第三章(二人の過去)

この空の向こうに


〜第3章〜


久々に帰ってきた蒼都は、正に「蝙蝠の街」という状況になっていた。道行く人々は皆黒い服を着ていて、家という家に弔意を表す黒い旗がはためいている。

成帝が崩御した翌日、蒼候より全王族に向けて緊急に蒼都に集まるよう命令が下った。帝王の崩御、即位にあたっては全王族が一斉に蒼都に集まり式に臨むのが慣例である。即位の式はともかく、大喪の式の時は弔意のムードを崩してはならないので各島の鎮守宮は極秘に蒼々本島に入らなくてはならなかった。特に英雄扱いされているメルは自ら艦上戦闘機ミューナに搭乗し、蒼々本島鎮守府管轄の空母に着艦して入島するほど慎重だった。

蒼々本島には軍専用の港がある。南海海戦の英雄・初代希宮の名前を冠して、イルストル記念軍港と呼ばれていた。メルがその軍港に降り立ったのは、成帝が崩御した翌日の夜遅くであった。

「メル!」

懐かしい聞き覚えのある声が夜の軍港に響きわたる。

「…テア、迎えに来てくれたのか。」

言い終わらぬうちにテアはメルの胸に飛び込んできた。

「ダメ、リアルプリンセスとも呼ばれる貴女がこんな所を撮られでもしたら、スクープどころか1冊の本が出来てしまう。」

「…いいの。ちょっとだけでいいから、このままいさせて。」

これではどちらが年上か分からないと内心苦笑しながらも、テアがよくお忍びの外出の時に着てくるセピア色の服から香る柔らかい香水の香りがメルに遠い過去の記憶を思い起こさせた。


初めてテアと出会ったのは、3歳の頃らしい。

らしいというのは、初めて出会った時の事をメルは全く覚えていないからである。気づいたら1学年上に友達が出来ていて、その友達がテアだった。

幼少期から聡明だったメルだったが、友達はあまりできなかった。勉強も体育も音楽も図工も、何をやっても一番になる彼女に、嫉妬心を抱くクラスメイトは多かった。ある時嫉妬したリーダー格の男子が彼女に喧嘩を仕掛けたが、見事に返り討ちにされてしまい、それ以来誰も彼女に近づかなくなってしまった。

テアもまた孤独だった。彼女の父親である先代の希宮は『費宮(ついえのみや)』と呼ばれるほどの稀代の浪費家であった。彼は希宮家が3代に渡って貯めた財産を全てギャンブルに使っただけでなく、多額の借金を作ってしまい、テアが7歳の時に自殺してしまった。当然希宮家は立ちいかなくなり、南海海戦の英雄イルストルを輩出した名家は一時的に断絶してしまった。残されたテアと3歳年下の弟リリルは、父方の叔父である統宮の元で養育された。2人は統宮のおかげで若宮養成学校に通う事が出来たが、悪名高い費宮の娘という事実は消す事が出来ず、クラスの中では孤立しがちだった。

孤立した者同士、それに幼少期から仲が良かった事もあり2人はいつしか大親友になっていた。空いている時間は何時も2人でいろいろ遊んだものである。中でも2人が面白がったのは、普通の人の格好で王都民に紛れて街に繰り出す時であった。王族という堅苦しい縛りから逃れて見る新しい世界は、2人に鮮烈な開放感を与えた。

王族達は8歳の時に王族の幼稚園にあたる幼宮園(ようぐうえん)を卒業すると、9歳から17歳まで若宮養成校(わかみやようせいこう)に通う事になる。養成校を卒業して、指揮官、文官、あるいは妃の道を歩んでいく。更に、成績優秀者は養成校を2年単位で飛び級する事が出来た。

メルがテアと同じ学年になったのはメルが10歳の時である。メルが飛び級してお互いに3年生になり「同じ学年になれたね!」と笑顔で話した時、とても寂しげな笑顔を返されたのを何故か鮮明に覚えている。下位に沈んでいたテアの成績は、3年の終わりにはメルとトップを争う程に成長していた。今だから分かるが、テアはメルに学年が追いつかれた事が悔しくてたまらなかったようで、せめて抜かれないようにと猛烈に勉強したらしい。彼女は遂に3年生最後の進級試験でメルを越える点を叩き出してトップに立ち、飛び級を決めた。この頃から2人は親友であるだけでなく、お互いをライバルとみなして事あるごとに競い合った。その後も順調に2人は飛び級で進級を決めていき、養成校を卒業する事になった。2人の身にはこの後王宮を揺るがす「大事件」が起こるのだが、その話をするのはもう少し先のことになる。


テアが乗ってきたお忍び用の車に乗り込んで、2人は望宮邸を目指した。望宮はメルの父親で、彼女は最南鎮守宮になるまではずっとそこに住んでいた。深夜、殆ど対向車が来ない道を一台の車が疾走していく。本来王族が車を運転するなどあり得ないのだが、テアの周りの人達はなぜか止めようとはしなかった。自分の思うように物事を動かす力をテアは秘めている。それもまた一種の才能ではないかとメルは思っていた。

「最南島はどう?過ごしやすいところかしら。」

「ようやく慣れてきたってところかな。悪くない場所なんだけど、暑いのがね。」

「暑いより大変なことがあるでしょう?」

テアは心配そうにメルの顔を覗き込んだ。

「大丈夫なの、黒の国は。」

「まだなんとも。先の事は分からないよ。」

南海事件−巷ではそう呼ばれている−の展開は今後も予断を許さない状況であるため、ノノウとアブエロは最南鎮守府に留めてある。メルのいないこの期間に、さらなる展開が起こらない事を祈るしかなかった。

「余裕ね。信頼出来る人がいるわけか。」

「まぁ、長年波島の島長を務めた人だから。心配はしてないよ。」

「アブエロ爺さんのことね。」

「そう。それともう1人。」

メルはテアの頭をポンポンした。

「ここの出来が飛び抜けた逸材を見つけた…しかも私より年下で。」

「まぁ!」

「もしかしたらテアより頭がいいかもよ。運動は全然なんだけどね…それより、王宮も大変でしょう?」

「うん…」

対向車のライトが一瞬テアの顔を映し出す。困った時凄く寂しげな顔を見せる癖は、あの頃から変わっていない。

「成帝陛下が亡くなってからは王宮は大忙しよ。泣いている人なんていない。王族がみんな王宮に来るっていうんだから、皆んな支度に追われているわ。それに、大変なことが起きたから…」

「大変な事?」

「まだ極秘扱いなんだけど」

テアが声を潜めた。

「蒼候殿下が行方不明なのよ。『探索無用』って書き置きしていなくなってしまった。王宮警察が秘密裏に、必死で行方を捜しているわ。」

「…蒼候殿下が?」

例の第6感がメルの脳裏を走った。限りなく嫌な予感である。

「…殉死するつもりかもしれない。」

「殉死…?」

メルは静かに頷いた。殉死とは、主君の後を追って自分も死ぬ事である。初代希宮イルストルが亡くなった時も、多くの海軍将校が海に身を投げた。

「それは…それはあまりにも身勝手だわ!」

「もし賢宮様が陛下を平和の象徴と見ておられたなら、南海事件を戦乱の始まりと思われたのなら…」

「…やめて」

沈黙が車内を覆う。そんなことになればこの先どうなるか、2人は察しがついていた。

「あり得ない。」

温厚な彼女にしては珍しく、その言葉には怒気が含まれていた。もし今蒼候が亡くなれば王宮には帝王も蒼候もいなくなる。それは王宮をまとめる者がいなくなることを意味していた。次の蒼候の座を巡り、争いが起きるのは間違いない。成帝も賢宮も次期蒼候に関しては全く言及していないのである。

灯りのない街を駆け抜け、二人を乗せた車は大きな門の前で止まった。メルは車から降りると、門に付いている装置にそっと指を置いた。門がゆっくりと開いていく。最新の「鍵」を備え付けてあるこの壮大な門は、まさに望宮邸を象徴するものであった。この建物を創ったメルの祖父・初代望宮は上級文官として身を立てただけでなく投資事業にも手を伸ばし、巨万の富を築いた。彼は3年前に亡くなったが、後を継いだ望宮(メルの父)も上級文官として父の基盤を引き継ぎ、宮廷内で大きな力を持っていた。

「いつ見ても凄い建物ね。希宮家(ウチ)とは大違いだわ。」

「その話はナシっていつも言ってるでしょう。」

クスクスと笑うテアを見てメルは小さくため息をついた。一大宮家である望宮家の令嬢でありながらも庶子という立場をメルは昔から気にしている。最も、それをからかってくるのはテアくらいだが。

「おかえりなさいませ。」

いつもであればアブエロが出迎えてくれるのだが、メルの世話をする主だった面々は皆最南島に残ったままなので今日は見たこともない使用人が迎えに来た。アブエロがいれば、

「またお忍びですか…」

と小言を言いつつも通してくれるのだが、今回はそうもいかない。

「守宮様、この者は?」

「最南島から連れてきた、私専属の運転手…アテルだ。女だてらに、中々のハンドルさばきでな。」

「事故りそうな名前ですな…分かりました。では、この者の宿泊場所を確保致します。」

「構わん。アテルはこの後、煌宮様の元に行かねばならん。その前に煌宮様に渡さねばならんものがあるから、私の部屋に来てもらうのだ。」

「分かりました。では、車を回させて頂きます…ところで」

「ん?」

「アテルは随分と震えておりますが、もしや風邪ではありませんか?もしそうであれば、一緒にいては感染るかもしれませんぞ…?」

「…あぁ」

メルは困った顔をして言った。

「此奴は中々の寒がりでな。この夜風が骨に染みるのだろう。」

「そうでしたか、では、すぐに他の者を呼びお部屋を案内させて頂きます。」

「構わん、私は17年間ここに居たのだぞ。今更案内などなくとも大丈夫だ。」

「ハッ!」

使用人が見えなくなった途端、テアは遂に堪え切れなくなって吹き出した。

「いくらなんでもアテルはないでしょう!?もう少しマシな名前はなかったの?」

「二宮妃たるもの、もう少し堪えて下さい。」

「だって…」

テアは笑いすぎてしゃっくりをしている。咄嗟にテアの名前をひっくり返して『ル』をつけたのだが、確かに車が凹みそうな名前である。メルもつられてフフッと笑ってしまった。

「大体、此奴って何よ此奴って…」

テアが唇を尖らせる。親友のメルでさえドキッとさせるのも、リアルプリンセスの魅力なのかもしれない。エレベーターに乗って5階まで登り、少し火照ったメルの頬が元に戻るくらい歩くと彼女の部屋が見えてきた。

「兄上!」

部屋の前に立っていたのは、ラディの姿であった。メルには2人の兄、2人の姉がいるが「ー様」と呼ばずに「兄上」と呼ぶのはラディだけである。

『護宮』と呼ばれるこの男は、望宮の第二王子である。若宮養成校を飛び級で進学し、王将校に進学、その後メルに破られるまでは最短記録であった4年という早さで王将校を卒業し、最南鎮守宮になった。現在は空母「飛雲」の艦長であり、同時に第6艦隊の司令官を努めている。不出来な嫡男であるラヌイに変わって望宮家の跡を継ぐことを密かに期待されているが、ラヌイの母が次期蒼候とも噂される統宮の妹であるため蔑ろにできないのが望宮家の者達の共通の悩みであった。

「久しぶりだな。」

飄々とした出で立ちも全く変わっていなかったが、言葉に少し固さを感じてメルは若干の緊張を覚えた。

「元気そうで、なによりです。」

ともあれ、久々の兄妹の再会である。メルの表情は自然と明るくなっていた。

「隣にいるのは、テア殿か。」

「お久しぶりです。」

ラディは例の『大事件』に大きく関わっている。そのため、テアがお忍び姿でもすぐに分かった。

「早速だが、中で話したい事がある。極秘の話だ。」

「私がいても大丈夫ですか?」

テアが心配そうに首をかしげる。

「心配なさるな。むしろ、テア殿にも心して聞いて貰わねばならん。」

「それはもしや…」

察しの良いメルが話の内容に気づいた事を、ラディは直ぐに察した。

「とにかく、中に入るぞ。」


メルの部屋は率直に言って、あまり女の子らしい部屋ではない。指揮官肌な彼女らしく本や衣類は整然と並んでいるが、花や写真、テアが大好きな香水などといった『華やかさ』は全くと言っていいほどなかった。昔はよくテアが四季折々の花や香水を持って来てくれたのだがメルは全く興味を示さず、直ぐに妹に渡してしまっていた。そのため彼女の部屋はかなり味気ない。もっとも、当の本人は全く気にしていないが。

庶子とはいえ望宮家の令嬢には違いなく、部屋もかなりの広さがあった。その部屋の一角にある丸いテーブルの周りににそれぞれは座った。ラディが口を開く。

「先程、王宮警察から連絡が入った。」

(やはり…)

メルは膝の上で固く拳を握りしめた。

「1時間程前、イルストル記念軍港に現れた賢宮様は蒼候命令を出して自らミューナに搭乗、誰も追うなと命じられたためレーダーで監視を続けたものの、蒼々本島から西へ50Kmの地点で該当機をロストした、と…」

「そんな…」

テアは息を飲んだ。重い空気が部屋を支配する。1時間前ということは、メルとテアがイルストル記念軍港を出て10分後の事になる。メルは軍港を出て直ぐに一台の車とすれ違った事を思い出した。おそらく、あの車に乗っていたのだろう。

「…今その事を知っているのは?」

「各上級文官には連絡が回っているらしい。民間で知っているのは、総理くらいだろう…ただ」

メルが言葉を引き継いだ。

「明日になれば、国中に知れ渡る事になる。」

「マスコミが動き出せば、もはや隠し通す事は出来ない。帝王陛下と蒼候殿下が1日にしていなくなったとなれば、国民はパニックに陥る。」

「まず経済界が反応するでしょうね。」

南海事件によって激しく値が変動した株価は、最終的にリラトル隊の敵機全機撃墜の知らせで過去最高の終値を示している。これが暴落するのはまず間違いないだろう。

「王宮も騒がしくなるぞ。次期蒼候は、そう簡単には決まらない筈だ。」

次期蒼候候補と目される統宮と雲宮は賢宮存命時から激しく対立し、勢力拡大に躍起になっている。現在はその権力はほぼ同等で、どちらが蒼候になってもおかしくはないといわれていた。蒼の国の場合、総理大臣を決めるのは議員投票による間接選挙であるが、蒼候は国民による直接選挙で選ばれる。総理大臣の任期は議会と連動するのに対し、蒼候は終身制を採っていた。罷免出来るのは国中でただ1人、帝王のみである。そのため、歴史的に総理大臣よりも蒼候の方が強権を振るう傾向があった。特に今回の場合、次期帝王は未だ幼少で政治的な事を行えるとは考えにくかった。つまり次期蒼候は帝王を完全に抑え、王宮の権力を握ることが出来る。この国が議会王国軍体制をとって初めての事態、それは歴代最強の力を持った蒼候が誕生する事を意味していた。


かつて南海海戦で海戦史に残る完全勝利を収めた司令官・希宮イルストルは蒼の国の英雄になると同時に一大勢力を築き上げ、その力はテアの父である費宮(ついえのみや)まで代々希宮家に受け継がれた。費宮の自殺により、宙に浮いたその勢力を受け継いだのが統宮(すべるのみや)である。これに対し、イルストルの独裁を恐れた時の帝王英帝は、第二王子・波宮(なみのみや)に力を持たせ、以後この勢力は英帝の遺言に従って歴代帝王の弟宮に仕えてきた。『直宮派』と呼ばれるこの勢力こそ、先帝・楽帝の弟宮である賢宮を支え、成帝の弟宮である雲宮を支持する勢力であった。この2つの大きな勢力によって、王宮は代々取り仕切られてきたのである。

