らった。老人と言えども全盛期は隊最強と言われた人物、生半可な威力ではない。ズーマの体は一瞬宙を舞い、壁に叩きつけられた。なんとか身を起こしたが、立ち上がれない。そんなズーマを見下ろしながら、ゼーメンは言い放った。

「罰は課さん。立ち上がるまでに頭を冷やしておけ。」

クルリと振り返ってゼーメンが立ち去っていく。その姿を眺めるズーマの眼からは、涙が溢れていた。殴られた痛みからでも、殴られた悔しさからでもない。言いようのない無念さが、彼の心を支配しているのだった。


空に舞った45機のミューナは5小隊15機を一編成としてα編隊、β編隊、γ編隊に分かれた。先鋒にケアスがいるα編隊、その後方50Kmの右翼にβ編隊、左翼にγ編隊が展開する。一糸乱れぬ動きで展開している事をレーダー上で確認したスィラは、淡々と指示を出した。

『最南航空隊本部からα隊に告ぐ。敵は我が編隊を確認したのか南下している。現在、目標との距離600Km。互いに高度は10000mである。ラグールの有効射程距離500Kmに達し次第、直ちに撃て。』

ラグールとは空対空ミサイルのことである。戦闘機業界に革命的進歩をもたらした、いわゆる「ミューナの奇跡」以後、従来のミサイルより射程が二倍になり命中精度も大幅に上がったラグールは、一躍ミサイル業界の主役に躍り出た名兵器である。定期的に改良が加えられて、今ではフレア(火球)やチャフ(レーダー妨害材)がなければ確実に命中する領域まで来ていた。

「ゼーメン、第一弾はどの程度命中すると思う?」

α隊15機が合計30発、敵機1機につき1発を発射する。まずは、敵が蒼の国の最新鋭ミサイルを避けられるのか。スィラはそれを見ようとしていた。

「全て当たるなら、この戦争は勝てます。当たらなければ、間違いなく長引きますな。」

ゼーメン程の老将でも、この戦いの行方を見極めるのは難しかった。まず、敵の能力が未知数である。

レーダー監視官が戦争の幕開けを告げた。

「α隊15機、ラグール発射!計30基、敵編隊に向かいます…敵編隊、散開。回避行動をとっているものと思われます!」

「β、γ隊、敵に撃たせる暇を与えるな。距離350Km。直ちに敵機を捕捉し、発射せよ!」

後方両翼に展開している二隊が合計60基のラグールを発射する。敵編隊は、左右から空対空ミサイルを受ける格好になった。これを避ける技量を、敵は有しているだろうか。


『最南航空隊本部から各隊に告ぐ。第一弾は全て躱された模様。』

クソッ、躱されたか。ケアスは思わず軽く舌打ちした。敵はラグールを回避出来る。これは南一空(最南第一飛行隊)の各パイロットに少なからず衝撃を与えた。しかし、既に第二弾が敵編隊100Km圏内に入っている。更に2基、敵は躱せるのか。

『最南航空隊本部よりα隊へ、第三弾を発射せよ。発射後直ちに反転、敵と距離をとれ。』

そろそろ敵編隊との距離が200Kmを切ってくる。敵編隊はラグールを躱すために上昇していた。これ以上敵の懐に入るのは危険、とスィラは判断したのだろう。第三弾を放つため、敵機をロックオンしようとした時だった。ロックオンの警告アラームが不気味に鳴り響く。

「ケアス2よりケアス1へ!ロックオンされました!」

ケアスの隊はまだ出来て間もないため、隊の名前がなかった。便宜上、隊名の代わりとしてケアスの名前を用いている。

「ケアス3!ロックオンされているか?」

「いえ、アラームは鳴っていません!」

「よし、第三弾発射後直ちに反転、回避行動をとる!」

ケアスは直ぐに敵機を捕捉し、2発のラグールを撃って反転した。直ぐに無線が鳴る。

「敵ミサイル120基、α隊に向かいます!」

120基。1機あたり4発撃って来たということか。絶対に逃げ切ってみせる。命もミューナも失うつもりはない。


レーダー上は輝点だらけになっていた。第一弾も合わせれば、数分で240基ものミサイルが飛び交っているのである。そんな状況でもゼーメンは冷静だった。

「敵は回避行動よりも攻撃を優先しました。ミサイルを撃ったのはいいですが、第二弾との距離は50Kmを切っています。普通なら逃げきれません。」

「普通…ならな。」

自信の表れか、功を焦ったか、はたまた国柄なのか。スィラは判断しかねた。距離50Kmからラグールを撃たれて逃げ切った人物をスィラは2人知っている。1人は尊敬する元上司、『空神』と謳われる空宮、もう1人は現上司、就任早々の王族航空ショーで『最南一の翼』と呼ばれるようになった守宮である。海面スレスレまで一気に急降下しつつ、ギリギリまでミサイルを引きつけて一気にバンクする。おおよそ人の技ではない。普段全く神を信じないスィラが、王家の血の神秘を感じた瞬間であった。

