第21話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

   〜フィリピン〜


     =一九八四年=


        九月  



       〈二一〉



  テーブルに戻ってきた高野さんの顔からはもう、歌っていたときに浮かんでいた笑みが消え去っていた。

  [さくら]には歌と笑いが満ちあふれていた。十時少し前に店をおおっていた気だるい雰囲気はもうどこにもなかった。

          ※

  高野さんはグラスに残っていた水を一気に飲み干すと意を決したような口調で言った。「セブでの話に戻ろうか、トゥリーナ?」

  「ええ、つづけてください」

  「セブ市内を見物した日の翌日…」。セブでの観光体験談を飛ばして、高野さんは話を進めた。「僕はタクシーでセブ港に出かけた。セブ本島南部で貝殻を買いつけたり、買いつけた貝殻をセブ港から日本に送り出したりするための足場となるオフィスを小林のパートナーがそこに構えている、ということだったからね。…つまり、トゥリーナ、小林たちのシステムの中では、このオフィスこそが、ボタンを製造するのに必要な貝殻を入手するための、自前の、中心的な施設として位置づけされていたわけだ。ミスター・フェルナンデスのルート以外の、単にもう一つの、というのではなくてね。

  「そして、そのオフィスは小林のパートナーが報告してきたとおりの場所、ケソン・ブルバードにちゃんとあった。…その時点では、僕の仕事は、トゥリーナ、ここでも、ミスター・フェルナンデスを訪ねたときとおなじように、簡単に終わりそうに思えていたよ。

  「そのオフィスで僕が会ったのは、だけど、トゥリーナ、例の報告書に〔事務所長〕と記されていたベニート・ノラスコという人物ではなくて、その従弟だというガブリエル・グスマンという、二十代半ばの若者だった。その名前も矢部からもらっていたリストに含まれてはいたけどね。

  「ガブリエルは、僕がベニートに会いに来たことを知ると、すごく気の毒がってくれたよ。ベニートは〔いま、妹に会うためにマニラに出かけている〕ということだった。

  「僕はいくらかは落胆したけど、とにかくオフィスはあるべきところにちゃんとあったし、ガブリエルは何でも話してくれそうな様子だったから、それで自分の任務は十分に果たせると思ったよ。ベニートの不在を大きな問題だとは受け取らなかったんだ。

  「僕は、自分が描いていた筋書きどおりに、マクタン島のミスター・フェルナンデスに紹介されてこのオフィスを訪ねてきたんだとガブリエルに伝えた。…いや、そんな紹介はされていなかったんだけど、小林のパートナーがミスター・フェルナンデスにじかに会っているんだから、彼のことをガブリエルも知っているだろうと思ったからね。でも、ガブリエルは〈ああ、そうですか〉と言っただけだった。彼はミスター・フェルナンデスの名前は聞いていたようだけど、そのミスター・フェルナンデスがどういうわけでこのオフィスを紹介したのかがすぐには理解できない、という表情だったな。だから、僕は彼に、ミスター・フェルナンデスに伝えたのとおなじ説明をした。…僕は東京のある小さな貿易会社の仕入れ担当者で、顧客である日本のボタン工場に代わって、原料の貝殻を供給してくれる業者を探しているんだってね」

          ※

  「ガブリエルは〈え、本当ですか。あなたもセブ島でボタン用貝殻の供給業者を探しているんですか〉と、ほとんど叫び出しそうな声で言ったよ」。高野さんはつづけた。「あれは、ミスター・フェルナンデスが〔日本人からの半年間に二度目の問い合わせ〕に見せた、ある種の驚きの何倍もの大きさだったな。…それも〔分かる〕って気がしたけどね。だって、いまはフィリピン人のだれもが、繁栄中の日本とビジネス関係を築きたいと考えているときだろう?しかも、ガブリエルはまだ若く、野心を抱いていて当然の年頃なんだよ。そこへ日本人の貿易業者が、予告もせずに飛び込んできたんだから。

  「僕はとにかく、ガブリエルに〈日本へ、供給できます、おたくで?〉とたずねてみた。…ガブリエルの表情があんなに急に曇ってしまうなんて、想像もしていなかったよ。

  「僕は彼に〈何か不都合なことでも?〉とたずね返さずにはいられなかった。彼は〈不都合というのではありませんが〉と答えてから、急に分別を加えた口調に変えて〈その、あなたの日本人顧客というのは、もちろん、小林という人ではありませんよね?〉と僕にたずねてきたよ。

  「僕はできるだけあっさりと〔違う〕と答えた。もちろん、その答えを疑う理由はガブリエルにはなかった。彼は、すごく残念がりながら、〈わたしたちもボタン用貝殻を扱いますが、このオフィスは特に、いま口にしたミスター小林に貝殻を供給する目的で設けられたものですから、あなたを含めて、ほかのだれとも取り引きするわけにはいかないんです〉と言ったよ。ずいぶん気の毒がってくれているようにも見えたな、あの表情は。だけど、僕は実は、ほら、僕にも供給できると答えられたらちょっと困ってしまう立場にあったわけだから、〈いえ、その小林という人の競争相手に当たる者には供給しないというのは、それはそれでりっぱなポリシーです〉と応えて、その場をやり過ごした。

