第一章(初陣)


最南鎮守宮に着任して1ヶ月、建軍と軍務の引き継ぎを終えたメルは、最近ようやくこの島の美しさを楽しむ余裕が出てきた。

名の通り、最南島はこの国の一番南の島だ。この島より南には海以外に何があるのか、誰も知らなかった。人工衛星からの情報では、遥か南に大陸があるのだが、先帝の遺訓である領土不拡大の方針により、蒼の国の人々はこの島より南に行ってはならなかった。他の方角も似たような状況で、蒼の国は外国というものを久しく知らない。

最南鎮守府は、島の南端の街の中に位置している。街の中でも一番高いこの建物から望める最南港は、多数の軍艦や商船が集い、資源の豊富なこの島の最大の貿易港である。鎮守府の最上階が司令宮室(しれいぐうしつ)で、四方に窓が張り巡らされたその部屋からはこの街を一望することが出来る。昼は緑豊かな山々が雄大に望め、夜は港町の夜景が夜空の星々に負けないくらいの輝きを放つ。メルは、司令宮室よりスウィートルームにした方が良いのではないのかと、近頃思うようになっていた。

突然部屋の電話が鳴った。メルが初めてこの司令宮室に入った時、スマホが普及しているこの時代に固定電話など要らないと言ったのだが、歴代司令宮が代々受け継いでいるものだから捨てないで欲しいと、島長(しまおさ)に頼み込まれた。兄の護宮様も使われたのだからとアブエロにも説得されて渋々部屋の片隅に置いたのだが、未だにこの電話の古い、耳に突き刺さるような呼び出し音には慣れない。

少し顔をしかめて、メルは受話器を取った。

「メル様ですか!」

アブエロだった。いつもより少し語気が強いことに、何かあったと直感する。

「最南海上警備隊より連絡です。レーダーが正体不明の船舶を探知。最南港より南方200Km、15ノットで北上、本島に接近しています!」

この国の船舶は基本的に識別信号を出している。しかも、その海域で漁は禁止されており、潮の流れはこの時間帯は南に流れている。嫌な予感がメルの頭をよぎった。

「第一飛行隊に連絡、不審船を視認させよ。それから、海上警備隊に可能であれば不審船を確認しろと伝えよ。」

「はっ!」

「それから、『紫雲』を出撃させろ。」

「そこまでする必要があるでしょうか?」

「状況から考えて、我が国の船舶ではない。嫌な予感がするのだ。」

アブエロはまだ納得していないようだが、話を先に進めた。

「駆逐艦は如何します?」

「まともに艦隊行動をとれぬ駆逐艦など持って行ったところで足手まといだ。紫雲のみで良い。」

建軍より1ヶ月、駆逐艦の訓練は始まったばかりである。とても実戦に出せる状態ではなかった。

「私が乗って指揮する。じいも急いで紫雲に向かえ。」

「危険です!宮様は鎮守府で指揮して下され!」

アブエロがメルのことを『宮様』と呼ぶ時は、決まって彼女を制止する時である。メルも普段は従うが、今回は何か嫌な予感が胸をよぎった。

「いや、私も行く。何かとても胸騒ぎがするのだ。」

「宮様…」

メルが一度決めたら、何を言っても無駄であることをアブエロは知っていた。

「分かりました。では、紫雲にてお待ちしております。」


最南第一飛行隊は、代々この島の防衛の要を務めてきた要の飛行隊である。最南鎮守宮が変わるたびに飛行隊のメンバーも変わったが、その役割だけは長年変わらなかった。

現在この隊を率いるのはスィラという人物であった。メルは通常5年かかる王将学校をわずか3年で通過したため同級生とのパイプが少なく、軍の創設は難航した。当然パイロットも人員不足で、見かねた王将学校時代の先輩である空宮が自分の部隊から飛雲(ひうん)第8飛行隊をくれた。その隊長がスィラである。「空神」と呼ばれる空宮の部隊だけあって、戦闘機の連携は他のどの部隊よりも見事であった。しかしスィラ自身は、この南の孤島に飛ばされ27歳も下の新米の姫の指図を受けることが大変不本意であるようで、来て早々メルに向かって「あなたの指示で飛ぶことは耐え難い」と言い放った。怒り狂うアブエロを制しつつ、メルは笑った。怪訝な顔をしてこちらを見つめるスィラに向かいメルは言った。