とはいえ、これはもちろんシミュレーター室での話である。

「引き分けかー。次会う時は、30Kmに挑戦ね。」

と笑顔でメルをツンツンしていたイスカだったが、そんなことが言えるのは、現実ではないからだ。実戦は命のやり取りである。その実戦で、敵は回避行動でなく攻撃を選んだ。何故か。その答えは、後30秒でハッキリする。

「敵編隊、回避行動をとりますが第二弾との距離残り5Km…間に合いません!」

輝点と輝点が交差するー次の瞬間、50個の輝点が消滅した。

「敵機25機の撃墜を確認!残り5機、尚も回避行動をとります!」

上ずった声でレーダー監視官が戦果を告げる。海面に向かって急降下を試みているのであろう。それが成功したら、相当な腕の持ち主である。

敵編隊は壊滅した。しかし、喜ぶにはまだ早い。敵の置き土産のミサイル120基がα隊に向かっているのだ。


上手いことバラけさせたな…回避しても回避しても新たにミサイルが飛んでくる。ケアスは既に10本躱していたが、なおも2本のミサイルが5Km以内に迫っていた。チャフもフレアも残量は殆ど残っていない。しかしミサイルを躱すためには、最後のチャフとフレアを撒くしかなかった。

異変に気付いたのはミサイルが残り1Km以内に迫った時だった。ミサイルが妨害を一切受けずに迫ってきたのである。

(何故だ…?)

考えている暇はなかった。ミサイル接近のアラームがけたたましく鳴る。『脱出』の2文字は頭になかった。反射的に、ミサイルを振り切るため急旋回した。

一瞬、目の前にミサイルが見えた気がした。

ケアスは目を瞑った。様々な思い出が脳裏を駆け巡る。

ミサイルは当たらなかった。ミューナの横を通り抜けたのである。

(追尾式ではない…?)

つまり、敵はこちらの動きを予測していたということか?そんなことが出来るのだろうか。考える暇もなく、無線が鳴った。

「ケアス2より!チャフ、フレア、ミサイルに効きません!ミサイルとの距離500m!」

「急旋回出来ないか?」

「無理です…振り切れません!」

「直ぐに脱出しろ!」

返答はない。ケアスは、脱出が間に合った事を祈るしかなかった。


既に、α隊3機の撃墜が確認されていた。ミサイルに追われていた最後の1機が消える。10機のミューナが1機につき12本のミサイルに追われ、4機を失った。南海戦争以来、実に116年ぶりに戦争による被害が出た。最南航空隊本部に重い空気が流れる。スィラが静かに口を開いた。

「…救難信号は出ていないか?」

「確認されていません。」

「脱出に成功している可能性もある。直ぐに救助ヘリを回せ。」

敵はさらに4機を失っている。残り1機は戦闘空域から遠ざかりつつあった。

この戦闘で多くの事が分かった。敵はラグールを回避でき、ミューナを撃墜に追い込めること。チャフやフレアが効かないミサイルを有していること。どれも衝撃的な事案である。今回はこちらが1.5倍の数で、しかも良く知っている空域であったから圧勝出来た。しかし、それでも損害は出た。これから敵が今以上の物量で攻めてきたら、この島はひとたまりもないかもしれない。この後の事を考えると、スィラの気持ちは暗くなるばかりだった。

そんなスィラに上を向かせたのは、レーダー監視官の一言だった。

「救難信号確認!ケアス隊の2番機です!」

おお!と幹部達が沸く。そうだ、希望を捨ててはいけない。将たる自分が希望を捨てたら、それこそ負けなのだ。こちらもまた、敵編隊を壊滅に追い込める力がある事を証明したのだ。勝負はまだまだここからである。


あまりの衝撃に、メルは思わずスマホを落としそうになった。

「信じられない。」

「余りにも敵の動きが早すぎます。もはや、戦争状態に突入したと言わざるを得ません。」

戦争状態…ノノウの言う通りであった。両軍に死者が出た以上、もはや後には引けないだろう。

「とにかく死者が出ている以上、この件は公表せねばなるまい。記者会見の際は出来るだけ戦果を強調して発表しろ。最南島は更に混乱するだろうが、やむを得ない。」

既に最南島を出る飛行機や船のチケットは全てプラチナチケットになっていた。規制しても規制しても現れる転売ヤーが、ネット上で高値を付けて販売しているのだ。それでも売れるのは、島民の恐怖心の表れと言える。

しかし、それ以上に大事な事がある。今の最南島はメルが着任したばかりで、島の防衛装備の殆どは前の鎮守宮が次の赴任地へ持って行ってしまっていた。この国では『建軍』といって、新しく鎮守宮になった者は1から軍を組織せねばならない。そのため着任したての新任の鎮守宮の軍というものは殆どが新卒や老兵の集まりであり、まとまりがない。訓練や追加募集によって少しずつ正規兵らしくなっていくが、初期などは『軍』と呼べるようなものではなかった。メルの軍も例外ではない。メルの海軍は一応『最南艦隊』と呼ばれてはいるものの、内実は空母1艦とフリゲート艦が3隻あるのみで、おおよそ艦隊の形をしていない。敵が艦隊で押し寄せてきた場合、ミューナだけで立ち向かわなければならない、という危機的状況に陥いるのである。