直宮派は賢宮の薨去を受けて、雲宮の元に集結するのは間違いない状況であった。次期蒼候の座が不透明な時、必ず両勢力の間では争いが起きてきた。今回は勢力が均衡している以上、いつになく激しい争いが起きるだろう。

護宮・守宮兄妹の父である望宮は、統宮の義弟である。聡明なラディではなく悪評の高い長男のラヌイを後継に定めているのは、彼が正妃であり統宮の妹である緋宮ルブルムとの間の子であるから、有り体(ありてい)に言えば統宮に遠慮しているからである。そのため当然ながら望宮は統宮派にならざるを得ない。しかし、この兄妹を取り巻く状況は望宮とは違った。それを説明するにはあの「大事件」について話さなければならない。



テアがリアルプリンセスと呼ばれ始めたのは、彼女が10歳になった頃だった。

蒼の国の王族達は10歳になった年の初日に「初見えの儀」という儀式を行う。これは王子や王女が人々の前に姿を見せる王族として行う初めての「公務」である。その様子は蒼の国全土にテレビ放送されており、毎年15人程の王子女達が「初見え」をするのであった。

「初見えの儀」によって彼女の知名度は飛躍的に上がった。テレビドラマに出てくる子役顔負けの可愛さにしっかりとした受け答え、その大人びた仕草は新年を祝う王国民達の注目を集めるのには十分であった。あの悪名高い費宮(ついえのみや)の娘という事実も「悲運のプリンセス」として彼女をより魅力的なキャラクターに仕立てたのである。

王宮側も彼女の価値に気づくと積極的に売り込んだ。「王族航空ショー」「鎮守府対抗模擬海戦(ベース・バトルオブシー)」に並ぶ、王族三大事業の一つ「プリンセス・パーティ」。姫たちによる握手・サイン会に史上最年少で登場すると、彼女のブースには長い行列が出来て、売上高の史上最高記録更新に大きく貢献した。

この「プリンセス・パーティ」を機にテアのテレビ出演は一気に増えた。対談、ロングインタビュー、バラエティ、遂には「姫」役でテレビドラマにも出演し、有名王族の仲間入りを果たした。メルも初見えで少しは注目されたがテアのように「フィーバー」を巻き起こすまでには至らず、それは今でも彼女の中で一番悔しい事になっている。テアの稼ぎもそれなりの額になり、費宮が作った莫大な借金を少しずつ返済していった。全てが順調だった養成校時代。その先に「大事件」が待ち受けていることなど、誰も知る由もなかった。


始まりは3年前、養成校の卒業式の数日後のことである。

テアが統宮(すべるのみや)から呼び出されたのは、その日の昼過ぎのことだった。長らく彼女の父親代わりを務めていた彼は、次期蒼候とも囁かれる実力派の上級文官である。希宮(まれのみや)家が断絶してからは最高実力者として旧希宮勢力を取り込み、次期蒼候になる為の基盤を着々と固めていた。

テアから見れば、統宮は父親であると同時に借金の返済先でもあった。彼女の父費宮が亡くなり希宮家が断絶した直後、統宮は希宮家の借金を全額肩代わりした。テアはその事をとても感謝しているが、同時に

(何故父上の生きている内にしてくれなかったのだろう?)

と子供ながらにして小さな疑念を抱いた。しかしその疑念は助けてくれた統宮への感謝と、実の父より親身に面倒を見てくれる彼の優しさの前にいつしか消えていた。妻への愛はあっても子供への愛がない望宮とは対照的に、統宮は王宮から帰ってくると子供達とよく遊び世話を惜しまなかった。彼にも沢山の妻と子供達がいたが、彼を嫌う子供は1人もいない。彼は自分の身内や味方の面倒を本当によく見る人で、その優しさが人望を集め、その人望の元に集まった人々が彼の力の礎を築きあげていた。

自分が呼び出された時に、テアは大して疑問を抱かなかった。統宮は自分の子供達が入学や卒業した日の翌日にその子供を呼び出して、祝いの言葉と品物を送るのである。それは煌宮姉弟も例外ではなく、テアが7年前に若宮養成校に入学した時は、統宮がかつて費宮に貰った万年筆を贈られたものである。彼には10人以上の子供がいるのだが、統宮がお祝いを忘れたことは未だにないらしい。

テアが部屋に入った時、彼は最新の煙管を指に挟んで口から白い煙を吐き出していた。蒼の国の嫌煙ムードは年々高まりつつあり、喫煙所は次々と姿を消し、煙草産業は衰退の一途を辿っている。追い詰められた彼らが起死回生の手段として生み出したのは、無臭・無害な煙草であった 。まだまだ値段も高く、人々にも受け入れられてはいないが、上流階級の愛煙家達は好んでこれを使っている。

「相変わらず美しい。いつ以来かな?」

「『年賀の儀』以来になります。」

年賀の儀とは、宮家ごとに行われる新年のお祝いのことである。

「義父上もお変わりなく。」

「ありがとう。」

2人で話すのはいつ以来だろうか。思えばここ数年は統宮と話す時、テアの側にはいつも弟のリリルがいた。

「中々言えなかったが、テレビでは君の姿をよく見ていたよ。君がこの家に来てもうすぐ10年になるかな…?大きく、そして…美しくなったものだ。」

「ありがとうございます。まだまだ未熟者ですが…」

「そんなことはない。君は王族で1・2を争う人気者ではないか。」

「ありがとうございます。」

テアは嬉しかった。自分の活躍を身近で見守ってくれる人がいることを改めて実感する。

「…そこで、今回の卒業を祝し、一つの『命令』を渡したい。」

「…『命令』ですか?」

「そうだ。覚悟はいいか?」

「…はい。」

表面では笑みを浮かべつつも、テアは内心戸惑っていた。この後にくる『命令』とは何なのか。妙な胸騒ぎがテアの鼓動を早める。統宮は静かに息を吸った。

「命令。我が正妻となり、希宮家を再興せよ。」


一瞬、頭が真っ白になった。心の整理、いや話の整理すら出来ていない。それでも必死にテアは声を絞り出した。

「…何故。」

「簡単な話だ。希宮家の血を継ぐ者で最も力を持つ者と最も名声を持つ者。男女の性が違うのであれば、結ばれるのが当然であろう。」

「リリルは、リリルはどうするのです?」

「無論、死んでもらう。」

統宮の言葉は、まるで説明書を読むように抑揚がなく、冷たかった。

「希宮家再興にあたって、奴はただの邪魔者だ。穀潰しの息子などに、希宮家を継ぐ資格はない。」

「だからですか?」

テアは、思ったままの言葉をぶつけた。

「だから、父を見殺しにしたのですか?」

「そうだ。」

即答だった。

「私がお前達を保護したのは、お前が将来その美貌で世間に持て囃されるのを確信したからだ。安心しろ。リリルは今日急な病で死ぬ。そして今宵私とお前は結ばれるのだよ。」

統宮は高らかな笑い声が部屋に響き渡る。その瞬間、テアの中かがプツッと音を立てて切れた。気づけば、彼女の手には銃が握られていた。万一の際に持っている、護身用の銃である。その銃口が、統宮に向かって火を吹いた。


統宮がどうなったか見る余裕もなくテアは部屋を出た。真っ先に向かったのは自分の部屋である。ドアを開けた瞬間、目に飛び込んで来たのは恐ろしい光景だった。リリルが男にベッドの上に枕で頭を押さえつけられ、銃を突きつけられいたのである。テアにためらいはなかった。早打ち0.5秒の実力を持つ彼女の銃は、ドアが開いて驚いた顔でこちらを見た男の眉間を正確に撃ち抜いた。

「リリル!」

男の血で真っ赤に染まったリリルだったが、幸い怪我はないようである。しかしあまりの恐ろしさに、彼は口を聞く事も出来なかった。遠くから足音が聞こえてくる。銃声を聞いて、人々が集まってこようとしているのだろう。ためらっている暇はなかった。

