夏を待つ

くろかわ

夏を待つ

「この、」

 穀潰しが、と怒声。憤激に任せた緩慢な拳を、しかし避けることなく受ける。

 半歩下がりつつ受けて、衝撃を殺す。

 派手に吹き飛びながら、面目を保つ。

 四つん這いになって、謝罪を漏らす。

「申し訳御座いません」

 父の怒りを収めるには最も手っ取り早い言葉を放つ。否、これしか口にする事は許されていない。

「貴様、我が家がかの名将、武田の家臣を先祖に持つ家の、その長男としての自覚はあるのか!」

「旦那様、もうおやめ下さいませ」

「あなた!」

 再びこちらに歩み寄ろうとした父は、使用人や母に止められる。

 大切なものを踏みにじられた時、人は怒りを覚える。だから、父の憤懣、やるせなさは把握に易い。

「お国の為に死ぬどころか、働きすらできんのだぞ! 恥と思わんのか!」

 戦火は本土間際に迫っている。だから、私のような子供をも駆り出そうとするのだろう。

 父の怒号は止むことなく、私は頭を畳に擦り付けたまま、早春に薫る花の風を聞いていた。


 ──日本国民進め一億総火の玉だ──

 ──本土決戦にて迎い撃てば必ず──

 学童疎開の受け入れ先としてそれなりに賑わいを見せるこの街では、大本営発表が今日もけたたましく鳴り響く。朝の慎とした涼やかさを感じられなくなってどらくらいだろうか。

 この国は、どこもかしこも鉄臭い。

「麟太郎」

 背中をドンと叩かれる。振り向かずとも足音で判ったが、人は出鼻を挫かれると面食らうらしい。だから、声を掛けられるまで待つ癖が付いた。

「あー……橘君」

 橘啓一は露骨に顔をしかめ、

「おいおい、それはないだろう」

 よもや、と訝しむ彼。

「学徒動員の健康診断で落とされたのが、そんなに堪えている、なぁんてことはあるまいな?」

「違うよ、啓一。置いてけぼりを食った君と、親の七光で戦争に行かずに済んだ私とで並んでちゃ、君に悪い」

 歩を進める。

 すぐに追い付かれる。

「お前の親父さんがそんなことをするわけなかろう。大丈夫だ、そんなこと言うやつは俺が拳骨喰らわせてやる」

 大きな拳を見せて、呵呵と笑う。

「な、麟太郎」

「なに、啓一」

「今日は身体の調子はどうなんだ」

 半歩前から真剣な眼差し。

「いつも通り。悪いわけじゃない」

 そうか、と大きな口から歯が覗いた。


 校庭の片隅、日陰に座り込む。

 私の定位置。戻って来てしまった場所。

 同期の皆が木刀を振り回す様を眺める。見上げる桜はまだ蕾のままで、いつ綻ぶだろうかと待ち遠しい。しかし、咲かば散らざるを得ない。ならいっそ、固く結んだままでも良いのかもしれない。山肌に植わっている果実の木もまだまだ咲かず、あれは確か夏の花だったかと思い返す。

 無駄な思考で時間を潰す。校庭の向こうには汽車の路線が走る。ほとんど行き交う事のない汽車。前に見たのは、兄を見送った時だ。その後すぐに私が乗り、そしてまた戻って来てしまった。

 今の戦争に刀が役に立つとは思えない。戦国時代ですら主力は弓と槍だった。銃剣術なら何とか使い物になるかもしれないが、そも弾の足りない戦況そのものが敗北だろう。

 戦争は体力だ。国家の体力。耐久性。兵站。補給。人員。一億で燃えて尽きたら、この国はその後どうするつもりなんだ。

 へばる大多数の生徒を尻目に、幾人かは未だ元気だ。その中には啓一もいる。

(何話してるんだか)