本来ならば憲法の規定に法って『緊急事態宣言』を行い、蒼候や帝王に軍事的援助を仰ぐ。しかし、現時点では蒼候位も帝王位も空位である。つまり、援助を仰ぐ相手がいなかった。一応民間のトップである首相・キサンに内閣から最南島に救援の要請を行なって欲しいと連絡したものの、未だに何の動きもない。キサンは最近架空支出問題が発覚し、大きく支持率を落としていている。挽回に努めるため、南海事件に関わっている余裕はなかった。蒼候候補を始めとした有力王族も、選挙を優先して南海事件には見向きもしない。

「正直なところ手立てがない。ノノウ、何か手はあるか?」

これほどメルが焦っているのを見るのは初めてだった。少し戸惑いながらノノウは答えた。

「確か、連合候殿下は憲法上、直接艦隊を動かす力を持っているはずです。」

連合候。かつて軍を指揮する頂点であった役職である。王国軍は議会の予算とは別に各宮家の私費で成り立っており、各宮家の兵で構成されているため連合軍と呼称され、そのトップにあたる人物は連合候と呼ばれた。『かつて』というのは、最近は力のある蒼候が傀儡の連合候を立てるため、実権を殆ど持っていないのである。現在の連合候は前の蒼候であった賢宮の一人息子の誓宮(ちかいのみや)であった。父の名前で無理やり王将校を通り抜けた人物であり、能力は非常に凡庸であるがその生まれから『連合候』に据えられた。内実は、父賢宮の指令を認めるだけの役割であり、影で「頷宮(うなずきのみや)」とあだ名されているらしい。

「それだ。すぐにお願いしてみよう。」

「増援艦隊には誰を推挙するつもりですか?」

「分かってるくせに。」

メルは急に砕けた言葉を使って即答した。

「兄上以外に適任がいると思う?」


本日の夕食のメインディッシュは『アリューの炊き込みご飯』である。アリューは蒼々本島でとれる春の高級魚の一種だ。この国の言葉で『魅力』の意味を持つアリューの名をつけられた通り、宝石のような鱗は巷では高く売れるが、アリューからとった出汁で炊いた炊き込みご飯もまた絶品であった。米もまたこの国の最上級の物である『ヒプライト』であり、この辺りからも望宮が裕福である事が滲み出ている。

兄妹2人で夕食を食べるのは、本当に久しぶりだった。メルには2人の兄と2人の姉がいるが、まともに話すのはラディくらいのものである。放蕩息子と陰口を叩かれる長兄のラヌイが家にいる事は殆ど無く、2人の姉は既に他家に嫁いでいるので、この家にはいない。

メルの申し出を、ラディは快諾してくれた。また一つ兄に借りを作ってしまい、申しわけなく思っているメルの心を直ぐに読みとり、

「一度お前と共に戦ってみたいと思っていた。お前が王将校を卒業した後、色々あって私の下に来れなかったから諦めていたが、まさに天祐だよ。」

と言ってくれた。この兄宮の言葉は、アリューの炊き込みご飯のような柔らかな温かみがある。ラディとアブエロがいなければ、メルは永遠に『家族』とは何なのかを知れなかったかもしれない。

「しかし連合候殿下は父宮を亡くしたばかりでさぞご心痛のことだろう。メルは直接会談をすると言うが、果たして会ってくれるだろうか。」

「そこです。今最南島で起こっている事態を、重く見てもらえるといいのですが…」

「『寝技』を使ってみたらどうだ?メルは純粋だから難しいかもしれないが…」

メルの顔がみるみる赤くなった。

「父上ではなく兄上にそんな事を言われるとは…」

ラディはすぐに誤解された事に気づき、慌てて首を振った。

「違う違う。そういう意味じゃない。お前、連合候殿下の渾名(あだな)を知らないのか?」

「『頷宮』がどうかしたのですか。」

「実は、彼にはもう一つ渾名があってな…」

ラディは気まずそうな笑みを浮かべながら言った。

「『ロリコン連合候』だ。」

「やっぱり私じゃないですか。」

メルは軽く唇を尖らせる。ラディはかぶりを振った。

「違うんだな…残念だが、お前には少女らしさ、あどけなさがない。それに、連合候殿下の好みは10代前半だ。後、お前が思っているほど如何わしいものではないぞ。…とんでもない趣味には変わりないが。」

「はぁ…」

メルは反応に困った。だからどうしろと兄は言いたいのだろう。

「父上が沢山の妻を持っていることをお前が良く思っていないのは知っている。だが、それを武器に使うのもまた政治だ。父上のおかげで、我々には多くの弟や妹がいる。」

ようやくメルは、兄の言わんとする事が分かってきた。ラディは言葉に困りながら、話を続ける。

「お前は母親似だが、父上に似た妹達もお前に負けないくらい、その…可愛い。お前と仲の良い妹に会談の打診をしてもらえば、実現する可能性がぐっと高まるのではないか。」

「そうかもしれませんね。しかし兄上…」

メルはいつのまにか、悲しげな表情を浮かべていた。

「兄上だけは違うと思っていたのですが…。」

今度はラディが赤くなる番だった。ウォッホン、とわざとらしく咳払いをする。

「私は政治的な話をしているのだ。父上や兄上がそうだからって一緒にするんじゃない。」

「本当に、イスカさんだけ?」

「…誰から聞いた。」

「本人から…」

「あのバカ。」

こんな兄の表情をみるのは初めてである。メルはかなり我慢していたが、体が小刻みに震えていた。

「笑うな。」

ラディは表情を隠すようにアリューの炊き込みご飯を口に頬張った。


メルが白羽の矢を立てたのは、12歳の妹・華宮(はなのみや)だった。名をイーレという。メルとはまた違った魅力、有り体に言えば幼女的な可愛さの持ち主で、メルほどではないが関連グッズもそれなりに売れているし、子役でドラマに出たりもしている。なによりメルと仲の良い妹であった。


もう5年ほど前のことである。

テアは指揮官肌なメルの部屋があまりに味気ない事を気にかけて、メルの部屋に来る時は良く四季折々の花を持って来てくれるようになった。とりあえずテアが持って来てくれた時は部屋に飾っておくのだが、興味のない自分よりも花が好きな人が愛でた方が花も喜ぶのではないか、と当時のメルは思っていた。

イーレが園芸に興味を持ったのは、この1年ほど前のことだった。王族の幼稚園にあたる幼宮園(ようぐうえん)で育てた花がきっかけで色々な植物を育てるようになり、最近では彼女が作った野菜が食卓に並ぶこともあった。

「本当に良いのですか?」

イーレと挨拶以外で話したのはこの時が初めてであった。イーレによると、テアの持って来てくれた花はかなり珍しいものらしい。それでもメルは全く惜しいとは思わなかった。

こうしてメルはテアから花を貰うたび、その花をイーレに渡すようになった。

事件が起きたのはそれから1年後のことである。相変わらず飾り気のないメルの部屋を見たテアがふと尋ねた。

「そういえば、私のあげた花は元気?」

「元気だと思う。」

「思う?」

テアは怪訝そうな顔をした。

「花は今どこにあるの?」

珍しくメルが返答に窮した。妹に任せっきりにしていると言うのは、どこか気恥ずかしかったからだ。

「枯らしたの?」

「いや、枯らしてはいないんだけど…」

枯らしてはいない、かは分からない。正しくは『知らない』である。イーレに渡した花がその後どうなっているのか、メルは全く知らなかった。テアの顔がますます曇る。少し緊張した空気が流れ始めたその時、メルの部屋がノックされた。

「じいか?」

「イーレです。」

「イーレ?」

「私の妹だよ。」

強張っていたテアの顔がパッと明るくなった。

「見たい!」

「入れ。」

テアの追求から逃れてホッとしたのも束の間、イーレが手に持っている物を見て、しまったと思わずにはいられなかった。

「この花はなんというのですか?調べたのですが図鑑には載っていなくて…」

その花は一昨日テアがメルにくれたばかりの花だったのである。テアは一瞬全てを理解したと言わんばかりの視線をメルに送った後、彼女に花の説明を始めた。一通り説明を終えた後、テアはイーレに尋ねた。

「メルからはいつも花を貰っているの?」

イーレは目を輝かせながら答えた。

「はい!中々手に入らない、貴重な花ばかりです。」

「へぇ…」

テアの母方の実家がそういったレア物ばかりを取り扱う花屋だとメルはいつか聞いた覚えがある。そのため、テアは色々な花について詳しかった。

「私もその花々を見てみたいわ。」

「ご覧になりますか?」

「えぇ、是非。」

園芸談義に沸く2人の後ろをメルはトボトボとついていった。テアは満開の桜のような笑顔をイーレに見せているが、内心怒っているのではないか。メルは不安で仕方がなかった。

3人はエレベーターで一階に降りると、望宮邸の中庭に出た。中庭といってもこの巨大な宮家の中庭は壮大なもので、まるで森のようである。イーレは中庭の複雑に分岐する道を迷わずスタスタと歩いた。見えてきたのは、大きな栽培用の温室である。

「ここです。」

イーレが温室の扉を開ける。わぁっ、と思わずテアは声をあげた。メルもただ驚くしかない。

天井からは赤とピンクの花々が吊るされ、床には一面円形の道に沿うようにして色鮮やかなお花ばたけが広がっている。入ってすぐの所には、花々に囲まれたベンチが置いてあった。テアの送った花は、そのベンチの後ろに整然と飾られていた。