テアの部屋は建物の2階に位置するが、窓の下は芝生である。テアは手早くリリルの身体を拭いて着替えさせ、部屋の窓を開けると、彼を抱き抱えて飛び降りた。しっかりと受け身をとって芝生の上を転がる。よろよろと立ち上がると、啜り泣くリリルをおぶって統宮邸の門を出た。ちょうど前を通りかかったタクシーに向かって手をあげる。直ぐに乗り込んで行き先を告げた。

「望宮邸へ、急いで。」


「口笛とは、珍しいですな。」

紅茶を持ってきたアブエロが不思議がる。

「そうか?」

そう言ってメルは、一口紅茶を口に含んだ。ダージリンの香りが春の訪れを告げている。立ち上る湯気を見上げながらほぅ、と息をつくメルに向かってアブエロは話を続けた。

「テア様と夕食にございましょう?」

「流石だな。」

言い当てられた時に見せる子供のような顔は大人びてきた彼女が見せる珍しい一面で、それは何故かアブエロをホッとさせた。メルの携帯がなる。

「うわさをすれば、だ。」

メルは携帯を取りだすと画面に見入った。どうやらメールらしい。読み進める内に、彼女の顔はみるみる険しくなっていく。

「如何なされました?」

「テアが…統宮様を撃った。」

「は?」

話が全く飲み込めない。

「テアが、統宮様を撃ってこちらに助けを求めて来ているのだ。」

まだ飲み込めないが、アブエロは尋ねなければならなかった。

「如何なされるのです?」

メルは目を閉じ、大きく深呼吸をした。目を開けると、彼女は静かに呟いた。

「テアを助ける。」

「例え、統宮家を敵に回しても?」

「…ああ。」

この先に待ち受ける苦難は容易に想像出来たが、メルに迷いはなかった。

「私とテアの友情は、例え王家を敵に回しても守らねばならないのだ。」

メルがそう言う以上、従うしかない。アブエロも覚悟を決めた。

「分かりました。ではまず、テア様を保護しなければならんでしょうな。」

メルは首を縦に振りながら言った。

「一つ策がある。車を運転している間に聞いて貰いたい。」


メルからの返信を読んでテアが向かった先は、蒼都の外れにある小さな公園だった。初見えの儀以来色々な所でマスコミに追われるようになったテアのために、二人は閑静な住宅街の一角にあるこの公園を秘密の合流場所にした。 テアは眼鏡をかけたり髪型を変えたり、時には男装してくることもあった。ただ遊びに行くためだけに何故そこまでしなければならないのか、と当時のメルはテアを哀れんだものである。

隣に座っているリリルの身体はまだ震えていた。無理もない。あれだけ恐ろしい目にあったのだ。テアでさえ未だに胸の鼓動が高鳴ったままであった。それでもなんとか冷静さを取り戻していたテアは、慎重を期して公園から少し離れた場所でタクシーを降りた。

公園に着くと既にメルの姿があった。恐らくアブエロが運転して来たのだろう。彼の運転技術は相変わらずのようである。

まず驚いたのは、メルの服装だった。何と彼女はこの公園の近くにある学校の制服を着ていたのである。思わずテアは笑ってしまった。

「可愛い。」

「茶化してる場合じゃないでしょ。連絡した通りよ。早く着替えてきなさい。」

そう言ってメルは着替えを差し出して、公園のトイレを指差した。いつもより少しムッとした顔は、何処か赤らんでいるようにも見える。

「可愛い。」

もう一度言って頬をつつくとメルの顔はみるみる赤くなった。

「早く!」

「はあい。」

テアはようやく着替えを受け取ってトイレに向かう。いつのまにか彼女の心の中に大きな安堵感が宿っていた。手早く着替えてメルの所へ戻ると、黒いケースを渡された。中に入っていたのはメガネである。

「うん、似合う。」

アブエロの車まで走りながら、メルは全く息を切らさずに続けた。

「テアはどんな衣装でも似合うわね。羨ましい。」


車はいつものような王族の使う重厚感のある黒い車ではなく、大衆車であった。いつもは頭頂部が光っているアブエロも、今日ばかりはフサフサである。傍目から見れば、どう見ても学生二人を送迎する車にしか見えなかった。すれ違う車は、いつもよりも黒い車が多い。それも黒いサングラスをはめたスーツ姿の男が運転席にも助手席にも乗っている車ばかりである。テアを探しているのに間違いなかった。

車は港の方向に向かっている。目的地は、イルストル記念軍港の近くにあるイルストル空軍基地であった。蒼の国最大の空軍基地であり、各宮家の空軍部隊が集結している場所である。もちろん望宮家も例外ではない。望宮家は莫大な資金力を背景として、宮家の中でもトップクラスの軍事力を有していた。

メルは早くから飛行機に興味を持ち、訓練を受けてきた。既にこの国の最新鋭機であるミューナを一人で操縦する事が出来る程の腕前である。最近では教官が教える事も無くなり、自由に訓練飛行を行う事も少なくなかった。

空軍基地に着くと、メルは急いでいつもの姿に戻り、部隊長の元へ向かった。望宮家の姫であるメルの顔を、隊長が覚えていないはずがなかった。隊長はメルの姿を認めると素早く立ち上がり、敬礼した。

「守宮様ではありませんか。本日は訓練飛行の予定は無いですが、如何されましたか?」

「至急ミューナを一機飛ばしたい。訓練機の方だ。」

本来ミューナは単座戦闘機であるが、訓練機は教官も乗るため複座になっている。メルは敢えて訓練機を選択した。

「分かりました。直ぐに手配させて頂きます。」

「どのくらいかかる?」

隊長は素早くパソコンを叩いた。

「滑走路31L(レフト)であれば、10分後には離陸可能です。」

「分かった。では10分後、31に用意を頼む。」

「ハッ!」

一方、アブエロは訓練生準備室で、テアとリリルに搭乗の準備をさせていた。フライトヘルメットにブラックアウトを軽減する対Gスーツ、その上に救命胴衣を着用させる。訓練機の座席は2つしかなく、訓練生席にはテアとリリルが一緒に座るしかなかった。しかし、訓練生席には酸素マスクは1つしかない。やむなくアブエロはテアに酸素ボンベを担がせた。その直後、アブエロの電話が鳴った。

「準備は出来たか?」

「只今整いました。」

「31に向かってくれ。急いで飛び立つぞ!」

「ハッ!」

装備が重すぎて、リリルの歩くペースはあまりにも遅かった。やむなくアブエロはリリルを担いで歩く事にした。

「やるわね。とても67には見えないわ。」

「恐れ入ります。」

リリルより更に重い装備をしているテアもかなり息が上がっていたが、まだ軽口を言う余裕があった。

滑走路に着くと既に訓練機は駐機しており、教官席にメルが座っていた。訓練生席に二人が乗り込む。ベルトを目一杯出すと、何とか二人を固定することが出来た。メルがエンジンをスタートさせる。あまりの風圧にアブエロの変装用のカツラは一瞬で吹き飛んだ。

「じい、ご苦労だった!後を頼む!」

「はい!」

アブエロが安全な距離まで下がるのを見届けて、メルは望宮イルストル管制センターに連絡を入れた。

『こちら訓練機01、離陸準備完了。』

『管制より訓練機01、離陸を許可します。』

すぐにメルは離陸に踏み切った。メルが急ぐのには訳があった。例の第六感が危険を知らせていたのである。


訓練機の目的地は最南島であった。最南島の司令官は兄のラディである。父親である望宮が「統宮派」の人間である以上、テアを望宮邸で匿う訳にはいかない。頼みに出来るのはラディしかいなかった。男勝りなメルは、如何にも姫らしい生活を送っている2人の姉よりもラディの生き方に惹かれ、目標にしてきた。ラディも早くからメルの才能を認めており、2人は数多くいる望宮の兄弟姉妹の中で一番仲が良かった。

「兄である以上、一度は頼って貰わねばな。」

そう言ってラディは快諾してくれた。

(あまりにも大きな『一度』ですが…)

