第22話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

    〜フィリピン〜


     =一九八四年=


        九月  



       〈二二〉



  高野さんはつづけた。「自分たちが陥っている状況の一端を口にしてしまったあとのガブリエルは、むしろ、その先の話を僕に聞いてもらいたい様子だった。彼は、小林とエヴェリンがどういうふうに貝殻ボタンのビジネスをいっしょにやることになったかについて、自分が聞いていること、知っていることを、淡々と説明してくれたよ。それを簡潔にまとめてしまうと…。

  「エヴェリンは小林と日本で出会った。小林はエヴェリンに、ボタン用貝殻を直接輸入したいから協力してくれと熱心に頼んだ。彼女は、経験がないからといったんは拒んだけれども、彼の熱心さに押されて、結局は協力することにした。小林からいくらかの資金を受け取ると、彼女は数年ぶりに日本からフィリピンに戻ってきて、その事業の可能性を調査した。知らない分野だったけれども、二か月間ほど懸命になって動き回った結果、見込みがありそうだという結論に達し、そのことを小林に報告した。報告を終えると彼女は、日本で小林と話し合っていたとおりに、次のステップとして、セブ港のオフィスや自分自身のマニラ・オフィスを開くなどして、貝殻の買いつけ・輸出システムを整えた。セブ港オフィスでは、セブ市内の旅行代理店で働いていた、エヴェリンの兄、ベニートがその仕事をやめて責任者となった。カレッジを出て以来これといった定職に就いていなかった―そういう仕事が見つからなかった―ガブリエルもエヴェリンの仕事を助けることにした。…事業を開始する態勢がフィリピンではすっかり整った。エヴェリンはそのことを小林に報告した。ところが…。小林は〔突然〕態度を変えてしまった。少なくとも、エヴェリンには〔突然〕のことだった。彼女にはその理由が分からなかった。小林にいくら説明を求めても、彼ははっきりした返事をしなかった。やがて小林は、エヴェリンがかける電話に出たがらなくなった」

          ※

  「エヴェリンが何のために日本に行っていたのか、どんなふうに小林と出会ったのかについては、トゥリーナ、ガブリエルは何も言わなかったし、僕からもたずねなかったよ」。高野さんは話しつづけた。「その〔何のため〕とか〔どんなふうに〕とかを言い当てるのはあまり難しそうではなかったからね。そう思わない?」

  「ええ」とわたしは答えた。「フィリピーナが一人で日本に行っていたということなら」。わたし自身と同様の目的をエヴェリンが持っていたことは明らかなように思えたのだった。

  「だけど、その日の夜になると僕は…。小林に代わって彼のシステムをチェックしている―させられている―者として僕は、彼とエヴェリンの関係をもっと知らせられていて当然じゃないか、と考えるようになっていたよ。特に、小林がエヴェリンのことを隠したがっていたらしいことを思うとね。その、隠そうとした動機には〔後ろめたい〕何かがあったんじゃないか、と改めて疑ってみるとね。

  「僕は結局、セブ市内のそのホテルの部屋から矢部に電話をかけてしまった。…小林とエヴェリンの関係を矢部に聞き出してもらおうと思ってね。だって、この仕事はやはりどこかが変だったし、すっきりしていなかったからね。あんな小細工をするのはいやだったけど、僕は矢部に言ったよ。〈小林がしぶるようだったら、〔エヴェリンとの関係をちゃんと知らせてくれなかったら、うまく調査ができない。僕が実はだれのために、どんな目的でセブに来ているかをベニートとガブリエルに話さなければなりそうだ〕と僕が言っている、と彼を脅してみてくれ〉って。…ベニートとは、僕は会ってもいなかったのにね」

          ※

  「矢部からの返事を受けるまでの二日間は、ずっと気が詰まったような感じだったな。時間をつぶさなければならなかったから、二度目のセブ市内観光に出かけて…。今度はセブ動物園や道教寺院、カルボン市場なんか。でも、楽しくはなかった。なぜって、僕は、小林に騙されていたような気がし始めていたから。

  「僕は、小林に頼まれた仕事をやるために、ミスター・フェルナンデスとガブリエルに嘘をついてきていただろう?小林が僕に何か隠していたとすれば、僕はその不正直な人物のためにつきたくもない嘘を彼らについてきていたわけだろう?そういうのって気持ちが悪いよね。

  「さっき言ったように、トゥリーナ、小林は、この調査、このチェックは〔こっそり〕できるだろうと考えていたようだ。僕への〔隠し事〕が問題になるとは、たぶん、考えていなかったはずだ。いや、実際、ガブリエルがあんなふうに―活力を欠いているように―見えなかったら、僕は彼に何かをたずねてみる気にはなっていなかっただろうし、小林のだれかとの関係なんかに関心を持ったりはしていなかったはずだよね。調査終了、ということで、さっさとマニラに引きあげてきていたと思うよ」                 ※

  「知りたかったことを矢部が電話で伝えてきてくれたときには、僕のセブ滞在は六日目になっていた」。高野さんはつづけた。「矢部が伝えてくれた情報は、エヴェリンが〔いったい何のために〕日本に行っていたのか、〔どんなふうに〕小林と出会ったのか、という点について僕が想像していたこと―君がさっき頭に思い描いたはずのこと―とほとんど違ってはいなかったよ。

  「僕よりも君の方がよく知っているように、トゥリーナ、すごい数のフィリピン人がいま日本で働いているよね。シンガーやダンサー、ミュージシャンなどとして。…小林が住んでいる四日市も例外ではなかった。彼はある日、市内の小さなバーでセブ島出身のホステスと出会った。言うまでもないことだけど、それがエヴェリン・ノラスコだったわけだ。

  「エヴェリンは日本語、タガログ語、英語の歌をたくさん知っているだけではなく、なかなかじょうずなシンガーでもあったけれども―小林があとで知ったところによると―ヴィザの分類上ではエンターテイナーではなくて、ただの旅行者だった。数年間つづけて日本に不法滞在している旅行者にすぎなかった。

  「不法滞在をしているあいだに彼女は、とても流暢というわけではなかったけれども、基本的な、簡単な日常会話なら客とできる程度には日本語ができるようになっていた。で、小林がその店を初めて訪れたとき、会話のいとぐちがほしいホステスがよくそうするように、彼女はその日本語で小林に、どんな仕事をしているのか、とたずねたんだ」

  〈先日わたしが、高野さん、あなたにたずねたとおなじように〉とわたしは思った。

  「高級衣類用の貝殻ボタンをつくる小さな工場を持っていて、それを自ら経営しているのだと、小林は事実どおりに答えた。矢部によると、エヴェリンはそこで〈ワア、シャチョウサンデスカ!〉と大きな声で驚いて見せ、それから〈カイガラ ハ しぇるノコトデショ?〉と言った。なぜか、街角で見かけるガソリンスタンドのサインを思い出しながら、小林がそうだと答えると、エヴェリンは〈ワタシノほーむたうん せぶニハ カイガラ イッパイアルヨ〉と言った。小林は〈ああ、ありそうだね〉と答えた。エヴェリンはさらに〈アソコ カイガラ ヤスイヨ。シャチョウサンガ ジブンデイッテ ジブンデカエバ ヤスクカエルヨ。ウントモウカルヨ〉とつけ加えた」

          ※

  「小林は〔シャチョウサンガ ジブンデイッテ ジブンデカエバ〕というアイディアはおもしろいと思ったけれども、それ以上には受け取らなかった。彼はエヴェリンに、自分は外国語が何一つ話せないし、国際貿易も自分の手ではやったことがないから、彼女が言うように簡単には買いつけられないに違いない、と答えてから、冗談めかせてこうつけ加えた。〈俺はひどい外国語恐怖症で、ほかでもない、そのために、四十年近く生きてきたというのに、まだ日本を出たことがないぐらいなんだ〉。〈キョウフショウ?〉とエヴェリンは首を傾げた。〈だから、英語だとか外国語だとか聞いただけで、怖くて体が震えだす病気のこと〉と小林は笑いながら答えた。

  「エヴェリンは小林のその答えをすごくおもしろがった。おもしろがって、〔フィリピンに行って自分で買いつければ〕というアイディアを持ち出したことは忘れてしまったように、話題を小林の〔キョウフショウ〕に変えていった。…そんなふうだったから、エヴェリンのそのアイディアは小林の頭からすぐに消え去ってしまったし、そのあと小林が彼女の店を訪ねたときも、二人が彼のビジネスのことを話すことはなかった。

  「それから何か月か経ってからのこと…。その店のママの話からたまたま小林は、エヴェリンが大学を出ていることを知った。しかも、エヴェリンと直接話してみると、彼女は大学を卒業したあとしばらくは、マニラのある食料品問屋で働いていたということだった。彼女自身はその問屋でただ経理を担当していただけだったけれども、会社自体は、いろんな種類のチャイニーズフードを直接、定期的に香港から輸入していたんだ。小林はたちまち〔シャチョウサンガ ジブンデイッテ ジブンデカエバ〕という話を思い出した。

  「小林はエヴェリンのアイディアを真剣に考えるようになった。〈〔自分で〕では無理だろうけど、向こうの言葉をしゃべる、大学を出ている、いくらかは貿易に触れたことがあるエヴェリンが助けてくれれば、貝殻の直接輸入が自分にもできるかもしれない〉と思い始めた。

  「小林はエヴェリンに、ボタン用貝殻を自分の手で直接輸入したいから手伝ってほしい、と頼むようになった。間もなく、彼は、フィリピンのどこか―たぶんセブ―に自分のボタン工場を持つことさえ将来はできるかもしれない、とまで夢見るようになり、そんな未来像をエヴェリンに語るようにさえなった。

  「そんな小林の変わりようについて、矢部はこうコメントしたよ。〈小林は、もっと利幅を大きくしたい、という考えにだけではなく、この際、できることなら、〔国際ビジネスマン〕になりたい、という考えにも取りつかれていたんじゃないかな。いや、これは、彼のことを長く知っている僕の想像だけど、〔国際ビジネスマン〕というのは彼の目には〔周囲にたくさんいるただの小工場主の一人〕よりもずいぶん体裁がいいように見えていたはずだよ。〔外国語恐怖症〕からの大飛躍でもあるし…〉」

          ※

  「小林に〔ウントモウカルヨ〕と薦めたのは単なる〔その場の思いつき〕にすぎなかったのだろう、彼の頼みに彼女は、初めは真剣に耳を傾けなかった。〔そんな仕事が自分にできるとは思えない〕というのが理由だった。それでも小林はあきらめなかった。エヴェリンの店に行くたびに、彼の夢を語りつづけた。数か月後、エヴェリンは小林を手伝う気になっていた。…エヴェリンの変化については、矢部はこう考えていたよ。〈小林の夢を聞いているうちに、エヴェリンも彼女自身の夢を見るようになったんじゃないかな。それも、すごく大きな夢をね〉」

  高野さんはそこでしばらくためらった。

  そのためらいの理由がわたしには分かる気がした。

  あの人は言った。「僕は矢部に〈エヴェリン自身の夢?〉とたずね返した。矢部はこう答えたよ。〈小林の仕事を手伝えば、日本に不法滞在しているバーのホステスという、長く親しんできた自分の境遇から抜け出せるんじゃないか、という夢。過去数年間の自分を清算して、母国で正真正銘のビジネスウーマンとしてやっていく、という夢。彼女には大きな夢だったと思わないか?〉」

  高野さんはそこでまた間を置いた。

  あの人が話を先に進められないでいるわけがわたしにはもう分かっていた。…分かっているはずだった。

  あの人はやっと口を開いた。「矢部はつづけた。〈やがて、エヴェリンと小林は一つの夢を分け合うようになった。…異なる二つの立場からね〉」  間違いなかった。高野さんは、小林とエヴェリンが見ていた夢の話を矢部さんから聞いていたとき、ほかでもない、あの人とメルバのあいだにあったこと―二人にもおなじように〔異なる二つの立場から〕一つの夢を分け合ったことがあったこと―を思い出していたはずだった。矢部さんの見方をわたしに伝えながらも、あの人は、自分がメルバと分け合った夢のことを頭の片隅で思い返していたのに違いなかった。

  そんなふうに考えながら、わたしは一方で、克久のことを思い浮かべていた。〈克久とわたしも何か夢を分け合っていたのだろうか。…異なる二つの立場から?〉とぼんやり自分に問いかけていた。

          ※

  高野さんはつづけた。「矢部によると〔小林には、彼を助けて工場を動かしている、なかなか働き者の実直な妻がいるのに〕エヴェリンと小林は最後には〔一つのベッドを共にする〕仲にもなったらしい。…小林はその妻に、エヴェリンのことを〔パートナーとなるフィリピン人男性のアシスタント兼通訳〕だ、仕事の話はすべて彼女がその〔男性〕に代わってすることになっている、と説明しているらしいよ。

  「それとおなじ説明を僕にしても、現実にセブを訪れる僕には嘘がばれるかもしれないと危惧して、小林は、僕には結局彼女のことを隠しておくことにしたのだろうけど、とにかく、小林には、さっき疑ったように、やはり〔後ろめたい〕何かがあったんだ。いや、エヴェリンという〔愛人〕がいるという事実だけではなくて、むしろ、ほら、ほかでもない、トゥリーナ、その〔愛人〕からの〔ちゃんと仕事をやった〕という報告を疑って、彼女のシステムをだれかに〔こっそり〕チェックさせるという…。小林はたぶん、自分が疑っているということを〔愛人〕エヴェリンに知られたくなかったんだね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る