「これは全て貴女が?」

「いえ、花好きな侍女達と一緒に作りました。」

3人はその円形の花道をゆっくり歩いた。2人のわだかまりも鮮やかな花々の前では小さなものに過ぎず、まるで花の香りに導かれるようにして解かれていく。

温室をぐるっと一周した後、テアはベンチの前で立ち止まるとクルリと振り返った。

「…メル。」

テアに合わせてピタリと立ち止まったメルの頭をポンポンと叩いて言った。

「またお花持ってくるから。」

キョトンとしている2人に向かって、テアは優しく微笑んだ。


イーレは快く申し出を受け入れてくれた。早速イーレから誓宮に連絡してもらう。すると、なんとイーレのサイン入りブロマイドを一枚くれるなら会談を行うと言ってきたのである。しかも、会談は何とその日の深夜に行われる事になった。

ラディは会談の決め方だけでなく、もう一つ『寝技』をメルに教えこんだ。こういった才能は政略に長けた上級文官である父の才能の遺伝なのかもしれないが、メルはあまり好きにはなれなかった。しかし、今は形にこだわっている余裕はない。こうしている間にも、敵が迫って来ているかもしれないのである。


闇の中を一台の黒い車が旧賢宮邸に向けて疾走していく。華宮・イーレの『保護者』としてメルは帯同していた。丸メガネに三つ編、黒い服を身に纏えば変身は完了である。極秘のお出かけはもう慣れっこだった。自分は王女より、忍者の方が向いているかもしれない。空戦だって敵に見つからずに接近して攻撃するのが理想ではないか。そんな事を考えている間に姉妹を乗せた車は旧賢宮邸に到着した。

誓宮の部屋を見て、メルは驚いた。幼い女の子の写真が二次元三次元を問わずびっしりと張り巡らされている上、彼の机の上には大小様々な幼女のフィギュアが置かれている。そんな異様な部屋の中でも、イーレは落ち着いていた。

「イーレと申します。お見知りおき下さい。」

「お見知りも何も君のことは良く知ってるよぉ~。まさかボクの家に来てくれるなんて!」

よく見ると、幼女ポスターの中には最近注目されている王族の少女達のポスターも混じっている。きっとこのポスター群のどこかに、イーレのポスターもあるのだろう。

「こちらがサイン付きのブロマイドです。後、お願いがあります。私も誓宮様のサインを頂きたいのです。」

そう言ってイーレはブロマイドと一枚の書類を渡した。

「どこどこ、どこに書けばいいの~?」

「ここです。」

イーレが誓宮に寄り添う。誓宮は書類に全く目を通さずに、スラスラとサインした。きっといつもそうしているのだろう。ラディはこの事を知っていたのではないだろうか。イーレが一瞬、心配そうな顔でこっちを見た。迷うな。トドメを刺すのだ。メルが大きく頷く。

「スタンプもくれると嬉しいな!」

流石に子役を務めるだけある。誓宮は言われるがままに連合候印を押してしまった。

『寝技』は一瞬で完了した。一時間ほど3人でたわいのない話をしながらお茶を飲む。誓宮が今ハマっている幼女アニメの話が延々と続いたが、イーレは終始笑顔で相槌を打ち続けた。

イーレが笑顔を消したのは、車に乗ってからだった。

「流石に疲れました…。」

「よくやってくれた。今度は何の花が欲しい?イーレの望みの花を送ろう。」

「まだ最南島原生の植物を育てたことがありません。今度帰ってくる時に、最南島で姉上が気に入った花の苗を下さいませ。」

「分かった。必ず持ち帰ろう。」

そう言いながら、メルはノノウに一通のメールを送った。

『全国向けの記者会見は不要である。明朝私が会見を開く。』


望宮邸に帰ると、メルは思わぬ人物に呼び出された。父・望宮である。

父の部屋は望宮邸の最上階にある。まるで図書館の様な部屋で、沢山の本が整然と陳列されていた。その本棚を通り抜けた先に、望宮の机があった。呼び出されていたのはメルだけではなく、ラディの姿もあった。

「久しぶりだな。」

「お久しぶりです。」

既に帰省して2日が経つのに、何故今日まで呼び出されなかったかメルは知っている。上級文官である彼は帝王と蒼候が同時にいなくなるという異常事態の中、次に力を握るのは誰かを見極めるためにずっと宮殿に詰めていたのだ。

「明日、記者会見を開くらしいな。」

さっきマスコミにリークしたばかりの情報だ。流石の情報収集力である。メルは頷いた。

「はい。」

「戦争は本格化すると思うか?」

「敵が押し寄せれば迎え撃つしかありません。この国を守るのが、我々の仕事です。」

「この戦いは、次期蒼候の選挙戦に必ず影響する。良くも悪くもな。」

「父上は、どちらが勝つと思われますか?」

統宮と雲宮、希宮系最大の勢力と直宮系最大の勢力の激突。どちらに転ぶかは今後次第だと二人は思っていた。

「お前達には悪いが、おそらく勝つのは統宮(あにうえ)だ。」

まだ選挙戦が始まっていないのに、望宮はあっさりと言い切った。ラディの副官であり恋人、そしてメルの先輩でもあるイスカの父が雲宮である。二人がどちらに付くか、望宮に見えないはずがなかった。