メルはそう思わずにはいられない。


『予感』が現実となったのは、それから5分後のことだった。突然、レーダーが謎の飛行物体を捉えたのである。現れた場所から、イルストル空軍基地から飛び立ったと見て間違いないが、不可解な事に味方であれば表示されるはずの識別信号が無い。メルはすぐに管制に連絡を取った。

『訓練機01より管制へ、今飛び立った飛行機は何か?』

『管制より訓練機01、恐らくミューナかと思われます。』

『識別信号は出ているか?』

『いえ、目視での確認のみです。信号は出ていません。』

どうやら、システムの故障ではないらしい。このミューナは何者か、何のために飛び立ったのか…予感は確信へと変わり始めた。

「少し急ぐね。2人とも気を確かに持っていて。」

訓練機は機の出せる最速のスピードで南下した。所属不明の戦闘機も全く同じコースを辿っている。しかも、距離はジリジリと詰まっていた。

訓練機は複座式のため、どうしても単座式より重量が重くなってしまう。自然、最高スピードは同型機であれば、単座式の方が速くなる傾向があった。

(このままでは、数分後には射程圏内に入る。)

訓練機は、あくまで訓練用なのでミサイルなどの兵器が積まれていない。あるのはチャフ(妨害材)と、フレア(火球)くらいである。ひたすら逃げて、最南第一飛行場に着陸するしか方法はない。しかし、相手は射程圏からギリギリ外の位置で訓練機の速度と同じ速さになった。常にレーダーにその存在を示しながら、ランデブーが続いた。いくつかの空域を飛び越え、遂にメルの訓練機は最南島の管制空域に突入した。

まさにその瞬間だった。

不気味な警報音が、訓練機内に鳴り響く。

「何?どうしたの?」

テアの不安な声が続く。

「ロックオンされた…2人とも、歯を食いしばって。」

いうや否やメルは訓練機を急上昇させた。同時にチャフとフレアを展開させる。2人の呻き声が後ろから聞こえてくる。それでもメルは機を上昇させ続けた。

どうやら初弾は躱せたらしい。ようやくメルは2人に声を掛ける事が出来た。

「2人とも、大丈夫?」

答えはない。2人とも失神してしまったのである。このままドッグファイトを続ける事は、2人を危険に晒す事を意味した。しかし、逃げようにも敵機の方が速いため追いつかれるのは時間の問題である。次の一弾を躱すには、上昇した分の高度を利用してブレイクする(切り返す)必要があるのだが、失神して踏ん張りのきかない2人では、いくら対Gスーツを着ていても耐えられないだろう。

(どうすれば…)

そう思った瞬間、新たな危機を知らせる警報音が鳴った。燃料計である。ここまで全速で飛ばした上に急上昇したため、燃料を殆ど使い切っていたのである。

「ごめん、テア。もうダメだよ…」

もう一度ロックオンの警報音が鳴る。メルは悔しそうに目を伏せた。その目が、レーダーの上で止まる。次の瞬間、メルは希望を見出した。

「まさか、この識別信号は…」

メルは2人に気を遣いつつ、出来る限りの速さで降下した。

「100…90…80…」

計器が冷酷にミサイルと訓練機の距離を伝え始める。

「50…40…30…」

「間に合えっ!」

計器が20を告げた瞬間、レーダーからミサイルが消えた。反対方向から飛んできたミサイルが、追ってきたミサイルに命中したのである。

「…イスカさん。」

レーダーは敵機以外にもう一機捉えていた。第六艦隊の『空神』空宮イスカの戦闘機である。


謎の戦闘機は、イスカの機体を見ると追跡を諦め反転した。訓練機の無線にコールが入る。イスカからだった。

『間に合って良かった。ケガは?』

『ありません、でも燃料が…』

『落ち着いて。後どの位飛べる?』

『持って…100です。最悪のケースも考えています。』

最南島まではまだ300Km程の距離がある。周辺に最南島より近い島はない。メルは海上への着水を覚悟していた。

『待って、もしかしたら…そのまま南下を続けて。』

一度無線が切れる。しばらくして、またコールが入った。

『今、飛雲が最南島から全力でこっちに向かってる。希望は捨てずにいて。』

『了解。』

兄だけでなく、イスカにまで迷惑をかけている。メルは自分の非力さに打ちひしがれながらも、ラディの待つ飛雲へと機首を向けた。


最南島まで残り200Kmを切ろうとする頃、遂にエンジンが止まった。最新鋭の戦闘機も、今はただのグライダーである。メルは直ぐにAPU(補助動力装置)を作動させた。高度計など、操縦に必要な最低限のシステムが電力によって再起動する。識別信号を出せなくなったメルに寄り添うようにイスカは飛んだ。再びコールが鳴る。今度はラディからだった。

『申し訳ありません。私が…』

『反省は後からでいい。今は下ろす事に集中しよう。予想着水位置は?』

『最南島から北へ87Kmの地点です。』

気分はどん底に沈んでいたが、頭の中は至って冷静であった。

『こちらは多分間に合うだろう。後はお前の技量次第だ。今日の風ならこのまま北から入るのがベストだ。』

『分かりました。』


高度は少しずつ落ちていき、聞こえるのは機体が風を切る音だけである。下に見えるのはどんよりとした雲だけだった。

「テア…起きてる?」

答えは返って来ない。まだ気を失っているのだろう。それでもメルは続けた。

「テアが統宮様を撃った理由、まだ聞いていないけれど、どんな理由だったとしても助けるって決めてたよ。だって嬉しい時も、悲しいときも、楽しい時も、辛い時も、テアはずっと側にいてくれたから…私は」

メルはすうっと深く息を吸った。

「私は、貴女なしには生きていけないから。」

「その言葉、ずっと言わせたいと思ってた。」

「…。」

メルの声のトーンが1オクターブ下がる。

「いつから聞いていたの。」

「『起きてる?』から」

「バカ!」

クスクスとテアが笑う。メルの顔は真っ赤になっていた。

「死ぬ前にもう一度、さっきの言葉を聞かせて?」

「絶対言わない!」

「お願い!後1時間の命かもしれないじゃない。」

「80年後、病室のベッドで言ってあげるわ。」

柄にもないこと言うんじゃなかった、とメルは後悔した。後悔しているはずなのに、表情はさっきよりずっと明るくなっている。


幸いな事に、風は北に向かって吹いていた。この風がメル達の乗った訓練機の航続距離を伸ばした。綿あめのような柔らかな雲を突き抜けると、遠くに最南島が見えた。視界は良好である。

「あれね。」

「間違いないな。」

2人はほぼ同時に船団を発見した。飛雲を中心として、多数の軍艦が周りを取り囲んでいる。高度が高すぎる、とメルは感じた。

「ちょっと落とすね。」

そう言ってメルは機体をスリップさせた。

フォワードスリップ、簡単に言うと、機体の横滑りである。機体を進行方向に対して平行にし、空気抵抗を増やして速度を落とし高度を下げる。通常はグライダーのような動力を持たない機体に使用される方法である。

後ろからテアの叫び声が聞こえる。無理もない、とメルは思った。この方法で高度を落とすと、機体は降下しているというより落下しているように感じる。訓練でこの感覚に慣れていなければ、かなりの恐怖を感じるだろう。急激に降下する中でも、メルの眼は飛雲を視界にとらえ続けていた。

(今だ!)

機首を元に戻す。飛雲の姿はもう目の前に迫っていた。


飛雲の乗員達はざわついていた。機体が横を向いてこちらに向かって来るのである。ぶつかったら、炎上したらどうするのか。皆そう思わずにはいられなかった。そんな中、ラディだけは薄く笑みを浮かべながら、機体を見つめていた。

(相変わらずやるねぇ。)

「護宮様、艦橋から退避を!」

「馬鹿を言え、この状況で逃げるなど将としてあり得ないだろう。それよりよく見ておけ。これが天才が本気になった姿だぞ。」

飛雲は戦闘機が着艦と離艦を同時に行えるように、アングルド・デッキを採用していた。着艦する戦闘機用に斜めに着陸用の滑走路を設けることで、進行方向に平行な離艦用の滑走路を有する事が出来る。この飛行甲板が登場して、空母はより多彩な戦法を持つ事になった。

今回の着陸は緊急事態であるため、ラディはメルに特別な命令を出していた。メル達の乗った訓練機は、既にエンジンが止まっているため逆噴射を行うことが出来ない。そのためまず離艦用の滑走路に進入し、止まらない場合は着艦用の滑走路に進入するように命じたのである。

着艦時に重要なブレーキ役となるワイヤーの設置にも抜かりはない。アレスティング・ワイヤーは鋼のワイヤーに飛行機の足を引っ掛けて急激に減速、停止させる設備である。これを離艦用に3本、着艦用に5本設置させた。着艦失敗時の為に、戦闘機は上空に出ているイスカの機体を除いて全て格納庫に収納してある。消化部隊も万全の態勢を取っていた。後はメルが降りてくるのを待つだけである。

(この状況で、よくフォワードスリップをやれるな)

ラディは感心しきりであった。やり直しはきかず、滑走路を外れても飛行場ではないので不時着も出来ない。海に墜落するか、最悪艦橋にでも激突すれば多数の死人が出るだろう。よほどの自信がなければ出来ることではないのである。


接地は、メルが思ったほど強い衝撃ではなかった。ブレーキを踏む。減速する為に敢えて危険なフォワードスリップを行なったにも関わらず、かなりのスピードが出ていた。あっという間に訓練機は1本目のワイヤーを勢いよく引きちぎった。2本目も同様である。3本目も切れたが、機体はかなり減速していた。しかしまだいつもの着陸時のスピード位はある。空母上で機体の方向を曲げなければならない。メルも初めての経験だった。着陸用の滑走路が見えてくる。

「ここだ!」

メルは機首を左にきった。機体が激しく揺れる。次の瞬間、機体は急停止した。4本目のワイヤーに引っかかったのである。

「イタタ…」

テアが訓練機の計器に頭をぶつけたらしい。その声を聞いた時、メルは初めて着陸出来たことを実感した。大きく息を吐く。素早くベルトを外し、椅子を倒して振り返った。

「リリルは?」

「無事よ…メル」

テアはベルトとヘルメット、酸素マスクを外すと、メルに抱きついてきた。

「ありがとう。」

メルの背中に手を回し、胸に顔をうずめる。メルは一瞬ギュッとテアの頭を抱きしめると、スルリとテアの腕から抜けた。不満そうな顔をするテアを見て、メルはフッと笑った。

「ダメよ。これから人が来る。こんなところを見られる訳にはいかないわ。」

ザーザーと機体が音をたて始めた。空は確かに曇っているが、雨が降っている訳ではない。仕事を失った消化部隊が、祝福の放水を始めたのである。


飛雲の司令宮室は、艦橋の中でも一番高い場所にある。窓からは飛行甲板の全てを見渡すことが出来た。飛雲飛行隊の訓練の時には間近でミューナが次々と離着陸を繰り返す。

リリルはすぐに医務室に運ばれて診察を受けたが、幸い怪我もなく意識も戻ったらしい。メルとテアは、司令宮室に来ていた。待っていたのはラディとイスカの二人である。4人の王族が空母の司令宮室に集まるというのは珍しいことだった。

「大変な話を持ってきたな、メル。いやはや、凄いことに巻き込まれたものだ。」

これがテアの話を聞き終えて、ラディが発した最初の言葉だった。

「申し訳ありません…」

メルは俯くしかない。テアもしんみりとした顔で、下を向いた。

「それにしても、メルは随分と腕を上げたものね。フォワードスリップなんて、久々に見たわ。」

「艦橋は大騒ぎだったぞ。戦闘機が横向きで突っ込んで来るんだからな。あの時の皆の慌てようといったら…」

ラディが朗らかに笑う。よくこんな状況で笑えるものだとテアは呆れを通り越して感心していた。一歩間違えれば、もしかしたら間違えなくても統宮家との争いに巻き込まれてしまうのである。

「笑い事ではありません、兄上。これから私達はどうすれば良いでしょうか。」

「おいおい、お前ともあろう者が、この先を考えていなかったのか?」

「いえ…」

考えていないはずがない。しかし、いざ言うとなるとどうしても気が引けるのであった。

「イスカがいるからだろう?」

メルの頬がぴくん、と跳ねた。

「どういうこと?」

テアはまだ飲み込めない。訝しげな表情でメルを見つめた。メルはまだ覚悟がつかないらしく、黙り込んだままである。

「私から話そう。」

沈黙を破ったのはラディであった。

「メルは、雲宮様の力を借りようとしているのさ。」

雲宮、イスカの父にして直宮派の後継者である。


「メルは統宮家が蒼々本島の隅々まで探すと分かっていたから、兄である私、同時に蒼都から一番遠いこの島を頼ることにしたのだ。統宮家と望宮家はいくら関係が近いと言っても別の宮家だ。統宮家がこの島を調べ始めるまでに少なくとも数日はかかる。この期間を利用して雲宮様に連絡し、蒼候である賢宮様に頼んで統宮家が命を狙えないようにする。そうだろう?」

メルは俯きながら頷く。

「ただ、それだけでは心もとないな。私なら王国民も味方につける。」

ラディは一口水を飲んでから続けた。

「二宮殿下と煌宮殿を婚約させる。帝王陛下の王子と今をときめくリアルプリンセスとの婚約。王国民の注目を集めると同時に帝王陛下の娘になる。どうだ、これで誰も手が出せまい。」


司令宮室に、沈黙の時が流れた。しばらくしてメルが口を開く。

「注目は集まるでしょうが、難しいでしょうね。いかに雲宮様でもやすやすと進められるでしょうか。」

「鍵を握るのは蒼候殿下だろう。あの人が味方につけば…」

「いや、ちょっと待って。」

慌ててイスカが話を止めに入る。

「蒼候殿下とかそういう問題じゃないでしょう。あなた達、婚約がどれだけ大事な事か分かっているの?」

「確かに、王国民達ならば本人の意思が重要だろう。だが、我々は別だ。王族にとって婚姻とは、宮家同士の繋がりを深めるか、宮家同士の諍いを起こさぬためのものだ。そういう意味では我々はただの駒でしかない。この婚約を取り付けることで、平和裏にこの問題を終わらせられるはずだ。」

お前が言うな、とイスカは心の中で呟く。

「テアちゃんはそれでいいの?」

「私は…リリルが守れるのなら、どんなことでもやってあげたいと思います。」

テアとリリルは同じ両親を持つ姉弟であり、両親亡き後は唯一の『本当の家族』だった。

「統宮様に親権は?」

「ありません。」

答えつつテアは合点した。彼がテアとリリルの親権を持とうとはしなかったのは、テアを正室に迎え入れるためだったのだ。しかし、その事が裏目に出ようとしていた。統宮が親権を持たなかったことで、統宮は彼女が別の人物と婚姻を結ぶ事を止める事が出来ないのである。

「決まりだな。イスカ、雲宮様への取次を頼めるか?」

「いいけど…」

イスカの表情は曇ったままであった。

「何故だか分からないけれど、嫌な予感がするの。ファイターパイロットの第六感は、案外当たるものよ。」


蒼都の星空も、ここの星空も変わらないな。夜空を眺めながら、メルは少し白濁した湯に身を沈めた。南の島だけあって、素肌を晒して外に出ても全く寒さを感じなかった。未だに風が強く、長袖だけでは心もとない蒼都とは対照的である。

メルとテアが案内された部屋は、最南鎮守府の45階にある王族が訪問した時に宿泊する為の部屋だった。部屋は明るめの色調で、最南島出身の名のある画家の絵や伝統工芸品といったものがあちこちに飾られている。テアの強い希望で、ラディは2人部屋を取ってくれた。喜ぶテアを横目に、メルは盛大にため息をついた。2人で夜を過ごすのは、養成校時代の修学旅行以来である。

部屋の外には、露天風呂が備え付けられている。上を見ると空一面に輝く星々を眺めることが出来、横を向くとこの島の最大の貿易港である港町の夜景を堪能する事が出来た。人工的な光と自然の光の共演を一通り楽しんだメルは、静かに目を閉じて思考の世界に入った。ラディの言葉が蘇る。

(統宮家を甘く見てはいけないぞ。あの追って来た謎のミューナは、間違いなく統宮家のものだ。)

そんなことは、言われなくても分かっている。問題は何者かがメルの考えを読み切っていた、ということであった。一体誰なのか…統宮のブレーンの誰かか、はたまた彼自身なのか。

メルが思い当たる人物を頭の中で探し始めたその時、ドアの開く音が聞こえてメルは目を開いた。テアの顔がのぞいている。

「ごめん。もう上がるから、もう少し待っていて。」

「別に上がらなくていいよ?」

テアは既に支度を整えていた。ザバザバと掛け湯を済ませると、メルの隣に身を沈める。メルは小さくため息をついた。

「そんなに早く入りたいのなら、言ってくれれば良かったのに。」

「メルといっしょに入りたかったのよ。」

テアの目が夜景を反射して輝いている。彼女は切なげな笑みを浮かべて続けた。

「こうやっていられるのも、もう最後かもしれないし…」

メルの心がずきん、と痛んだ。

「…ごめんね。」

「何が?」

「ここに来るって決めてから、こうなることは分かっていたの。テアを守るには蒼都を出るしかなかったから。でも…」

「スキアリ。」

テアの手がメルの胸に触れる。

「何するの!」

メルは反射的に飛び退いた。

「やっぱりそうじゃなきゃ。」

「え?」

「謝らないで。私が怒ってると思う?」

「…」

視線が交錯する。しばらく沈黙が続いた後、テアはフッと笑みを浮かべ、星空に手を翳して呟いた。

「いいものを触らせて貰ったわ。離れ離れになっても、この感触は忘れない。」

「バカね。忘れちゃいけないことは、それじゃないでしょ?私は忘れないわ。今日のことも、あなたのことも。」

「暗がりで見えないと思ってるだろうけど、顔、赤いよ。」

「…逆上(のぼ)せた。」

上がろうとするメルの腕を、テアはぎゅっと掴んだ。

「上がる前に、私の背中を流して?」


最南鎮守府は50階建という、最南島では一際高い建物であった。その最上階に位置するのが司令宮室となっていて、四方に窓が張り巡らされた部屋からはこの街を一望することが出来る。ここに来て2年。夏の暑さには未だに慣れないが、この島も悪くない。海の方に行けば華やかな街並みが、山の方に行けば、雄大な自然を体感することが出来る。ラディは最初の赴任地がここで良かったと素直にそう思っていた。

「ねぇラディ、もう真夜中だよ。もうそろそろ寝ましょう?」

「あぁ、イスカは明日大変だからな。もう寝ておいた方がいい。」

「いや、私じゃなくて…」

「よし、出来た。」

ラディは手紙を書き終えると、最南鎮守宮の印をしっかりと左下に押して折りたたんだ。丁寧に書簡を箱に入れる。

「明日雲宮様に渡してくれ。」

「うまくいくかしら…」

「いくって。信じてるから。」

「簡単に言うわね。私がどれだけ不安か分かってるの?」

ラディは軽くため息をつくと、イスカの背後に回ってぎゅっと抱きしめた。カチカチに固まったイスカの手を握って書簡箱を渡すと、耳元で囁いた。

「不安なら、今夜は一緒に寝るかい?」

「もう…」

このズルさは、きっと父親譲りだ。頭の中では分かっているのに、その腕を振りほどく事が出来ない。フフッとラディは笑ってイスカの頭をポンポンした。

「君なら出来るさ。」

「…全く分かってない。」

いいように遊ばれているのが分かっていても、イスカはそう言わずにはいられなかった。


翌朝、イスカが率いる「第1飛雲飛行隊」は「長距離飛行訓練」と称して蒼都に向けて飛び立つ準備を始めた。「訓練」となっているものの、どの戦闘機も空対空ミサイルを搭載するという平時ではあり得ない装備になっていた。飛雲飛行隊の飛行訓練は人気で、離陸時にはいつも多くの群衆が詰めかける。今回は予定外の訓練なのにも関わらず、沢山の人が来ている。もちろん、軍事好きで「飛雲第1飛行隊」を見に来たものも多数いるが、単純に南の空のヒロインを見に来た人々も多い。それだけの人気がイスカにはあった。

「少し、やりすぎではないでしょうか…」

司令宮室では、ラディとメルが最南第一飛行場を眺めていた。最近の電子双眼鏡の発達は著しく、この距離でもミューナの機影を捉える事が出来る。

「かもしれんな。」

ラディはあっさりと認めた。

「今回はどうなるか、私も読めない。分からない以上は万全を期さねばならないだろう。」

「敢えて堂々と飛び立たせるのは、その方が動きにくいからですね。」

「そうだ。隠れて行動した所で統宮家はイスカを見つけ、秘密裏に葬ろうとするだろう。ならばマスコミ達にしっかりと報道させて、注目を集めることで狙えなくしてやれば良い。」

報道。この言葉を聞いて、メルは今朝の衝撃的なニュースを思い出した。統宮狙撃事件が報道されたのである。ただ報道された訳ではない。驚くべき事に、それは全く違う内容になっていたのである。


『昨夜の午後、統宮殿下に仕えていた男が突如殿下の居室に入り込み発砲、殿下を負傷させ逃走しました。殿下の護衛は直ぐに逃走犯を追走するも、犯人と銃撃戦に発展、犯人を射殺しました。発砲したと見られる男の名前は…』

逃走犯の顔写真がテレビに映される。途端にテアは息を呑み、みるみる顔は青くなった。

「あれは…私が撃った男…」

「リリルを殺そうとした?」

テアはコクコクと頷いた。驚きのあまり声も出せない。ギュッとメルにしがみつく。メルはテアの肩に手を回しながら画面を睨みつけた。


「つまり、向こうも大事にはしたくないのだ。」

「何故です?」

「『名声』だ。『姫』のテア殿に『王』の統宮様が撃たれたとなれば、王族内での彼の名前に傷がつく。」

民間では既に当たり前である男女平等だが、王族内では未だに前時代的な雰囲気を色濃く残していた。統宮はこれを気にしたというのである。

「その考えを逆手にとる。」

いずれにせよ、テアが統宮家に戻るのは無理である。このまま事態が膠着している間に強引に婚約会見を行う、そうラディは考えていた。


イルストル記念軍港には、普通の港の2倍の大きさはあると言われる立派な灯台が立っていた。その最上階は王族専用のレストランとなっていて、王国民では閣僚と一流のシェフしか立ち入りを許されない。床と天井を除く全方位がガラス張りになっていて、眼下にはイルストル記念軍港とイルストル空軍基地を見下ろすことが出来る。

一人の男が、そこから海に向けて双眼鏡を覗いていた。その双眼鏡が一点を捉えた。王官校出身とはいえ、その優れた視力がミューナを見逃すことはなかった。

「来たぞ来たぞ来たぞ…」

男の不気味な笑い声がレストラン中に響き渡った。


イスカがイルストル空軍基地に降り立ったのは、昼前のことだった。

(変わらないな。)

約一年ぶりの蒼々本島だが、風の匂いも、海の青さも、街の景色もあの頃のままである。ヘルメットを取って大きく深呼吸をすると、帰って来たという実感が湧いてきた。

滑走路01は灯台のすぐ下を走っている。この灯台はイルストル空軍基地の象徴であり、灯台をモチーフにしたゆるキャラの『あおたん』が最近ブームになっている。祝日の夜には、祝日の特性に合わせて様々なライトアップが施されるのであった。イスカは胸ポケットから単眼鏡を取り出すと灯台の一番上の部分に焦点を当てた。蒼空軍トップクラスの視力を持つイスカの目と、最新の単眼鏡を持ってしても最上階のレストランの窓はぼんやりとしか見えない。しかし、イスカはそこに人の輪郭をはっきりと見た。