 楽しげとは言えない雰囲気が漂っている。教師は自主練習せよと告げてどこかへ行ってしまったきりだ。

 大人はそういうものに見えてしまう。一括りにしては可哀想だが、半人前の目にはそう映る。我ながら視野の狭い。情けなくなる。

 溜息。

 知らずの内に掌をじっと見つめていた。無意識に撫でていた草の匂いにくすぐられる。

 聞き慣れない足音が迫る。鼻息荒く、と言うやつだ。

「おい、お前が鳥雲麟太郎か」

「そうです。私に何か」

 あるのだろう。無ければ声などかけまい。見上げれば背丈は啓一よりも少し小さいくらいの男。かなり大柄だ。私とは頭一つ違うだろう。

 確か、疎開組の一人だ。汽車の中で見た覚えがある。向こうはどうやら忘れてしまったようだ。

「お前みたいな青瓢箪が、本当にこの学校で一番強いのか?」

「それは、」

 場合による。物の見方による。

 例えば、十人を順番に相手にすると考えて、だ。

 例えば、十秒で三人を斬り伏せたとしてその後疲れ切ってしまったら、四人目に斬り殺される。

 例えば、十分かけて十人倒せるなら、前者に速さこそ劣るがこちらのほうが『強い』だろう。だから、

「橘君が上だよ」

 応じる。

 その答えが気に入らなかったのか、大柄な青年は

「その橘が、てめぇの方が上だっつったんだ。どっちなんだよ」

「おい梶川。麟太郎は身体が強くない。剣の相手なら俺がやる」

 梶川と呼ばれた大男の肩を、それより更に上背のある啓一が掴む。

 睨み合いだ。

「梶川君。啓一に勝ったら君がここで一番だよ」

 麟太郎、と弱々しい、困惑したような、やるせないような、そんな声色。わかりやすい人。

「なんだお前ら、おれとやるのが怖いのか」

 まぁ、そう取られても仕方ない。

「まさか、そんなわけなかろう」

 眼光が更に鋭さを増す啓一。

「本当か? 親のコネで徴兵を免れた腑抜けと、そんなやつを盾に逃げようとしたお前が?」

 挑発的な言葉だ。なら、

「貴様、そんな根も葉もない噂を、」

「啓一。私がやるよ」

 立ち上がる。身長差は明らかで、拳で殴り合ったらひとたまりもないだろう。だが、こいつは剣の……どっちだ?

「なぁ、梶川君」

 木刀を受け取る。木刀か。気を付けないと危ないな。

「なんだ、青瓢箪」

「これは試合? それとも喧嘩?」

 へッ、と鼻で笑う彼は、手に持った木刀を大上段に構え、

「喧嘩だよッ!」

 振り下ろそうとする彼の言葉を確認してから、一歩踏み込む。逆手に持った木刀の柄で鳩尾に一撃。そのまま切っ先で足の甲を突く。あとは半身を逸らしながら後ろに回り込み……まぁ、喧嘩ならこれで良かろうと、胴薙ぎも頭蓋への一撃も止めた。骨は砕いていない。精々腫れが少し残る程度だ。

 梶川君は木刀を振り下ろしざま、呻き声を上げながら前に倒れ込む。最後まで緩慢な動きだった。

「喧嘩だから、一本取る必要は無いよね」

 あれはあれで面倒なのだ。大声を出すのは苦手だし、決まった型で打ち込まなくてはならない。

 やはり調子は良くない。風切音が鈍い。

「麟太郎、お前」

「大丈夫だよ、啓一。深刻な怪我はさせてない」

 そうじゃないんだがな、と溜息をつかれてしまった。

 周りがざわつき始めた頃に、教師が走って戻って来る。その表情もまた、複雑だった。


 昼の一件は喧嘩両成敗、お咎めなしと落ち着いた。ただ教師に、またかと呆れられただけだ。

 解放されたのは夕時になってからだ。校舎の扉を引くとそこには、

「待ったぞ」

「啓一」

 何も待たなくとも。

「お前は怒るといつもこうだ。まったく」

「君が誰かを理由に逃げるわけがないだろう」

「俺は逃げん。だから、あの喧嘩も俺が買えば良かったんだ」

「私にだって怒る理由がある」

「解る。解るが、俺の溜飲を下げる矛先が無くなったのも事実だ」

 ふ、と二人で笑う。

「ごめんよ。次は啓一がやってくれ」

「無理だろうな。あいつ、すっかり震え上がってたぞ」

 悪童二人で声を上げて。

「帰ろう」

「応とも」


 朝にかげろう霞か雲か、ここは少し標高の高い位置にある。明瞭な区別は付くまい。野にも山にも、雲雀の声が響き渡る。春はもうすぐだ。

 春。

 去年を思い出す。

 兄が出兵したのも去年の今頃だった。

 兄は立派な人だった。学が立ち、走るのが得意で、弁も滑らか。快活な性質は啓一を始めとした後輩達に好かれていた。

 見送りの際には、幾人もの人が先行く列車に手を振ったという。

 私は、その場に居合わせられなかった。熱を出し、伏せっていたのだ。薄弱な身体に心労が重なったのだろう、と医者は言ったそうだ。

 散ってしまった梅をくぐる。山肌が白い花で着飾っていた頃はまだ、兄からの便りがあった。

「あら」

 門をくぐれば、

「お早う御座います」

 義姉がいた。

「今朝は有難う御座いました」

「あら、これから毎日言うんですか?」

 くすり、と悪戯っぽく笑う。

 兄が帰ってくるまで、離れで暮らすことになっていた。そして、数日前に父の怒りを買った私も同じだ。

「美味しかった、と毎日言われるのはお嫌ですか?」

「まあ、意地悪な人」

 柔らかな笑み。

 暫し、鳥の声だけを聞く。郵便の自転車が走り去って行く。会釈は三つ。今日も素通り。

「……冷えては身体に毒ですよ」

「……ええ……はい。……はい」


 離れの戸を開き、義姉を中へと誘う。三和土の上でふと、彼女が口をついた。

「その、学校というのはこんなにも早くから始まるものなのですか?」

「いえ、私が好きで早くに行くんです」

「冷えては身体に毒ですよ?」

「それは、」

 その通りなのだが。苦笑しか返せない。

「何か理由があるんですね」

「独りの時間を作りたくて」

 もう、と彼女は目を逸らして、

「勝手な人。康洋さんとよく似てらっしゃる」

「勝手、ですか」

 思いもかけない言葉だった。

「だって、わたしを独りにはしてくださらないじゃありませんか」

「それは──」

 それは。

「梅が、いつ散ったか覚えておいででしょうか」

 押し黙る。言葉を繋ぐ。

「兄さんが帰って来た時に、あなたがいなかったら寂しがりますよ。だから、」

 何もできないから、せめて繋ぎ止めておきたい。帰って来る場所を。それがどんな形であれ。

 口には、出さない。出せない。薄っすらと、お互いに理解している。けれど、言葉にはしない。できない。認めたくない。認めざるを得ないその時まで。

「有難う御座います。康洋さんも優しい人でした」

「兄さんは、優しい人ですよ」

「……はい。優しい、ですね」

 己の弱さに胸が軋む。罪悪感と無力感に苛まれる。

 静寂を割るべく時計が鳴る。

「すみません。行きます」

「はい。行ってらっしゃいませ。今年こそは、」

 一緒にお花見しましょうね、と笑ってくれた。


「今朝は遅かったな」

「菊義姉さんと話し込んでしまってね」

 清冽な空気。畳の匂い。竹刀を持って向き合う。

「……いいのか啓一」

「ああ。二刀本気で来てくれて。頼む」

 厳めしい、というよりも重苦しそうな防具を着込んだ親友と向き合う。こちらは道着だけだ。着たら、重くなったら重くなっただけ弱くなる。だから、本気で頼むと言われたからには、腕の一本も折られる覚悟で臨む。

 教師にばれたら、さぞ大目玉を食うだろう。防具も付けずに打ち合いだ。しかもこれは、試合ではない。

 両腕をだらりと下げる。相対する啓一は青眼。傍目からすればふざけているように見えるだろう。

 左足が動いた。踏み込み、突き。真っ直ぐ、愚直に。

 違う。切っ先がやや高い。面か袈裟。雑念ばかりで弱い私とは対照的な、明確な意志の剣。それを、精確に、正確に、今し方醒覚したばかりのような剣で逸らす。

 上へ。

 誤導の突きから本命の上段への移行に伴い、私という余計な力の加わった竹刀は天井まで吹き飛ぶ。隙だらけにした喉元に拳を突き込む。

 喉を潰され声を漏らすこともできず吹き飛んだ啓一は膝をついて『待った』の手をかざした。

 決着だ。


「珍しい」

「ん? ああ。どのくらいまで上達したかと確かめたくてな」

 着替え、何食わぬ顔で教室に入る。喧騒がそこにはある。大本営放送のような、張り詰めた騒がしさではなく、弛緩した心地よさがある。

「困ったよ。二刀でなければ長引いていたと思う」

「長引いていた、か」

「そうなればどうなったか」

「だが、長引かなかった」

「今回はね」

 次はどうだろうか。練習の成果は着実に実っている。

「そのうち私じゃ敵わなくなるさ」

「そのうち、ね」

 いつになく口数が少ない。

「啓一」

「心配するな」

 ああ、くそ。

 そのうちに教師がやって来て、啓一が名指しで呼ばれる。

 万歳三唱の間、唇を噛み締めることしかできなかった。



 夕暮れまで、特に語る事なく校庭の隅に居た。

「花見くらいはできるかな」

「そいつは無理だろうなあ」

「……そうか」

「なあ、麟太郎」

「嫌だ」

「まだ何も言ってない」

「……今度は、四人で花見したい」

「……そうだな」

 見上げる。綻び始めた花。そろそろ咲くのだろう。咲いたら、散る。


 その日の夜、私は久しぶりに高熱を出し、倒れた。

 起きた日はよく晴れていて、遠くからは万歳、万歳と悲鳴のような声が上がっている。熱に浮かされ現実感の無い私の元に、桜の花びらが一枚、ふわりと落ちた。

 鮮やかな、花の香りがした。

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夏を待つ くろかわ @krkw

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