「理由は簡単だ。統宮は人望がある。雲宮にはない。」

人望があるならば何故テアの心を推し量れなかったのか、とメルは思わずにはいられない。

「戦争をするのは結構だ。金も出そう。だがな、これだけは肝に命じておけ。」

望宮は鋭い視線を二人に向けた。

「必要以上に戦果を挙げるな。お前達が雲宮派なのは、我々上級文官の間では周知の事実である。統宮が政権を握り、雲宮一派を駆逐した時、次に目障りになるのはお前達だぞ。」


壮大な望宮邸の中でも最も広い『大望殿』を使ってもマスコミの人々は入りきらなかった。『見送りの儀』の際にもマスコミに取り囲まれたメルだったが、帝王逝去を悼んでいる最中に政治的な話はしない、後日会見を開くと態度表明を延期していた。その直後、昨夜入った南海事件以降最大のニュース-そのニュースでは最南沖空戦と呼ばれていた-は多くの国民に計り知れないショックを与えていた。そんな中で行われる最南鎮守宮の記者会見は、当然大きな注目を集めた。

メルが大望殿に入った瞬間、機関銃のようなシャッター音が鳴り響き、無数のフラッシュでメルの姿は一瞬消えた。彼女はまるで威嚇のような音を鳴らし続けるカメラ達に全く動じることなく席に座ると、シャッター音が落ち着くのを待ってマイクを手に取った。

「既に周知の事実ではあるが、昨日現地時間午後0時30分頃、我が最南第一航空隊45機と『黒の国』と思われる謎の敵編隊30機が最南島の南、約400Kmの空域で戦闘に及び、敵機29機を撃墜、敵編隊を壊滅させた。しかし、我が最南第一航空隊もミューナ4機と3人の人命を失った。最南鎮守府は事態を憂慮し、増援を求めたところ、連合候殿下の令により最南鎮守宮の最南島帰還、そして我が兄でもある護宮殿下所属の第六艦隊の最南島派遣が決まった。これがその証拠である。」

メルは高々と連合候令を掲げた。末尾には誓宮のサインと連合候印がしっかりと記してある。

「既に戦争状態に突入していると報道されていますが、勝算はあるのでしょうか?」

「戦闘機の性能は、こちらが上回っている可能性が極めて高い。防衛戦闘の範囲内ならば、必ず勝てると見ている。」

「戦闘を拡大することはないのですか?」

「最南鎮守府に戦闘拡大の意思はない。少なくとも、次期蒼候が決まって命令が送られてこない限りはあり得ないと考えている。次期蒼候候補がこの問題に対してどのような対応をするのか、候補達が示した対応策を重視して投票して貰えるとありがたいと思っている。」

必ず勝てる。そうメルは言い切った。言い切らなければ、最南島が更に混乱するだけだ。これ以上島を恐怖に陥れるのは、何としても避けたかった。しかしこの発言は同時に、メルが常勝将軍であり続けなければならなくなったことも意味していた。続いて隣に座っていたラディが口を開く。

「最南島の皆に告ぐ。我が第六艦隊には、『空神』の名高い空宮を始めとして、海空の精鋭が揃っている。島を出たい気持ちも分かるが、安心して今までと変わらない生活を営めることを、艦隊を代表して宣言したい。」

これはまた大きく出たな、とメルは思った。第六艦隊は若手中心で構成された艦隊である。この機会に名を上げようと思っている将校も少なくないだろう。意気軒昂なのはいいが、若さ故の過ちも起きるかもしれない。その点をラディがどう統率していくのかがメルの気になる所であった。

「出撃は、明日の正午である。」

流石に、燃料補給や艦・機体の整備などでどうしても出撃態勢を整えるのに1日はかかってしまうらしい。夜ではなく昼の出撃となったのは、望宮の意向であった。夜ひっそりと出撃するより、白昼堂々と出撃した方が華やかだし望宮家のイメージアップに繋がるというのである。文官が軍に口出しするな、とメルは思ったが、ラディが承諾した以上認めるしかなかった。

「父上は確かに文官だ。しかし、我々の最大のスポンサーでもある。今後のためにも、ここは聞いておいた方がいい。」

戦争が長期化したら莫大な戦費が発生する。最南鎮守府の予算を大幅に超える可能性はかなり高い。そうなったら父を頼らねばならないとラディは続けた。

記者会見後も記者達は帰らなかった。113年ぶりの激励式が行われるのである。

この国には伝統として、戦争が始まる前に帝王が軍の司令官を励ましに来る。100年以上に渡って『国内最後の戦争』であった暴宮の乱の際も激励式は行われた。この時は時の帝王・英帝が来たらしいが、帝王不在の今、帝王家の名代としてやって来たのは次期帝王の義妹であった。

(テアか…)

思わずアットホームな感覚を覚え、メルは一瞬表情を崩した。テアはその一瞬の表情を見逃さなかった。まずラディ、次いでメルに花束を渡し、笑顔で握手する。無数のフラッシュが3人を包んだ。


「何よ、私じゃ不満なの?」

テアが唇を尖らせたのは、大望殿の控え室に戻ってからだった。

「違う違う。あれじゃいつもとあんまり変わらないからさぁ…」

メルはこれまで何回テアに花を渡されたか覚えていない。

控え室にいるのはメル、テア、ラディの3人だけだった。ラディは水を飲みながら、2人の様子をみて微笑している。

メルに対して一通りブツブツ言ったテアは、急に悲しげな顔になってポツリと呟いた。

「…この後空いてる?」

テアは即位式に向けて忙しいこの時期に、無理してこの日の午後を空けておいた。鎮守宮達の兼ね合いから、メルが王将校を卒業してから最南鎮守宮になるまでの間は僅かな期間しかなく、その期間の全てをメルは建軍のために使った。卒業旅行に行けなかった事がテアはかなりショックだったらしく、電話するたびにその事を後悔していた。彼女が忙しい中無理して時間を作ったのには、そういう背景がある。

「空いてない事はないけど…」

メルはチラッとラディを見た。兄はこれから出撃に向けて支度を始めるのに、自分が遊びにいくのは罪悪感があった。ラディはそんなメルの心境をすぐに見抜くと、

「いいよ。」

と短く返して部屋を出て行った。どうせこれから3人とも先の見えない戦争と政争に巻き込まれていくのだ。せめて半日くらいは2人を自由にさせてあげたい。ラディはそう思わずにはいられなかった。


小さい頃は、よくカフェに行ったものだ。あの頃は2人ともまだ全く無名の存在で、アブエロと3人で紅茶を飲んでいても誰も気に留めなかった。あれから10年、混雑を避けてやっと座れたカフェのテーブルの広告に2人の顔が写っている。

「こんな時もあったわね。テアが一緒に化粧品セットのCMやろうって。」

「メルっていつも飾り気がないでしょ。ドレス姿なんて夜の舞踏会くらい。貴女の姫らしい姿を王国民に見せないなんて勿体ないじゃない。」

確かに、メルが正装姿以外のドレス姿を王国民に見せたのはこの時だけである。メルとテアがお互いをメイクアップをしてその姿を披露するという内容だったが、実際にテアのメイクを考えたのはメルではなくテア自身だった。化粧品会社の要望に合うほどのテアを作る力など、メイク経験が乏しいメルには到底なかった。

「あの時は悔しかったわ。全部テアに頼らないと、何も出来なかった。」

「守宮様でも、郷に入ったら郷に従わないとね。」

「茶化さないで。」

メルは一気に紅茶を飲み干した。

「悔しかったから、あの後少し研究したのよ。あの時よりは腕を上げたわ。」

「ほほ~ぅ。」

テアは急にニヤニヤし出した。

「なら、この後ショッピングしましょ。」

メルに美的センスが無いのは、実家の望宮家の財力のせいと言えなくもない。宮殿の舞踏会に参加する時はいつも使用人達がオーダーメイドして、新調したドレスを着せられていた。メルにとってドレスは、採寸されたら出来上がっている服くらいのイメージしかなかった。しかしながら、最近化粧にも興味が出てきた妹のイーレは12歳にして様々なドレスを着こなしているし、テアなどもはや比較するのもおこがましいようなレベルの違いがあった。


休日ということもあって、ショッピングモールは混雑していた。国が喪中だというのに、人々はいつも通りの生活を営んでいる。この人混みのおかげで、メルとテアは帽子をかぶってメガネをかけるくらいの軽い変装で群衆に紛れることが出来た。

(もしバレたら、とんでもないことに…)

とメルは思った。帝王崩御の2日後に帝王の義娘と最南鎮守宮が遊んでいたなどとスクープされたら一体どうなることやら。お忍びには慣れているはずなのに、メルは少しドキドキしながら服を選んだ。

「うーん、まあまあかな。」

「チェッ、もう二度と選ばないから。」

「冗談よ、ありがと。」

テアはずるい。それなりに毒舌を吐いても笑顔で帳消しにしてしまうのだ。顔が赤いのを見られたくなくて、メルはプイっと顔を背けた。

「せっかく服を選んでもらったし、行きたいところがあるの。」

テアは意気揚々とカバンからチラシを取り出した。チラシに載っていたのは、蒼都の外れにある村でこの日に行われる春祭りの宣伝である。


公共施設や遊園地、デパート、映画館などの娯楽施設も通常通りの営業に戻っていた。これは成帝の王国民への遺言が報道されたからであった。

『思えば朕は常に平和を願ってこの国を治めてきた。朕が死んでも出来る限り皆の平和な日常を守りたい。国葬当日はやむを得ないが、その翌日からは皆、元の生活を送って欲しい。皆が平和を永遠に享受し続ける事が、朕の最後の願いである。』

この言葉を殆どの王国民は忠実に守った。一部の国粋主義者や敬虔な王朝信者はかつての慣例通り7日間の喪に服しているが、この国は新しい時代に向かって既に動き出していた。村の祭りも開催の是非を議論した結果、遺命に従って開催される運びとなったのである。