「元よりお前が私の指示を受けることが嫌なことくらい百も承知だ。南一空(最南第一飛行隊)の編成、指揮は全て預ける。私が飛べと言った時に飛んでさえくれれば、それで十分だ。時期が来たらまた飛雲に戻れるよう取り計らおう。」

その「飛べ」の指令が早くも来た。相手は不審船だという。馬鹿馬鹿しいと言うのが連絡を受けた時にスィラが持った最初の感情であった。

「おい」

通りかかった小隊長に声をかけると、小隊長は直立不動の姿勢とった。

「飛んでこい、南に約200Kmの所に迷い猫がいるそうだ。」

「はっ!」

どうせ遭難して信号と無線が壊れた船がこちらに向かっているだけだろう。こんな雑用までわざわざ自分達がやらなければならないのか…スィラはゲンナリした。一体いつメルは自分達を飛雲に戻してくれるのだろうか。


小隊長となって初めての仕事。ケアスは興奮と不安で胸がいっぱいになっていた。彼が今までで一番緊張したことは、将兵学校の卒業試験であったが、今はそれ以上の緊張があった。彼は、自分の手に「成」と書き、王都・蒼都のある北の方角に手を合わせた。

「成」は今の帝王の諱である。蒼の国では、帝王が即位時に自らの諱を選ぶことが出来た。現帝の名は成帝である。平和が「成」ることを理想に掲げると、即位式の時に成帝は民に誓った。

先帝の諱は「楽」といった。皆が楽しんで暮らせるようにという願いが込められている。「楽しむ」という言葉は、この国では「ミューナ」と呼ばれている。ミューナは、先帝の愛称でもあったが、戦闘機業界では革命的な名前として知られていた。

楽帝の晩年に作られた戦闘機「ミューナ」は、当時蒼の国が持っていた戦闘機の最長航続距離を従来の2倍近くにした上で、積載するミサイルの射程距離を1.5倍にすることに成功した。このことは「ミューナの奇跡」と呼ばれ、軍人でこのことを知らぬ者はいない。「航空史の華」と呼ばれるこの戦闘機は、今も主役の座に君臨している。全長約9メートル、全幅約12メートルの蒼く美しい流線型の機体は、まさしく「華」の名に相応しい。この戦闘機に乗る時、ケアスはいつもその機体美に圧倒されるのであった。

念のため対艦ミサイルを積んで、ケアス以下3機のミューナは飛び立った。下を見ると、最南港で紫雲が出航しようとしている。これは本当に大事なのかもしれない。ケアスは大きく息を吐くと、目標地点に機首を向けた。


メルは、普段から神というものを信用していない。王族の一員とだというのに、祖・蒼帝の存在すらおとぎ話だと思っている程である。しかし、彼女は第六感の存在だけはあると信じて疑わなかった。何気ない日常の中で、突然彼女の頭によぎる「予感」は、不思議と当たることが多かった。翌日の夕食、1週間後の天気、テアが着てくる服の色、大事であれば地震やヘリコプターの墜落など色々な「予感」が現実となった。今回も同じ匂いがする…将に焦りは禁物と言い聞かせながらも、メルの胸の中には焦燥感が湧いてくるのであった。

「大丈夫ですよ。」

そんなメルの心を見透かすように、アブエロが声をかけてくれた。

「相手の正体も分からないのに、油断は禁物です。」

一際幼い声がアブエロの言葉に釘をさした。アブエロはむっとして声の主を睨んだが、彼女は机上の海図に見入ってしまって、その視線に気がつかない。


彼女の名は、ノノウという。紫雲のメンバーの中でも最年少である。最年少とは言っても、その幼い声に似合わずメルの1つ年下の16歳であった。彼女は、1年前に将兵学校に何とか入ったのだが走れず、泳げず、力もないという壊滅的な身体能力で、運動関係は全て最低評価。一年生にして留年が決まってしまった。留年が言い渡されて絶望していたある日、彼女は守宮(メル)が軍を作ることを知った。驚くことに、兵学校に入学したものなら誰でも受けられるらしい。破れかぶれで建軍試験に臨んだが、短距離、長距離、水泳共に最低評価。彼女は落胆し、家から出ることも出来ない日々が続いた。

