黒猫探偵と戦闘狂

万魔殿

「ちこくちこくー」


 少女が駆ける。口にパンを咥えて。


 勢いよく走り込む街角には、別の方角から歩いてくる一人の少年。


 タキシードはへいの角の上、丁度、衝突点の真上からその光景を興味深そうに眺めていた。タイミングを図っているとしか思えない、申し合わせたように完璧な運命のいたずら。


「きゃっ!」


「うっ! あ……大丈夫⁉」


 タキシードはうらやましいと思う。


 同じシチュエーションで猫同士がぶつかったなら、お互いびっくりするか、あるいは喧嘩になるだけ。猫だけではない。ほとんどの動物がそうだろう。ぶつかっただけで仲良くなり、その上、恋が生まれる。そんなものは人間だけの特権に決まっている。


 ――運命という名の誣言ふげん。頑なに信じる人間とはに不思議な生きものなり。


 しかし、うっかりそんな事をエイジャの前で言ってしまったのなら、「私とやろう!」とか言い出すに決まっている。エイジャの脚で衝突されたら骨がボッキボキに折れてしまう――いや、下手をすると身体が上下に千切れるかも。この思いは心の中にしまっておこう。


 ここは南バミューダの一角。珍しく昼間に一人、タキシードは街のとある塀の上で、あたかも猫であるかのように自分を偽って過ごしていた。その目はせわしなくキョロキョロと泳いでいる。目、耳、鼻を総動員して油断なく周囲の気配を探っているのだ。


 ――ペロペロ、ザリザリ、ゾーリゾーリ。


 タキシードは綺麗好きだ。毛繕けずくろいは紳士のたしなみと考えている。そして猫の毛繕いには、緊張をまぎらわせるための側面がある。タキシードはゾワゾワする心を落ち着かせようと必死にお腹を舐め、足を上げて付け根をペロペロ、手を舐め、顔をゴシゴシ……。


 現実逃避。これはそれ以外の何ものでもない。


 なぜ、タキシードががらにもなく哲学的な考えにふけったり、酷く緊張していたり、高いところに上って警戒したり、どうにか周囲の猫と一体化するべく努力しているかというと――。


「あーっ! 見つけた兄ぃ‼」


 突如、至近距離から上がった声に心臓が跳ねた。咄嗟に空に飛び立とうとして、しかし直後に首の裏を掴まれた。


 エイジャが、いつのまにか塀の上でタキシードを押さえつけていた。タキシードが翼を開くよりも、彼女が塀に飛び乗る方が早かったのだ。それは猫のように身軽な体捌たいさばきだった。流石はスフィンクス族の風雲児ふううんじ


「もうっ! 大人しくしてってば!」


「――ま、まて。話せば分かる……このワシに気取けどられずに近づくとは、腕を上げたなエイジャ。さすが、自慢の妹や!」


「え、そうかな~? えへへ」


 タキシードの褒め言葉に嬉しそうになったエイジャの手が一瞬だけ緩んだ――今だ!


 タキシードは猫の脚力で思いっきり塀を蹴って地面にスタッと降り立ち、間髪を容れず猛ダッシュを敢行かんこうする。一気に助走をつけて空に逃げるつもりだ。


 だが、またしてもすんでの所でエイジャに首の裏を抑えられてしまった。


「――ふぎゅぅ」


「兄ぃ! もう観念して!」


 あまりに速い。今や、エイジャは短距離走スプリントでタキシードの加速を上回っていた。恐るべきはエイジャ。小さな頃はタキシードの方が何もかもが上だったのに。今となっては兄の肩書きも形無し。あの頃の妹は可愛かった――今も可愛いが……どこに行っても兄ぃー兄ぃーと言いながら付いてきて――今もそうだな……妹はいつだって自分が守っ――。


「さ、早く行くよ。もう時間すぎちゃうじゃん!」


「や、やめてー」


 強制的に現実に引き戻されたタキシードが、なおーん、なおーんと哀切あいせつの声を上げた。それを見かけた猫友ねこともたちが敬礼(猫招き)で彼を見送っていた。ネズミたちは震えながら物陰に身を隠した。野良犬たちが、黙祷を捧げていた。鳥たちが、木々の上で悲嘆ひたんを歌っていた。


 エイジャの腕の中に収まってしまえば、もう逃れられない。年貢の納め時だ。


 やがて、彼女の足がとある建物の前で止まった。まるで万魔殿パンデモニウム。一見して清潔な建物ではあるが、その偽りの仮面の裏からは、吐き気を催す禍々しいオーラが漏れ出している。


「ひっ」


 タキシードが息を飲んだ。


 看板にはこう書かれていた。


『わんにゃんなかよし動物病院』


 今日は、予防接種の日だ。

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