この時期の蒼々本島は夜になると少し肌寒く、浴衣姿で来ている人は殆どいなかった。

「お二人は煌宮様と守宮様によく似てますねぇ。」

髭面の屋台のオヤジは慣れた手つきで2人分のわたあめを作りながら話しかけた。

「よくいわれます。おじさんはどちら派?」

にこやかにテアが尋ねる。

「俺は断然煌宮様ですな!今日の花束を渡している姿もとても美しいもんでしたよ!」

「あら、私は守宮様派よ。サイン入りブロマイドまで頂いた事があるの!」

テアが満面の笑みでカバンからメルのサイン入りブロマイドを取り出す。あれは昔じゃんけんに負けて書かされたヤツだ。

「それは超レアものですな!オークションにかけたら一体いくらになるか…」

「ちょっと、そんなバカなことする訳ないでしょ?」

「これはとんだ失礼を致しやした。」

オヤジはペコペコしながらわたあめを渡す。わたあめを舐めながら歩く2人はもはやただの女友達にしか見えなかった。メルは物言いたげな目でテアを見つめる。

「どうしたの?」

「まさかまだ持ってたとはね。」

「あぁ、ブロマイドのこと?」

テアは得意げに鼻を膨らませた。

「いつも肌身離さず持ってるわ。私以上のメルファンはいないわよ。」

はぁ、とメルがため息をつく。そんなメルを見て、テアはニヤニヤしながらカバンに手を入れた。

「実はもう一枚あってね…」

何と、水着姿のメルである。そんな写真は撮られた覚えがない。大体、王族の姫達はヌード写真はおろか、水着の写真集を販売することは王族の権威を保護する為ということで禁止されている。

「どこでそれを!?」

「去年、望宮邸でこっそりと。」

「バカっ!!」

そういえば去年の夏、テアの希望で望宮邸の巨大プールを貸し切って2人きりで泳いだんだっけ。泳ぎだして直ぐに休憩すると言ったのが気になったが、まさかこのためだったとは…。メルは真っ赤になった。テアは笑ってひょいひょいと人ごみをすり抜けて逃げていく。メルはわたあめを放り投げて追いかけた。

王国民の中ではおしとやかな姫と評判のテアだが、若宮養成校時代はメルに次ぐ脚力の持ち主だった。すぐに人混みから脱出すると、とてもハイヒールを履いているとは思えないスピードで丘を駆け上っていく。メルは丘の頂上でやっと追いつくと、後ろからテアを抱え込んだ。

「キャッ!」

テアのわたあめが夜空に舞う。2人はバランスを崩して芝生の上をゴロゴロと転がった。

「ソレを渡しなさい。」

メルが珍しく命令口調である。テアは息切れしながら、渋々水着写真を渡した。そのまま芝の上に寝そべって夜空を見上げる。メルもそれに習った。

「…ねぇ、覚えてる?」

「ん?」

「初めて『お忍び』した時もこうやって空を見上げたわね。」

王族の公務デビューにあたる『初見えの儀』以降有名になった2人はマスコミに追い回されるのを嫌がり、外出時は地味な服を着てマイナーな場所で遊ぶようになった。初めての『お忍び』は名もない小さな丘でランチを食べ、野原に寝そべってお昼寝をした記憶がある。

「そうね。うららかな春の日だった。柔らかな陽射しが眠りを誘ってウトウトしていたものだから、テアがくっついて来たのに気付かずに蹴っ飛ばして泣かれたのを覚えてる。」

「まあ。」

父費宮を亡くしてから4年ほど、テアは情緒不安定だった時期がある。両親を亡くし、精神的な支えがメルしかいなくなったため、メルが突き放すような言動をとると大泣きした。丘の上で泣かれた時メルは慌ててテアを抱きしめ、大丈夫だよと繰り返し言い続けた。

「全く覚えていないわ。」

「もう7年前のことだからね…。」

7年。星空を眺めながらメルは思いに耽った。時が流れる早さと流れ星が流れる速さはどちらがはやいのだろうか。

不意にテアが芝生の上で一回転してメルに抱きついてきた。

「今なら…蹴飛ばさない?」

「もちろん。」

「だったら…しばらくこのままいさせて。」

テアの体温が流れ込んでくる。蒼々本島特有の少し肌寒い春の夜風が余計に体温の温かさを際立たせ、彼女の髪から漂う柔らかな香水の香りがメルの心を素直にさせた。

「テア…私…あなたのこと…」

(バァン!)

突然の轟音に2人は驚いて身を起こした。

「花火よ。」

赤青緑、大小様々な花火が夜空を彩る。

「…ねぇメル。」

花火の色に合わせてテアの瞳は輝いていた。

「また見に来ようね。私はずっと、何年でも待っているから、必ず帰ってきて。」

その瞳から涙が溢れる。メルは思わずギュッとテアを抱きしめて、耳元で囁いた。

「えぇ。帰ってくるわ。どんな事があっても必ず帰ってくるから。」

一段と大きな花火が夜空に咲き誇る。照らし出された2人の影法師は、7年前の柔らかな春の日差しに照らされて出来た影と全く変わっていなかった。

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