  「小林のパートナーは〔報告書〕どおりにオフィスを開いていたし、そこで働くガブリエルも正直で誠実そうに見えていた。だから、小林には、このオフィスにも問題はない、と報告してよさそうだった。僕はもうそれ以上ガブリエルと話さなくてもいいはずだった。

  「だけど、彼の様子はどこかが変だったんだよね。…僕の最初の思い込みとは異なり、いったん表情を曇らせてからの彼は格別〔野心〕を抱いているようには見えなかったし、いまの彼の〔新しい〕仕事に満足しているようにも、小林と始めた新しいビジネスに希望を膨らませているようにも見えなかったんだ。

  「だから、僕は、少し立ち入りすぎだと感じながらも、あえて、〈で、そのミスター小林とのビジネスはどうなんですか〉とたずねてみたよ」

          ※

  「ガブリエルは、僕が感じていたとおりに率直な若者だった」。高野さんは言った。「〈ミスター小林とのビジネスですか…〉。彼はそこでなぜか恥ずかしげな笑みを浮かべてから、こうつづけた。〈実は、原料の貝殻を買いつける資金がわたしたちにはまだなくて〉。僕は〈ああ、それだったら、この若者が仕事に満足していないように見えるのは仕方がないな〉と思ったよ。〈買いつけ資金は、たぶん、小林が出すのだろうけども、その資金がまだ届いていないんじゃ、張りきりようがないよな〉って。

  「でも、そのとき僕が理解していたところでは、小林には、このオフィスへの送金をいくらか遅らせる理由があった。ほら、トゥリーナ、このオフィスに買いつけ資金を送る前に、小林はこのシステムをチェックしたかったわけだろう?彼に代わってチェックしてくれる―僕のような―人物を見つけ出す時間が必要だったわけだろう?

  「僕は胸の中でガブリエルにこう言った。〈その資金についてはもう心配することはないよ、ガブリエル。僕はいまこうして君たちのシステムをチェックしている。数日後にはその結果を小林に報告する。報告内容は〔特には問題なし〕というものになりそうだ。だから、小林はすぐにベニートと君に資金を送ってくるはずだ〕〉

          ※

  「あまりにも楽観的だったよ、トゥリーナ」。高野さんは苦笑した。「現実はそんなに単純ではなかった。そのことが僕にはまだ分かっていなかった。…ガブリエルがつづけて、苦々しい口調で〈ベニートとわたしがこのオフィスを開いてからすでに〔半年〕以上が過ぎているのですけど、この間、買いつけ資金がミスター小林から届くのをじっと待っているほかには、何もすることがなくて…〉と言うのを聞くまで、僕は、僕のセブ島での仕事はほとんど終わったのも同然だ、と感じていたからね。

  「僕は〈え、〔半年〕だって?〉と思った。瞬間、頭が少し混乱してしまったよ。だって、トゥリーナ、僕は〈小林は、フィリピンでの買いつけシステムが完成したという報告をパートナーから受けたら、ほとんど時を置かずに、矢部に連絡して僕の助けを求めたはずだ〉と思い込んでいたからね。〈このセブ港のオフィスを含めて、システムが全体として操業できる状態になった、という報告を受けてから数日のうちに小林は、矢部の友人―つまり僕―がマニラにいるという話を思い出して、矢部を通じて僕の助けを求めてきたはずだ〉とね。僕のような人物を見つけ出すのに〔半年〕以上も時間をかけたとは、ふつうは、思わないだろう?」

  わたしはうなずいた。 

  それを見て自分も一つうなずくと、高野さんはつづけた。「でも、実際には…。ガブリエルが嘘を言っているんじゃなかったら、このオフィスは、小林のパートナーがマクタン島のミスター・フェルナンデスを訪問して貝殻見本の輸出のことなどを話し合ったときとほとんどおなじころにオープンしていたんだ。ガブリエルが、小林と始めた〔新しい〕ビジネスに希望を膨らませているようには見えなかったのには、それなりの理由があったんだ。

  「僕は考えたよ。〈小林はなんでいまごろ―半年以上が過ぎてから―システムを調査したくなったんだろう〉〈セブからの貝殻輸入をなんで半年以上も遅らせていたんだろう〉〈セブ港オフィスのガブリエルたちをなんで半年以上もただ待たせていたんだろう〉などとね」

          ※

  「さっき話したように、トゥリーナ」。高野さんはつづけた。「ミスター・フェルナンデスが待たせられていた―半年以上も注文を受けていなかった―理由は分かる、というか、想像がつくよね。ほら、彼は初めから単に、セブ港などのシステムがうまく動かないときに備えた、非常事態の際のバックアップとして考えられていたのかもしれないし、もっと極端なことを言えば、見本を集めて日本に送らせるだけの人物として考えられていたのかもしれないじゃない?

  「だけど、ガブリエルたちのオフィスは…。何と言ったって、このオフィスは、ほかのだれでもない、小林の〔パートナー〕が直接その手で開いていたものだからね。小林は、このオフィスを貝殻の主要な供給源として半年前に操業開始させることができていたはずだよね。…それがどうしても必要だったとしてだけど、システムのチェックも半年前に行なうことができていたはずだよね、何らかの形で。システムがパートナーの報告どおりにできあがっているかどうかを彼に代わってチェックする―僕のような―人物を、オフィスが開かれてから半年間以上も探しつづけていたとしたら、小林はちょっと辛抱強すぎると思わない?

  「僕はガブリエルに、あえて挑発するように〈そんなに待たせられていたんじゃ、君もベニートもおもしろくないだろうね〉と言ってみた。彼はこう応えたよ。〈ええ、やはり。でも、わたしたちの中で一番失望させられているのは、マニラにオフィスを構えてビジネスの開始を待ちつづけてきた、わたしたちのボス、ミスター小林のパートナーですよ。実際、何週間も前のことですが、わたしが最後に電話で話したときの彼女はすごく落ち込んでいるようでした。ミスター小林と以前どおりにはコミュニケーションができない、彼が電話に出たがらない、彼の方からも一度も連絡してこないって〉」  「ちょっと待ってください」。わたしは高野さんの話を遮った。「〔彼女〕って…。その小林という人のパートナーは女性だったんですか」

  「そう。そうだったんだよね、トゥリーナ。僕も、ガブリエルが〔彼女〕と言うまでは、そのパートナーというのは男性だと思い込んでいたから、そのことを知ったときには驚かないわけにはいかなかった。だから、分かるだろう、トゥリーナ? 僕がこれまで〔小林のパートナー〕としか言ってこなかった理由が?あのときの僕の驚きを君にも分かってもらおうと思って、僕はここまで努めて〔彼女〕という言葉を使わずに話を進めてきたんだ」

  わたしは言った。「ミスター小林は矢部さんに、そのパートナーの名前を告げていなかった、ということでしたよね」

  「なぜ告げていなかったのかを僕はもっと考えておくべきだったかもしれないけど、その理由の一部はもう僕らにも分かったみたいだね、トゥリーナ。自分のパートナーがフィリピーナだということを小林は、できれば、知られたくなかったんだ。彼は、たぶん、僕が自分の身元を隠して〔こっそり〕とセブのシステムの調査をする限りは、マニラにいる〔彼女〕のことを僕が知るチャンスはないだろう、と読んでいたんだろうね」

  「でも、どうしてなんでしょう?そんな単純な事実をミスター小林はなんで隠しておきたかったんでしょう?」

  「あの瞬間の僕にもそのことが疑問だったよ。でも、答えは見つからなかった。いや、第六感というの?そういうところでは、システムをチェックしようという彼の動機の中に、実は、後ろめたい何かがあったのではないか、と感じていたけどね」

  「〔後ろめたい〕?」。わたしは高野さんにたずね返した。…なぜか、唐突に、頭の片隅に克久の顔を思い浮かべながら。

          ※

  「ただの勘だったし」。高野さんは答えた。「それが何なのかは僕の頭の中でもはっきりしていなかった。だから僕は、小林が自分のパートナーがフィリピーナであるということを隠しておきたかった理由がいくらか知れるかもしれないと考えて、ガブリエルにこう水を向けてみたよ。〈君のボスはその日本人パートナーとうまくコミュニケーションができないと言ったよね〉。彼は答えた。〈ええ。実際、ボスのエヴェリン…。ベニートの妹のエヴェリン・ノラスコは…〉。トゥリーナ、ここまで来てやっと、僕らは小林のパートナーの名を知ったわけだ」

  わたしはうなずいた。

  「ガブリエルは言ったよ。〈ベニートの妹のエヴェリン・ノラスコは、ミスター小林と電話で声を交わすことさえなかなかできないでいるようです。いつからか、彼の工場の事務員は電話を取り次ごうとしなくなったし、たまたま彼が受話器を取ることがあっても、いまは忙しいといって、長く話そうとしなくなりました。そして、いまでは、エヴェリンからのコレクトコールをミスター小林は拒否するようにさえなっているんです。このオフィスの責任者、ベニートはいま、マニラで、ミスター小林が自分自身で立てたこのビジネス計画に―それもフィリピンでの準備態勢がすっかり整ってから急に―消極的になってしまったことにどう対応したらいいかをエヴェリンと話し合っているはずです。二人には話し合わなければならないことがたくさん、本当にたくさんあるんです〉」

          ※

  それまで会ったことはなかったし、それから出会うこともないはずのエヴェリン―日本人男性とふつうに会話ができずにいるというエヴェリン―にわたしはすっかり同情していた。自分と克久の関係をほかのだれかのだれかとの関係になぞらえるのは好きではなかったけれど、わたしは、エヴェリンが置かれている状況は、多かれ少なかれ、わたしのものに似ているという気がしてならなかった。

  わたしがそんなふうに感じていることに高野さんは、もちろん、気づいていなかった。

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