うまれそこない
金糸雀
膝に開いた口
『そんなに嫌々生きてるくらいなら、死になさいよ。この――生まれ損ない』
女の声が罵倒する。
俺は怒りに震えながら、その声を聞く。
俺の左膝にぱっくりと開いた、妙に艶めかしい
その口から繰り出される罵倒が俺の心を抉りに掛かってくる。
どうしてこんな状況に陥っているのだ、俺は――
俺はいつも通り夕飯を食い終わり、ドアの外の床に食器を乱雑に置いた後、ネットニュースのコメント欄やらSNSやらにひとしきり苛立ちをぶつけ、そうしている間に日付が変わったのでソシャゲのログボを回収して――いつの間にやら寝落ちしたのだが、暑くて目が覚めた。
この部屋は、ババア――母さんなどと呼んでいたのはもう随分昔のことだが、あんなものは「ババア」で十分だ――がケチってエアコンを取り付けてくれないから、扇風機しか暑さを凌ぐものはない。この真夏の熱帯夜に扇風機なんぞ回したところで意味がない。身体に掛かる風が生温くて、何もないより却って肚が立つくらいだ。
明日こそは殴ってでもあのクソババアにエアコンを買うと約束させなければ――そう心に決めながら、年中敷きっぱなしの布団から身を起こした。Tシャツとトランクスだけという薄着だが全身汗だくで、Tシャツは肌に張り付いている。不快なこと極まりない。
スマホを取り上げて時間を確かめると、午前三時を回ったところだ。ババアはきっと寝ているから、部屋を出ても顔を合わせなくて済むはず。シャワーでも浴びれば、少しはすっきりするだろうか。
そう思い付き、立ち上がろうとしたところで見慣れない色が視界にちらついた。
鮮やかな、赤。まるで女の、口紅のような――俺の嫌いな、チャラついた色。
同時に、左脚にちり、という微かな感覚。
それは痛みでも痒みでもなく、違和感――という、月並みな語彙で表現するしかない、そんな感覚だった。寝落ちている間に蚊に刺されでもしたか。だとしたら、これから痒くなってくるのか。俺は苛立ちを強めながら脚を見て
――鮮やかな色の口紅をひいた女のもののように見える、人間の口が、左膝に出現していることに気付いた。
――これは、一体。
暫し呆然とした後、間抜けな呟きが口をついて出た。
「な……なんだ……これ……」
知らず知らず漏れただけの呟きだ。返事を期待していたわけではもちろんなかった。
しかし。
『私は、生まれてこられなかったあんたの双子の片割れよ』
左膝の口がぱくぱくと動いて、俺の呟きに応えた。
それは、大人の女の声だった。
そういえば――。
俺は子供の頃に母親に聞かされた、俺が生まれる前のエピソードを思い出した。
『
こんなふうに、双子の片方がお腹の中でいなくなってしまうことを――』
バニシングツイン――その単語が俺の脳裏に浮かぶ。
俺は、母から双子の片割れについて聞いた後、もっと詳しく知りたくなって、いろいろと調べてみたことがあるのだが、バニシングツインとなった双子の片割れの残骸が生き残った方の身体に入り込み、腫瘍化することが稀にあるらしい。
俺に起こったのは何か、そういう現象なのだろうか――。
左膝に現れたこれは、どう見ても腫瘍ではないが。
「お前、俺に寄生してたのか? バニシングツインってやつだよな?
いつから俺の中にいた? ――答えろよっ。この野郎――化け物がっ」
『違うわよ、そんなんじゃないわよ。私にも、よくわかんないけど』
いきり立って問い詰める俺に冷静な声で答えた膝の口は、一転して嘲笑混じりの声で俺に罵声を浴びせてきた。
『あんたせっかく生まれてこられたのに、何ダラダラ無駄に過ごしてるのよ? 働きもせず、ネットで毒吐くかゲームで無駄に課金しながら時間潰すか――そんな生活を続けて何年経つの? いい身分よね、お母さん殴って、力づくで言うこと聞かせて、なけなしの貯金をせびって。そんなふうに暮らしてて楽しい? 満足?
――いいえ、満足なんかじゃない。イライラしてる。嫌々生きてる。
あんた何が不満なの? 私なんか生まれることさえできなかったのに。ちゃんと生まれて、人生送れてるだけで十分幸せじゃないの。なのにあんたは何?
――そんなに嫌々生きてるくらいなら、死になさいよ。この――生まれ損ない』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます