「呪地」

高ノ宮 数麻(たかのみや かずま)

第1話 「死」の始まり

 俺が入院している病院の患者達は、皆さまざまな事情でここにいる。重い病気で余命わずかの者もいれば、交通事故で足を骨折した者、検査のために入院している者もいる。


 俺がここにいる理由は残念ながら「余命わずかの者」だからだ。くそったれのヤブ医者が言うには、俺はあと3日で死ぬらしい。原因も治療法も分からない奇病だというが、それは違う。俺が死ぬのは原因不明の奇病だからじゃない。俺はある女に「呪われた」から死ぬのだ。


 1か月前、俺が働いている不動産会社の事務所に一本の電話が入った。うちの会社で管理しているアパートの住人からの電話だった。不動産会社には管理物件の住人から苦情や要望の電話が割と頻繁に入るのだが、その住人からの電話はそれらの類ではなく、ちょっと奇妙なものだった。


 「両隣の部屋がうるさくて眠れない。何とかしてくれ!」その住人は電話口でそう叫ぶと、すぐに電話を切った。これはよくある苦情の中でも最もポピュラーなものなのだが、奇妙なのはそのアパートには、その住人以外、誰も住んでいないということだ。


 俺はすぐに電話があったアパートに向かった。その住人が住むアパートは築40年を超える木造で、本来は建て替えしてもおかしくない時期だ。しかし、アパートのオーナーはこの建物に相当の思い入れがあるらしく、うちの会社が建て替えの提案をしても一向に首を縦に振らなかった。


 住人の部屋は202号室。このアパートは2DKの部屋が1階に3部屋、2階に3部屋、計6部屋のこじんまりとした建物だ。ところどころ錆びついた階段を昇っていくと、ギシッ、ギシッと、大きく軋む音がする。202号室の前、インターフォンもチャイムもないので、ドアをコン、コンとノックする。数秒間待ったが、何の反応もない。もう一度、コン、コンとノックした。すると、「カチャッ」と解錠する音がして、ゆっくりと少しだけドアが開いた。


 ドアの隙間から顔を出した住人を見て、俺はぞっとした。住人の顔は鮮やかと言ってもいいほどの青白さでやせ細り、その目はくぼみ、眼光だけが鋭く俺を凝視していた。


 「えっと…、白川さん…白川達郎さんですよね?」 俺はまず住人に本人確認をした。だが男には一切何の反応もない。もう一度、声をかけようとした瞬間、その男は俺の両肩をわしづかみにし、「早く、早く何とかしてくれ! 今も、今もなんだよ!」と大声を上げた。


 俺は男の手を振り払い、「まずは、状況を教えてください!」と男を諌めるように尋ねた。すると男はゆっくりと話し始めた。男によれば、その音が聞こえ始めたのは3か月ほど前、仕事が終わり帰宅した午後9時ごろ。初めは風か、老朽化した建物特有の軋みだと思ったらしい。

 

 その日、自宅に帰った男は冷蔵庫から缶ビールとつまみのソーセージを出して、まずはビールを一口、そしてガブリとソーセージにかじりついた。すると、これまでかすかに聞こえていたキシ、キシとういう音が突然、まるで大地震に揺られたときに発せられる音のように、ガタガタガタと大きく鳴り響き始めた。男は、隣の部屋で改修工事か何かを始めたんだと思い、玄関を出て隣の部屋「201号室」をノックした。するとその音はピタッと止まり、玄関のドアが開くと、長い黒髪の20代位の女が出てきたそうだ。


 「工事をするのは構わないけど、夜はダメだろう! それに工事の期間とか事前に…」男がそこまで言ったとき、それまで黙って聞いていた女が急に大声で怒鳴ってきた。「お前かあ! 私を殺したのは!」 あまりの大声と女の形相に男はビックリして腰をぬかし、這うようにして自分の部屋に戻った。その日はそれ以降、大きな音は聞こえなかった。ほっとした男だったが、だがその翌日にはさらに驚くべき事態が起こる。


 翌日、男が部屋でくつろいでいると、昨晩のような小さな物音が聞こえ始めた。「まさか、また今日もじゃないだろうな…」だが、男の危惧したとおり、またあの轟音が鳴り響き始めた。ただ、ここで男はちょっとした違和感に気付く。この轟音、昨日は201号室から聞こえていたが、今日はその逆、「203号室」から聞こえていたのだ。男は少し躊躇したが、意を決して203号室のドアをノックした。


 すると203号室のドアがゆっくりと開き、そこから出てきたのはなんと昨日、201号室にいたあの「女」だったのだ! 「あ! あ! うあああ!」男は驚き、慌てて自分の部屋に逃げ帰った。


 男が言うには、その日から2週間、一日中あの轟音が両隣の部屋から鳴り響き続けているという。


 ここまで男の話を聞いていた俺は、「どちら」が原因なのかを考えていた。「どちら」というのは、ここまでの話が「男の妄想」なのか、両隣の空き部屋が何者かに不法に占拠されているかの「どちら」という意味だ。


 俺は持参してきた鍵を使って、201号室のドアを恐る恐る開けた。がらんとした室内。人の気配も、何かの工事をしていた形跡も一切なかった。一応、室内を点検してみる。二つある和室、押入れ、風呂場、トイレ、どこにも何も見つからなかった。


 その後、203号室も点検してみたが、やはり何の痕跡もなかった。俺は、もうほぼ「男の妄想」だと確信した。再度202号室を訪ね、男に両隣の部屋に異常がなかったことを説明した。すると男は、がくりとうなだれ、泣き始めた。直後、ガバッと急に起き上がると、また俺の両肩を握りながら、「あの女の声が! あの女の声がずっと聞こえるんだよ! お前だって聞こえてるだろう!」 俺が男の手を振り払うと、男はその場で座り込みながら嗚咽していた。

 

 少し怖くなった俺は、半ば逃げるようにそのアパートを後にした。202号室の住人、白川達郎が部屋で亡くなっているのが発見されたのはそれから3日後、連絡が取れないのを心配して部屋を訪ねた白川達郎の姉だった。白川達郎の死因は、生きながら全身が腐ってしまう原因不明の奇病、「腐食病」だった。

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