転機が訪れたのは、一通の手紙だった。落ちていると分かっているのにノコノコ不合格を言い渡されるのも馬鹿馬鹿しいと思ったが、手紙の最後にメルの印が押されているのを見て行かざるを得なくなった。王族命令を無視すると、どんな理由があろうとも死罪は免れない。自分が市中引き回しの上、王都民の目の前で殺される様子を想像して、ノノウは真っ青になった。

望宮邸(のぞむのみやてい)の前では、多くの受験者が列をなして自分の番を待っていた。望宮はメルの父であり、メルは生まれてからずっとこの家に住んでいる。王族命令が出ていても行くのはやはり気が重く、時間ギリギリに望宮邸に着いた。最後尾に並んで待っていると、一人の老人がこちらに近づいて来た。

「ノノウ殿か?」

「はい。」

「守宮様がお待ちだ。こちらへ。」

『身の毛がよだつ』とはこのことか、とノノウは恐れを通り越して感心していた。果たしてどんな地獄が待っているだろうか。


「連れてまいりました。」

「入れ」

部屋の中で座っているこの姫こそかつて王族航空ショーのニュースで見た、近所のポスター店で『リアルプリンセス』こと煌宮様と売れ行き1番を争っているあの守宮様だった。まだ17だというが、雰囲気ははるかに大人びていていた。自分より10歳上と言われても自分は疑わないだろうが、かといって歳いっているわけでもない。航空ショーの時は一つに結わえてあった髪が下ろされているのもあるのかもしれないが、テレビとは全く違う感じに見えた。

「そう固くなるな。座って良い。」

そうは言われても足が震えて動かない。やっとの事で椅子に座ったが、その動作はまるで30年前のロボットのようであった。そんなノノウの様子を見て、メルはクスッと笑った。いきなり恥ずかしさで顔が真っ赤になる。

「すまないな。すぐ顔に出てしまう。」

王族に謝られたらどうすればいいのだろうか。土下座しようにも、身体はもう言うことを聞かなかった。

「…さて」

机の上に裏返してあった2枚の紙をメルは手に取った。

「今回の試験でここに呼んだ受験者はお前だけだ。」

そんなことは分かっている。おそらく、あの行列はメルの部下に合否を言い渡されているのだ。

「ここに何が書いてあるか分かるか?」

メルが手に持った紙を軽く指で鳴らした。

「実技試験の最低評価と…不合格通知でしょうか。」

メルはまたクスリと笑って、一枚の紙を見せた。運動テストが全て最低評価になっている。分かってはいたが、現実を見せつけられるとやはり打ちのめされる。

「もしこれだけだったら王族侮辱罪で今頃牢屋の中だろうな。」

急に真顔に戻ったメルを見て、ノノウは身構えた。「これだけ」なら…他にもとんでもない間違いを自分は犯したのだろうか。

「これだけなら、な」

念押しして、メルはもう一枚の紙を見せた。それは学科試験の結果だった。そこには「100%」の記号が刻まれていた。


完全に固まってしまったノノウを見て、メルは思わず声を上げて笑ってしまった。アブエロが唖然とするのも無理はない。メルがこれほどに笑った姿を見るのは久しぶりであった。目を丸くしているアブエロと目が合ったメルは一瞬凍って、口に手を当てて少し顔を赤らめた。しかし、ノノウはそれを遥かに超えた衝撃を受けていた。メルは軽く咳払いをして、再び話し出した。

「学科試験、満点はお前だけだ。見事だ。」

『見事』。その一言を聞いた時、ノノウ目から涙が溢れた。入学して以来、バカにされることはあっても、褒められたことなど決してなかった。褒め言葉がこれほど胸に響いたのは初めてだった。

「これは私が王将学校で学んだ全てを使って作り上げたものだが、まさか全問正解する者が出るとは思わなかった。2位ですら8割に満たないのだ。」

ノノウは昔から学ぶことだけは大好きで、学んだだけ身につく才能もあった。将兵学校も学科試験だけで突破したのである。将兵学校に入ってから留年までに、彼女は学校の全ての本を読み尽くした。

「試験の性質上、この試験では落ちることになるが…」

メルがアブエロを見る。アブエロは、深く頷いた。

「これから参謀として、私の元に来ないか」


「ノノウ!」

呼びかけられて、ノノウはハッと我に返った。振り向くとメルが上から覗きこむように立っていた。

「まだ南方200㎞に不審船がいることしか分かっていない。そんなに考えた所で、どうしようもないだろう。」

その通りである。どのような知将でも、情報がなければ何も出来ない。

「そろそろ第1飛行隊の偵察報告が来る頃だ。」

メルが言い終わらない内に、無線機にコールが入った。

「ほらな。」

少し笑顔を見せて、メルは無線に出た。

「私だ。」

「第1飛行隊小隊長、ケアスです。報告します。国籍不明船舶1、甲板まで人で溢れています。避難船かと思われます。艦内も同様であれば、」

ケアスは一瞬間をとって、その数を述べた。

「恐らく2000は下らないかと」

2000。その数字を聞いて、艦長室にいた3人は凍りついた。それだけの人数が乗れる船は豪華客船か、大型空母か、かつての弩級戦艦くらいのものである。

「甲板に三連装砲2。戦艦です。砲の上まで人が乗っています。」

この国の船ではないと3人は確信した。かつてはこの国も大艦巨砲主義の時代があったが、最後の戦艦が退役したのはもう50年も前のことである。砲の上に人が乗っているということは攻撃することも出来ないであろう。もっとも、戦艦1艦で音速を超えるミューナを落とすことなど不可能に近いが。

ケアスに旋回して引き続き偵察することを命じてメルは無線を切った。

「まずやらねばならんのは、不審船の拿捕だ。情報を聞く限り、海上警備隊だけで十分だろう。問題は、拿捕した船と人間をどこに収容するかだ。」

「案があります」

手を挙げたのはノノウである。

「豪華客船を王族命令で借りましょう。最南港には、使われなくなった3000人規模の客船があったのを覚えています。あれを使うのです。」

確かに、昨日解体工事を許可した豪華客船があった。長年王都・蒼都のある蒼々本島と最南島を結ぶ航路で30年近くに渡って使われてきた船だった。本島の解体工場は解体費用が高く、本島と離島を結ぶ船は離島側で解体されることが多い。最南島は本島のように民間の解体業者がおらず、軍のドックを使用していた。そのため、最高司令官であるメルが許可を出す必要があった。許可状を書きつつも、引退が惜しいと思ったものである。

「じい、すぐに解体の許可を取り消し、船を買収しろ。」

「ハッ!」

「それから急いで船員を募集しろ。賃金ははずめ。それで急場は凌げるだろう。後は王都からの指示を待つのだ。」

「分かりました!」

アブエロはすぐに最南ドッグに連絡を取り始めた。

「残る問題は、意思疎通だな。」

「島に戻れば、意思表示機が使えます。」

意思表示機は、近年病院が取り入れ始めた機械で、話すことも動くことも出来なくなった患者が、自分が思うだけで機械がそれを言葉にしてくれるという、この国の最新鋭の機械である。船の代表者とそれを使って話すことはメルも考えていた。

突然無線機がなった。声の主はケアスである。

「本機から南約180Kmに戦闘機5機を探知、約400㎞/hで北上!編隊を組んでいることから、戦闘機と考えられます!」


不審船どころの話ではなくなった。ノノウは冷静に現在の状況を述べた。

「現在、我々は不審船まで残り150Kmの所にいます。敵戦闘機の現場到着予定時刻は30分を切っています。船がこれから最大船速を出したとしても、間に合いません。敵の巡航速度が本当に400㎞/hであれば、恐らくこちらの戦闘機の方が性能は上でしょうが、偵察隊は燃料の問題上、後30分で現場上空を離脱せねばなりません。本島の第1飛行隊も、今から準備では間に合わないでしょう。残るは…」

