シャバーニ

 おおよそ三年前、エイジャがバミューダに着く直前くらいの話。ちょうど連合会アライアンスも出来て間もない時分だ。タキシードが昼間、人目を忍んで街の小道を歩いていると、ふと、野良犬たちが木に向かって吠え立てているシーンを見かけた。


 初めは無視するつもりだったタキシードだったが、不思議と犬たちが取り囲む木の上に好奇心が動き、こっそり様子を窺うとそこには黒い影が枝の上に座っていた。


 人間の子供かとも思ったが、仁義に厚い隻仁せきじん組が子供を襲うのはおかしい。タキシードが正体を確かめるべく飛び上がって木の枝に乗ってみれば、彼の目の前で怯えて縮こまっていたのは小さな黒い猿だった。それがシャバーニだ。


 まだ子供だった彼の、たどたどしい話を根気よく聞くと、シャバーニは元々森に住んでいたのだが、今朝ほど珍しい袋を森で見つけ、それに入って遊んでいたところ急にその袋が持ち上がった。何が起こったのか分からないシャバーニはその袋の中で静かにしていたのだが、やがてしばらくして袋の揺れが収まり、恐る恐る外に出てみたところが、この近くだった。右も左も分からないシャバーニ。彼は外に出て少し彷徨さまよってみたのだが、突然犬たちに追いかけれられ、やむなく木の上に待避し、今に至る。


 タキシードは、ははぁと思った。おそらく、シャバーニは森で休憩していた狩人ハンターの荷物に紛れてしまい、この南バミューダに迷い込んだ野生の子猿なのだ。


 異分子の侵入に示威しい行動を取っていた隻仁組の構成員をなだめ、事情を説明してこの件をタキシード預かりにしてもらったところ、野良犬たちは落ち着きを取り戻してその場を去って行った。


 タキシードはその後、シャバーニを保健所に連れて行った。シャバーニの家族を無限に広い森の中から探し出すのが不可能だったからだ。そのまま森に返してもいいが、この小ささで森に放置するというのは消極的な殺害であり、それはさすがに後味が悪いタキシードの苦肉の策だった。シャバーニという名前は、保健所でその小猿を引き取ってくれた職員が付けた名前だ。


 ――後日、成長して森に返されたらしいのは風の噂で知っていたが。


「いや……あの子猿、ゴリラやったんか……」


 まさか小猿の正体がゴリラだとは思っていなかったタキシード。彼は感慨深げに息を吐いた。シャバーニは保健所で名付け親の職員に良くしてもらったらしい。そんな話をするシャバーニが、当時のそんなことを懐かしそうにタキシードに伝えてきた。


「――そうやなぁ……そういえば自分、あん時は腰抜けとったから、そのままワシの背中に乗せて空を飛んだんやったなぁ。シャバーニが背中で暴れて墜落寸前までいって大変やったわ」


 そんなタキシードの言葉を聞いたシャバーニが、「ホホホホホ」と牙を剥き、興奮した様子でその場でグルグル回り始めた。


「あ、あぶないよ、子猫ちゃんがっ!」


 エイジャがわたわたとシャバーニの身体を力強く受け止め、ザザザッと足を滑らせながらもその動きをピタリと止めて見せた――今のを力で止めるか……。


 タキシードは落ち着いたシャバーニの手に肉球を当てた。


「……空飛んだの、楽しかったらしいわ。いい思い出やって」


 タキシードが岩のようなシャバーニを見上げて「でも、もう無理そうやな」と呟くと、エイジャが「いいなー……私も兄ぃの背中に乗りたい!」と羨ましがっていた。


「どっちが乗っても翼ポキって折れてしまうわ……んで、シャバーニ君。その子猫はどしたん?」


 続けてタキシードが子猫について話を聞いた。


 どうも、シャバーニが森でご飯を食べていたところ、一匹の血まみれの猫が、この子猫を咥えて森の中を彷徨さまよっているのを見かけたらしい。黒い長毛種の猫だったそうだ。シャバーニが恐る恐る近寄ってみると、その猫は子猫をシャバーニの前に落とし、息絶えた。


 どうしていいか分からないシャバーニだったが、とりあえずその猫の身体を調べてみると、首輪の裏に文字が書かれていることに気が付いた。そこにはニュートンという文字と、ヴェラスケスという文字が書かれていた。数日前のことだ。


 子猫を乗せたシャバーニの手には、一緒にその首輪が絡まっていた。


「――ヴェラスケス……どっかで……あっ!」


 目を閉じて記憶を辿っていたタキシードに、ぴこーんと閃きが来た。


「それって、自分の名付け親の名前やん!」


 シャバーニがゥホゥホと声を上げた。


「――え、じゃあ、つまりこの子猫ちゃんは、その死んじゃった黒い猫の子供で、その黒い猫はニュートンって名前で、さらにヴェラスケスさんっていうシャバーニ君の育ての親の飼い猫だってこと?」


「うーん、そんな感じの流れっぽいなぁ。言葉にすると随分と遠い関係性やけど、この子猫はシャバーニ君の関係者って言えへんこともないな」


 タキシードはぼんやりとヴェラスケスの容姿を思い出していた。黒髪長髪の、優しそうな男だった。


 シャバーニは名付け親であり、良くしてくれたヴェラスケスのことが好きだった。それで是が非でもこの子猫を返したくなってバミューダに来たのだが、いざ街に入ってみてもタキシードしか頼れる人物がいなかったと、そういうことだ。


「いきなり保健所行っても話できんもんな。しかし……よくまぁここが分かったなぁ。当てもなくバミューダを探すなんて、広大な砂漠でサボテン一本探すようなもんやろうに……あ、そうね。路地に翼の黒猫の広告貼ってあるね。うんうん。それか」


 タキシード探偵事務所は南バミューダの路地に、目立ちそうで目立たない具合で広告を貼り出してある。シンボルは翼の生えた黒猫。なるほど、シャバーニからすれば一目瞭然だったというわけだ。


「シャバーニ君、字が読めるの?」


 エイジャの疑問に、シャバーニは「ン゛ッン゛ー」と答えた。


「……文字はヴェラスケスに教えてもらったんやと。人間の言葉も、聞くだけならそこそこいけるらしいわ。シャバーニ君、天才やん」


 シャバーニはもう一度「ン゛ッン゛ー」と答えた。

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