「父上…」

立ち姿だけで父だと分かった。風が勢いよく吹き抜ける。まるで心の中をあらわすかのように、イスカの髪は激しく靡いていた。


「我々はこちらで待ちます。後はよろしくお願い致します。」

副隊長のクツクは心配そうな顔で頭を下げた。イスカの後ろにある階段を登れば、雲宮の待つ最上階のレストランがある。王族以外が入れないため隊員達はここで待機することになっていた。

「案ずるな。大丈夫だ。」

頷いてはみるがイスカにも自信がない。クツクの号令の下、隊員達が一斉に敬礼する。いつもより笑顔を意識して隊員達に敬礼を返すと振り返って階段を登った。一歩一歩、登るごとに父との思い出が脳裏を掠める。普段はこんなことで息が上がるはずもないのに、波打つような鼓動がイスカの呼吸を浅くした。長いーイスカにはそう感じられたー廊下を抜けると、広いレストランの中でポツンと一人、柔らかそうなソファーの上で悠々と足を組んで座っていた。

「久しぶりだな、イスカ。待っていたぞ。」

聞き慣れた声のはずなのに、何でもない一言のはずなのに、その声はイスカの胸に突き刺さった。


雲宮・空宮(イスカ)親娘がいる、この灯台が建てられたのは今から約120年前、戦艦時代の全盛期にして最後の戦争となった南洋戦争の開戦直前であった。当時はまだボイラー艦が主流であり、大小様々な軍艦がもうもうと煙をたなびかせていたため、灯台からの眺めは今とは考えられないくらい悪かった。もっとも、この灯台も戦後幾度か改修されており、今ほど高くなかった訳だが。

「長旅ご苦労であった。フフフ、随分と固い顔をしているな。まぁ、座って楽になるといい。それとも昔のように私の膝の上に乗るか?」

フハハハハ!とまた雲宮が笑う。豪快に笑うのは昔から変わっていないな。小さく息を吐いてイスカは言葉を返した。

「いえ、今は娘ではなく、護宮様の名代として来ているので…」

そう言って目の前の椅子にそっと座る。ほほう、と雲宮は大げさに頷いた。笑顔を顔に貼り付けたまま続ける。

「お前が赴任してもう一年か。時の流れは早いものだ。ラディ君とは上手くやっているのかな?」

「えぇ、もちろん。」

「いや、仕事じゃなくて…」

雲宮がピン、と小指を上げる。イスカの顔が一気に赤くなった。

「ほほぅ…顔に出やすいな、お前は。」

「…。」

「望宮殿と縁戚になるのも時間の問題かな。婚儀の席で早く酒を酌み交わしたいものだ。」

「父上や望宮様に似ない、私に一途な人であって欲しいものです。」

思わず皮肉が漏れる。帝王・成帝に始まり統宮、望宮、そして父雲宮と大物の王族はどうして皆例外なく女癖が悪いのだろう。一般人で同じことをやれば、間違いなく炎上する。

「おいおい、お前、仮にも護宮殿の名代だろう?ラディ君は私にそんなことは言わないぞ。」

「…!」

イスカは焦った。乗せられてはいけない。落ち着け、落ち着け…

フハハハハ!また豪快な笑いが響きわたる。

「緊張は解けたか?では、本題に入ろうか。」

唖然とするイスカの前に豪勢な料理が運ばれてくる。久しぶりの本場・蒼都料理の香りが彼女の鼻をくすぐった。


蒼都料理には長い歴史がある。今の王族達の祖先が蒼々本島しか支配していなかった時代、この国の主食は沿岸に生息している魚や農作物であった。やがて周辺の島々、国々を制圧するにつれ、その地域の食文化が取り込まれ今の多彩かつ繊細な『蒼都料理』を生み出していった。「国奪うとも心は奪わず」。国を滅ぼしたとしても文化までは滅ぼしてはならない、という意味である。この初代帝王・蒼帝の教えが忠実に守られ続けた結果、この国は王族間の分裂以外で領土を縮小させたことがない。

「まずはこれを。」

ラディから預かっていた書簡を渡す。雲宮は丁寧に手紙を広げて読み始めた。中に書いてあるおおよそのことは分かっている。二宮とテアの婚姻を賢宮に認めさせて欲しい…大体そんな感じだろう。そう思いながらイスカは蒼々本島でしかとれない高級魚・ズィアのムニエルを口に運んだ。故郷の味が、このどことなく不思議な空間の中で懐かしさを感じさせる。

「分かった。」

頬張ったムニエルを飲み込む前に答えが返って来た。あまりの早さにイスカは思わず吹き出しそうになった。

「本当ですか!?」

「あぁ、ただし条件がある。」

やはり『タダで』とはいかないか。イスカはピシリと姿勢を正した。

「必ず望宮家を継げ、と伝えてくれ。」

望宮家の継承、それはラディの兄ラヌイを倒すこと、更に言うならばその背後にいる統宮を倒すことを意味していた。こうなった以上、このことはラディも覚悟しているはずだ。

「分かりました。伝えておきます。」

「それからもう一つ。」

まだあるのか、これだけでもかなり重い条件だが…しかしここで嫌な顔を見せるわけにはいかなかった。

「何でしょうか?」

「早く孫を見せてくれ、とね。」

孫を…意味を理解してイスカは真っ赤になった。フハハハハ!とまた豪快な笑いが響き渡る。イスカは軽く咳払いをして言った。

「5年以内には。」

「楽しみにしているぞ。」

ニヤリと笑う父の前に置かれていた料理は綺麗に平らげられていた。とにかく何をするのも早いのが父の性格であったことをイスカは思い出した。雲宮が席を立つ。

「どちらへ?」

「私は次の仕事があるからな。ゆっくり食べて言ってくれ。後のことは、私に任せておけ。」

そう言い残して雲宮はレストランを出て行った。会談ってこんなものなのだろうか。からかわれただけな気がするが…。首を傾げながら目の前の料理を食べる。取り敢えず分かったことは父が引き受けてくれたこと、そしてやっぱり故郷の味が一番口に合うことである。


ズキリ

傷口が痛むたびにあの瞬間を思い出す。感情に任せて言い過ぎたのかもしれない。しかし、あの残酷さを受け入れられないようでは、統宮家ではやっていけないのだ。情に厚く、しかし切り捨てる時は切り捨てる。これが統宮の生き方だった。

何気なくリモコンを手に取ろうと腕を伸ばしただけで、また傷口が呻いた。全く、育ての親に銃を放つとは…テアを呪ったのはもう何度目か分からない。なんとかリモコンを手に取ってテレビをつける。目に飛び込んできたのは、驚くべき臨時ニュースのテロップだった。

『二宮殿下、煌宮様婚約!王室史上最速のスピード婚へ』

見た瞬間に全てを察した。この婚約を成立させることが出来るのは帝王・成帝だけであり成帝を説得出来るのは蒼候である賢宮だけである。そして賢宮に頼んだのは、統宮の宿敵である雲宮であろう。そして、雲宮に頼んだのは…。

「フッフッフッフッフ…フハハハハハハ!」

統宮は傷口が痛むのも忘れて笑いだした。これは統宮に対する護宮と直宮派の戦線布告である。面白い…受けて立ってやろう。私にたてついた報いは、一族全員が受けることになるのだ。奴らはそれを全く理解していない。



あれから三年、最南鎮守宮はラディから先任者を挟んでメルへと移った。蒼候・賢宮が健在だった今までは何事も起きなかったが、統宮が力を握れば、この三人は窮地に陥いることになるだろう。

「この先どうなるかはわからん。結局は中央の動き次第だからな。メル、これからしばらく、簡単に国からの援助は受けられなくなるぞ。中央の情勢が落ち着くまで、黒の国は最南鎮守府だけで持ちこたえねばなるまい。」

「分かっています。」

「テア殿はできる限り王宮の情報を集めて欲しい。」

「はい。」

出来れば雲宮に勝って欲しい。しかし、父の望宮を始め統宮を支持する勢力は強力だった。統宮が勝った時、最南鎮守府は中央政府と足並みを揃えられるのだろうか。メルはどうしても不安を拭い去れなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る