第18話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

〜フィリピン〜


=一九八四年=


九月  



〈一八〉



  十時少し前。[さくら]には中年男性の三人連れの客がひと組いるだけだった。客がついていない女たちは、互いに肩をもたせかけ合いながら―店の指示に反して―眠り込んでいる二人のほかは、出入り口近くの席にかたまり、当てのない会話を小声で交わし合いながら、辛抱強く次ぎの客がやって来るのを待っていた。

  わたしはみなからちょっと離れた、少し明るい席で、ローマ字で書かれた新しい日本の流行歌の歌詞をリサのノートから自分のノートに書き写していた。

  入り口のドアを威勢よく押し開けながら、ガードマンのエドガルドが店の中に向かって叫んだ。「イラッシャイマセ!」

  女たち全員がいっせいに、客を受け入れる態勢を整えた。眠っていた二人も遅れてはいなかった。

  入り口に一番近いところに座っていただれかが大声を上げた。「ああ、高野さんだ」

  わたしは視線を、なぜか、ゆっくりとドアの方に向けた。

  「マリガヤング パグダティング(お帰りなさい)」。高野さんに向かって両手を振りながら、別の女が言った。

  それを追って、何人もの女たちが、歓迎の気持ちを高野さんに伝えようと陽気な声を上げた。

  直前まで店の中にただよっていた物憂い雰囲気はもうすっかり消え去っていた。三人連れの客のテーブルについていたメルバとリサを含め、店で働く者みなが、それぞれに笑みを浮かべながら高野さんに視線を向けていた。

          ※

  メルバは、高野さんの方に顔を向けたまま、あの人が自分に気づいてくれるのを待っていた。

  リサは―ちょっとテーブルを離れさせてほしいと三人連れにことわりながらだったのだろう―時間をかけて立ち上がると、満面に笑みをたたえながら、高野さんの方に向かって足を運び始めた。

  高野さんがその動きに気づいた。あの人は笑顔で、まずリサに、それからすぐにメルバに向かって手を振った。

  メルバは幸せそうにほほ笑むと、とりあえずは満足した様子で、自分の客の方に向き直った。

  「シンパイ シタヨ」。まただれかが大きな声を上げた。「ドコ イッテタ?」

  高野さんはその声がした方に向かって―いくらかおどけたような仕種で―深々と頭を下げ、だれの顔もじかには見ないまま、キャンディーの袋のようなものをいくつか、女たちの中の一人に手渡した。

  受け取った女が前の女に負けない大声で言った。「サラマッポ(ありがとうございます)」

          ※

  リサと高野さんは女たちの前で、二言、三言、小声で言葉を交わした。高野さんは顔いっぱいに笑みを浮かべながら首を横に振った。リサは、訝るような表情をつくったあと、高野さんの肘を取って、あの人を店の奥の―前にあの人とわたしが使った―テーブルに導いていった。

  マネジャーのマヌエルが高野さんのテーブルに行き、あの人と握手を交わした。

  メルバは自分の客三人と楽しげに笑い合っていた。彼女の心配はもうすっかり消え去っているはずだった。

  ウェイターのレイモンドがオシボリをのせたトレイを手にして、高野さんのテーブルに向かった。リサがレイモンドに何かを指示した。…あの人の最初の注文は今夜もマンゴジュースなのだろうか、とわたしはぼんやり考えていた。

          ※

  高野さんの肩に手を置きながら、リサが立ち上がった。リサはバーカウンターに立ち寄り、ノートを取り上げ、ページをめくり始めた。女たちの勤務状況を記録したあのノートに違いなかった。

  リサは女たちがひかえていた席にやって来た。

  わたしの方へ腰をかがめながら、彼女は言った。「あなたの番よ、トゥリーナ」

  歌詞を書き写していたノートを膝の上で急いでたたみながら立ち上がり、わたしはリサに言った。「〔ママ〕、ちょっと待って」

  リサはカウンターの前で振り返った。

  「もし、わたしの番なら、〔ママ〕」。スピーカーから流れ出ている音楽の大きな音に遮られないよう、わたしは彼女の耳元で言った。「わたし、メルバと交代して、あの子に高野さんについてもらっていいかしら。あの子、高野さんが顔を出すのを、ずいぶん心配しながら待っていたから」