「紫雲飛行隊のみ、か。」

メルはすぐに無線機を取った。連絡先は、紫雲航空整備隊である。すぐに隊長のテメンを呼び出すと、メルは尋ねた。

「ミューナ5機、対空ミサイルを積んで飛行可能にするまでに何分かかるか?」

一瞬の間の後、テメンは告げた。

「15分あれば、出せます!」

「すぐに取りかかれ、15分後に飛び立つ!」

すぐに次の連絡を行う。相手は紫雲航空隊隊長、フィデルタであった。

「以前お前と部下達と私の5人で、ミューナの編隊訓練をしたのを覚えているか、そのメンバーを急いで集めろ。15分後に飛ぶぞ!」

「承知しました!」

そのやり取りを見ていたアブエロは、血相を変えてメルに詰め寄った。

「宮様も飛ばれるのですか!?」

「そうだ。」

「じいは絶対に認めませんぞ!どこの世界に、将兵を差し置いて戦闘空域にでる司令がおりましょうか!!」

「万が一我が軍に死傷者が出れば、最南島だけでなく、蒼の国全土が恐慌に陥るのだ!ここは最善を尽くさなければならん。ノノウ!!」

振り返ってノノウを見つめる。そこにはいつものメルではなく、1人のファイターパイロットの姿があった。

「後は任せる。私が飛んでいる間、最高指揮官はアブエロだ。しっかりと支えろ。」

ノノウは口を開いたが、胸が詰まって言葉が出なかった。一瞬、視線が交差するとノノウの胸は一段と高鳴った。

メルが艦長室から出て行くと、アブエロは頭を抱えて崩れ落ちた。

「なぜじゃ、なぜじゃ…」

アブエロの気持ちもよく分かった。今、万が一メルを失えば、最南鎮守府は一気に瓦解するだろう。最南島の政治的ダメージは計り知れないが、それ以上に大切に育ててきた孫娘が南海の空に散るかもしれないという不安にアブエロは打ちのめされていた。


甲板に立つ時、メルは決まって大きな深呼吸をした。この海の香りが独特の高揚感を味あわせてくれる。髪を結わえ、ヘルメットを被る。時に煩く感じるエンジン音も今日は安心感を与えてくれた。パイロット席に座り、操縦桿を軽く撫でて「今日も頼むぞ」と呟く。水平線の先に待ち受ける者達は一体何者なのだろうか。

この5機からなる飛行隊は、王将学校の模擬演習の時に「リラトル隊」と呼ばれていた。リラトルはこの国の言葉で「守る」の意味を表す。正にメルに相応しい隊の名前であった。

「リラトル1、発艦スタンバイ!」

「紫雲よりリラトル1、発艦許可出します!」

「了解、離陸する!」

双発のエンジン音が一段と大きくなると同時に、ミューナは前進を始めた。そのまま一気に加速する。

「V1…ローテート」

ミューナの車輪が紫雲から離れた。巡航高度に入った直後に交信が入る。ノノウからだった。

「必ず帰って来てくださいと…アブエロ様からです。」

メルはフッと笑って答えた。

「必ず戻る。それまで紫雲を頼むぞ。」


最南海上警備隊の第1陣が不審船にたどり着こうとしていた。

「船が見えるぞー!」

隊員は勿論、隊長のダルヤも双眼鏡を覗き込み、割れんばかりに目を見張る。黒い点のようなものを見た隊員達は、感嘆の声を漏らした。

ケアスからの報告は既に入っていた。2000人。こちらは3隻の巡視船のメンバー全てを含めても、500名に満たない。暴動が起こった場合、鎮められる自信をダルヤは持っていなかった。最も近づけるのかどうかも現時点では定かではないが。

レーダーが北から南下する5機の輝点を写している。守宮様も無茶なことをされるものだと思わずにはいられない。前線に平然と飛び立つ指揮官。相手の正体が分からないのに、部下に任せず自分が出て行くなどあり得ない。普段は冷静な人に見えるが、やはり守宮様も熱くなる所があるのかもしれないとダルヤは思った。

リラトル隊の速度は通常の巡行スピードよりも格段に速く、音速を優に超えている。もう間も無くこの船の上空を通過するだろう。対して、南から北上してくる5機の輝点も巡視船のレーダーは捉えていた。このままだと、不審船から南に30Kmの所で、両者はぶつかるだろう。万一のことがあれば、正体不明の戦闘機がこちらに襲いかかってくることも考えられる。主砲1門と救助用のヘリしかないこの船で対抗できるのだろうか。ダルヤは大きな不安を抱いていた。


ミサイル射程圏内まで10Kmを切ると、メルは全機上昇を命じた。一糸乱れぬ動きで編隊が急上昇する。ミューナのステルス能力は優れていて、対電子、赤外線探知の装備とともに「蒼鳥」とも呼ばれるその機体の色によって、操縦士の目からも逃れることが出来た。攻撃位置を整えると、メルは攻撃指令を出した。

「リラトル1から全機へ、手はず通りに動け、頼んだぞ!」

それだけ言って無線を切る。作戦は既に紫雲艦上で言い渡してあった。話を少し巻き戻す。


航空整備隊がミューナを整備している間、リラトル隊は待機室にて準備が完了するのを待っていた。メルが切り出す。

「リラトル2を除き、1機ずつ目標を決めて撃墜せよ。相手の正体は分からないから、油断するな。」

「私はどうするのです?」

そう聞き返してきたのはフィデルタである。

「敵は5機、一機一殺で残りは1機になるはずだ。その1機は、最小限の被害で墜ちてもらわねばならん。出来るだけ部品を持ち帰らねばならないのだ。」

ここまで飛んできたということは、ミューナよりも航続距離が遥かに長いということである。その理由を知るには機体を手に入れる必要があった。

「そこで、その機を海面ギリギリに誘導してもらいたい。敵の移動速度から察するに、一昔前の性能である可能性が高い。空対空ミサイルを載せている可能性はかなり低いと言える。そこで、わざと相手に後ろを見せて射線をずらしつつ降下するのだ。ギリギリまで降ろした所で私が急降下してこれを銃撃、相手操縦士を射殺、着水させる。これなら、ミサイルで撃墜するよりも機体の残骸の拡散は劇的に抑え込めるはずだ。」

ミューナは先帝・楽帝の晩年に作られた41型と、現帝・成帝の即位から22年後に改良された22型がある。22型の方が航続距離、ミサイルの射程距離が少し長くなったのだが、決定的な違いは機銃の有無であった。蒼の国のミサイル命中率は「ミューナの奇跡」以前は散々なものだった。分かりやすくいうとノノウに射撃をやらせるようなもので、当たれば幸運、と言った所である。そこで、当時はミサイルを撃った後、音速のドッグファイトが行われていた。しかし「ミューナの奇跡」以降ミサイルは殆ど正確に着弾するようになり、銃座はもはや戦闘に使われる事がないという論調が高まった。機体速度を上げるために41型で載せられていた機銃は、改良型で搭載されなかった。

紫雲が退役した頃、丁度航空業界ではミューナの41型と22型の入れ替えの時期であり、護宮は実戦訓練には丁度いい、と廃棄予定だった41型を丸ごと紫雲に載せてくれた。従って、41型には機銃が載っているため銃撃する事が可能なのである。その機銃でコクピットを狙い撃ちすると言うのがメルの作戦だった。

「つまり、私を囮にするということですか?」

「そうだ。」

「お断りします。」

戦闘機乗り(パイロット)たるもの、撃墜こそが名誉である。その機会をみすみす逃すなどあり得ない。

「…そうか、では私がやろう。」

「そのような…!指揮官がそのような事をなさるべきではありません!」

「敢えて背中をみせるなどお前ぐらいしか出来ないと思って頼んだが、無理と言われては仕方がない。私がやるしかないだろう。」

無理。その一言がフィデルタにスイッチを入れた。

「無理とは言っておりませぬ。」

「やりたくない役割を与えるほどバカなことはしないつもりだ。私がやろう。」

「万一敵が空対空ミサイルを積んでいたらどうするのです?『血気に逸り前線で撃ち落とされた新米指揮官』ほどバカな称号もありませんぞ!それに、やりたくないとは言っておりませぬ!」