  「そうだったわね。…でも、それはだめ」。リサはきっぱりと答えた。「新しいお客さんが入ってきたとたんに、彼女がそっちに移ってしまえば、あの子のいまのお客さんたちはどう感じるかしら。大事に扱われている、とは思わないんじゃない?あの子には、たぶん今夜、このあと、チャンスがあるわ。今夜じゃなかったら、あすね。…トゥリーナ、あなた、ときどき自分が優しすぎると思うことない?」

  わたしは返事ができなかった。

  「それに、言っておくと…」。今度はリサがわたしの耳に口を近づけた。「本当はね、高野さんは、今夜はあなたと話したいって。…分かった?」

  わたしはメルバの方にさっと視線を走らせた。

          ※

  わたしの名を呼ぶ前にリサがあのノートを覗いたのは、メルバの心を傷つけまいという配慮からだったのだ、と気がついたのは、高野さんのテーブルのすぐそばまで行ってからだった。確かに、二週間以上も店に姿を見せなかった高野さんが、再び顔を出したその夜に、特に希望して自分以外の女を選んだことを知って、メルバが幸せに感じるはずはなかった。たとえ、その〔自分以外の女〕というのが、たまたま、メルバ自身が、高野さんがすぐにも恋に落ちるだろうと予言した当の女だったにしても。

          ※

  「ドウモ。…お帰りなさい」。メルバへの屈折した思いを振り払うように、思いきり明るい声をつくって高野さんにあいさつしながらわたしは、四、五人が腰かけられる大きさの、半円形の長椅子に腰をすべらせた。

  「クムスタ カ(元気)?」。はにかむような表情で高野さんは言った。

  「オオ、マブーティ ラマング(ええ、とっても)」

  「マサヤング バリータ イヤン(それはいいニュースだ)」

  「アット イカウ(で、そちらは)、高野さん?」

  「アコイ マブーティング マブーティ リン(僕もすごく元気だよ)」。肌がずいぶん日焼けしていたこともあって、その言葉どおりに、あの人は元気そうに見えていた。…少なくとも、あの瞬間のわたしの目には。

  それではメルバにすまないと思う心のもう一方の隅で、わたしは幸せな気分になっていた。高野さんの顔を見てそんな気分になるなんて想像もしていなかったのに。

  そんな気持ちがそのまま顔に表れるのを避けようと、わたしは冗談めかして言った。「わたしたちの会話、なんだか、タガログ語の基礎レッスンみたい…」

  「ああ、そうだね」。高野さんはおおらかに笑った。…わたしの軽い冗談に応える笑いとしては大きすぎる笑いだったかもしれない。

          ※

  レイモンドが運んできたのは、やはり、マンゴジュースだった。

  遅かれ早かれタバコをつかむことになる高野さんの指が湿らないようにと、わたしはグラスの下半分を紙ナプキンで包んだ。…あの人と次に言葉を交わし始めるまでの時間をそれで少し稼ごうという思いもあったかもしれない。

  「ありがとう」。ジュースのグラスをつかむと高野さんは言った。でも、視線はステージに向けられたままだった。

  ステージでは、店の女たちの中ではリサに次ぐ歌唱力があって、しかも一番きれいだとだれもが認めていたシンガー、クリスティーナが歌い始めるところだった。

  きらびやかな笑みを浮かべながら、クリスティ−ナが高野さんとわたしに向かって手を振った。わたしは彼女に拍手を送った。高野さんはほほ笑みながらグラスを目の高さに捧げ、クリスティーナに向かって軽く頭を下げて見せると、そのグラスを静かに口に運んだ。

  わたしの〔幸せな気分〕は変わっていなかった。わたしは自分にたずねてみた。〈わたしは本当は、わたしを真実必要としてくれる男性を求めているのだろうか〉〈そうでなかったら、わたしの方から真実優しくしてやれる男性を?〉〈あるいは、わたしを決して裏切らない、裏切りそうにない男性を?〉〈克久がわたしに対する態度を変えたとき以来?〉

  答えは見つからなかった。でも、あのときほど克久が遠く感じられたことはなかった。…そのことには、はっきりと気づいていた。

  それから、わたしは思った。〈克久の求愛を受け入れたとき、〔わたしの人生でわたしが選ぶ男性はこの人が最後だ〕と固く信じていたはずなのに〉

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