「やりたいのか?」

「やらせて下さい。」

乗せられたと思ったときには、もう後には引けなくなっていた。

「王族である以上、バカと言われたら何か処罰を与えねばならん」

メルは真剣な顔でフィデルタを見つめる。彼の背筋は上空20000mの空気のように凍りついた。

「罰として今夜の祝勝会の後、私の応接室に軟禁する。アブエロ共々、ベロベロになるまで飲ませるから、覚悟しておけ。」


5機は一斉に降下を開始した。まだ敵編隊に気づかれる様子はない。十分に距離を詰めると、4機は一斉に敵機をロックオンし、空対空ミサイルを発射した。距離20Km。この距離で撃たれてミサイルから逃れられる戦闘機は、蒼の国には存在しない。打ちたい気分を必死に抑えてフィデルタは敵編隊との距離を詰めて行く。

遂に視界に5つの黒い点を捉えた。次の瞬間、4つの点が爆発した。レーダーからも4つの輝点が消える。

「リラトル2から各機へ、敵機4、爆発を視認!」

この瞬間、一つの確信を5人のパイロット達は共有した。敵はこちらの攻撃をかわすどころか、探知することすら出来ない。空戦においてこちらが負けることはまず無いだろう。問題は敵が空対空ミサイルを載せているかどうかだった。メルはまず無いと言うが相手の正体は全く分からないのである。蒼の国レベルの命中精度があれば、妨害材(チャフ)や火球(フレア)といった囮弾はこの距離ではもはや無意味である。躱(かわ)すにもミサイルの方が圧倒的にスピードが速ければ不可能に近いだろう。既にお互いが視認圏内に入っており、何が起こってもおかしくはなかった。

敵の機体から、何かが落ちていく。爆弾か増槽だろう。増槽とは航続距離を伸ばすために取り付けられる追加の燃料タンクで、戦闘の時は邪魔なので捨てる事が多い。敵がこの空域で戦える時間はそう長くはないだろう。敵がこちらに機首を向ける。距離が詰まる間にフィデルタは機体速度をギリギリまで落とした。後ろをみせても敵を振り切ってしまったら意味がない。400Kmなどミューナから言わせれば、ノノウが鬼ごっこの鬼で追いかけてくるようなものである。振り切らないようにする方が、実は難しいのであった。

相対速度は800Km/hを超えていたが、フィデルタはすれ違う直前に機体をを眺めた。蒼の国の大艦巨砲主義時代の戦闘機にそっくりである。機首にプロペラが付いているような飛行機は博物館でしか見た事がなく、空中で見るのは初めてだった。

敵は背後につくといきなり銃撃を始めた。射線に入らないように気をつけながら海面に逃れていく。命がかかっているというのに、フィデルタはこの状況を楽しんでいた。

(戦闘機乗りになったら、一度でいいから命をかけた戦いをしてみたい)

フィデルタは戦闘機乗りに憧れた頃からそう思うようになっていた。一度戦闘機乗りを辞めたのは指揮官に恵まれなかったこともあるが、心のどこかに「この平和な時代に命をかけた戦いなど起こらない」という諦めがあった。今、自分は生きている。生死の境目こそが生きている中で最も美しい世界だとフィデルタは信じていた。海面が見えてくる。太陽の光に反射して輝く海は王都・蒼都の夜景よりも、遥かに美しく感じられた。その海面と平行に機首を合わせる。敵は少し上を飛びながら執拗に銃撃を繰り返していた。ギリギリでかわしながら、フィデルタは空を見上げた。小さな点がこちらに向かってくる。頼みますよ、と呟く。

彼女の戦闘機乗りとしての最大の弱点は経験であった。通常であれば、まだ飛ぶことすらあり得ない年齢である。パイロットになってまだ4年。彼女は経験不足を常に才能と努力で賄ってきた。生まれ持った才能と不断の努力によって作り上げられた『奇跡の体現者』が、太陽の光を浴びながら一点を目指して高空から舞い降りてきている。


流石フィデルタだな、とメルは感心していた。ここまでは作戦通り、自分の配役は間違っていないと確信する。後は…自分だけである。ここでピンポイントに相手の操縦席を仕留められるか。機銃の発射ボタンに指をかけながら、メルは敵機に接近した。距離500m、機銃の射程内に入る。敵はまだフィデルタしか見えていないようで、銃撃に躍起になっている。たとえレーダーがないにせよ、この距離でこちらが見えないのはパイロット失格だ…。一瞬そう思った後メルはボタンを押した。1秒。わずかそれだけの時間でこの機銃は83発の弾丸を放つことが出来る。数秒間押し続けて、すぐに機首を引き起こした。すぐにレーダーを見つめる。輝点が消えたその瞬間、メルは作戦の成功を確信した。すぐに紫雲に連絡する。

「リラトル1から紫雲へ、敵機全機撃墜完了。」

冷静に言ったつもりだったが、いつもより少し声が昂ぶっている気がした。しかし、昂ぶっているのはこちらだけではないらしい。すぐに歓声が無線から聞こえてくる。

「おめでとうございます!」

アブエロの声である。

「しかし、やはり前線に出るのは許せませぬ。祝勝会の後はたっぷり説教をさせて頂きますので、お覚悟を。」

「フィデルタと3人で飲み交わす約束をしたのだ。部下の前で怒られるのは困る。」

「困りましたなぁ。」

その声は、全く困っているようには聞こえなかった。

「戦闘機は全て高高度での撃墜でしょうか?」

艦全体が浮かれていても、この最年少の乗組員だけは浮かれていない。

「1機、海面付近で撃墜した。直ちにダルヤに連絡、救難用のヘリを急行させろ。紫雲からも1機頼む。それから、最南鎮守府に頼んで機体の回収を行わせるのだ。」

「了解しました。」

ノノウの言葉を聞いて、昂ぶった気持ちが元に戻る。やはり参謀にしてよかったとメルは思った。

「リラトル1より紫雲へ、リラトル隊、これより帰投する!」


リラトル隊のメンバー達は、着艦後すぐに紫雲の乗組員達に戦闘の話を聞こうと殺到した。高まる空気の中でも、流石にメルに駆け寄って話をする者はいない。最低限の節度は保たれていることにホッとしながらメルは艦長室に入った。

「メル様、よくご無事で…」

アブエロはメルを見て感動の色を隠せなかった。拭いても拭いても涙が止めどもなく溢れてくる。

「年などとるものではありませんなぁ…」

そういうのがやっとであった。

「よく紫雲を守ってくれた。感謝するぞ。」

アブエロに労いの言葉をかけながらメルは窓の外を眺めた。

「…ノノウ」

「はい?」

「あの者達は一体何者だろう?航続距離はともかく、戦闘機の能力は大艦巨砲時代の物そのものだ。南海の暴将・暴宮(あばれのみや)の亡霊なのか…」

暴宮は大艦巨砲時代の将の一人で、この南の海に最大の戦艦「南都(なんと)」と共に沈んだ。沈めたのは初代の希宮(まれのみや)で、テアの実家である希宮家を創設した人物である。

「まさか。今我々が見るべきは過去の亡霊ではなく、この国の未来であるはずです。」

「分かっている。だが…」

この海の向こうに果たして何が待ち受けているのか。雲一つない澄み切った空とは対照的に、メルの心は不安に包まれていた。まるで、今あの空にあるべき暗雲を全て心の中に吸い込んだかのように。

感傷的な気分を元に戻したのは、1本の無線だった。

「こちら最南海上警備隊、不審船より人質をとりました。船は自力航行が可能ですので、これより最南港に誘導します。」

「了解、よくやった。」

(見るべきはこの国の未来、か。)

年下に諭されるとは、と心の中で苦笑しながら館内放送のマイクをとった。

「不審船が最南港へ移動を開始した。よって本艦の任務は、全て完了である!」

一際大きな歓声は、艦長室のドアを閉めていてもしっかりと聞こえていた。メルは続けて宣言した。

「これより反転、本艦は最南港へ帰投する!」

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