「こんな場所まで用意されているなんて、流石と言うべきなのかしら」


 コンクリートがむき出しの、薄暗く、だだっ広い部屋に招かれた有栖川。

 その面積たるや地上の香坂家を遥かに凌駕している、地下室。


「ここでしたら、どれだけ暴れようと音は漏れませんし、崩壊することもありませんので安心してください」


 とある厄祓いの力で作り上げられたこの場所は、我が家の地下に位置しているものの、外界とは完全に隔離された空間。町一つが消し飛ぶような力を行使しても問題ない、安心できる場所。

 裁く側にとってはこの上なく完璧に安心で、安全で。

 けれど、だからこそ、裁かれる側の有栖川にとっては、この上なく完璧に絶望で、滅亡で。


「まあ私のように華やかな人間の死に場所としては寂しいけれど、花を添えるという意味では……」

「無理するなよ」

「――っ。何を言っているのかしら、香坂君。私は……」

「怖いときは、怖がればいい。……泣きたいときには、泣けばいいんだ」

 

 震える身体を必死に押さえつけて。

 震える声で気丈に振舞って。

 そこまでして『有栖川』であろうとする彼女に、最後の最後まで人間であろうとする彼女に、敬意を示さずにはいられない。

 だったら、人間らしく、感情をむき出しにしたっていいじゃないか。

 気づいたら厄なんてものに侵されていて、殺人衝動なんてものに襲われて、それでも堪えて、馬鹿言って、今も一人で戦っている彼女を。


「香坂君……私、怖い」


 俺は、抱きしめる。


「自分が自分じゃなくなっていく感覚が」


 有栖川も、きつく抱き返す。


「そして、死が」


 爪が、皮膚を貫くほどに、きつく。


「けれど、ありがとう」


 顔を上げ、俺を見つめる彼女は……


「わたしに、殺されてくれて」


 もう、有栖川ではなくなっていた。


「ぐっ……」

「兄さん、離れて!」


 背中が抉られる感覚と共に、眼前が赤く燃え上がる。

 迸る激痛に、思わず膝をつく。炎はすぐさま消え去り、俺の目の前には美衣ちゃんが、有栖川と……いや、『吸血鬼』と対峙していた。


「あぁ……なんて美味しいのかしら、あなたの血」


 俺の血で染まった指を、至極の食材の如くじっくりと艶めかしく味わう。

 その姿は、異性であれば誰しもが目を奪われるほどに美しい。

 背中の激痛さえなければ、だけれど。


「動けますか、兄さん」

「……ホイホイに捕まったGくらいには」

「下らない冗談を言えるのであれば大丈夫ですね。巻き込まれないように、いつも通り地面に這いつくばっていて下さい」


 言い終わるよりも早く、美衣ちゃんの髪が燃え盛る。

 そう錯覚するほどに、黒い髪が朱く紅く色を変える。

 これこそが、彼女の厄祓いとしての力。すべてを滅却し得る、紅の炎。

 俺が厄をおびき寄せ、美衣ちゃんが焼き尽くす、完成されたツーマンセルの形。

 けれど今日は、今日だけは完成は許されない。


「ダメだ、美衣ちゃん。あいつを殺すのは、ダメだ」

「何世迷いごとを言っているんですか⁉ もう彼女は助かりません! 無能な兄さんでもそれくらいは分かるでしょう⁉」


 当たり前だ。引き裂かれた背中が、その痛みが、嫌というほど現実を突きつける。

 彼女はもう人間ではないと。

 吸血鬼、なのだと。


「それでも、だ」

「どうしてそこまでっ……」

「だって、泣いてる」

「……え?」

「有栖川、泣いているんだ」


 鋭く伸びた爪も、金色に輝く瞳も、不敵に笑うその顔も、何もかもが吸血鬼に乗っ取られているけれど。

 頬を伝う、一筋の涙だけは、きっと有栖川のものだ。


「だったら、俺は諦めない」


 たった数時間の付き合いでしかないけれど。

 命をかける理由としては、圧倒的に時間が足りないかもしれないけれど。

 けれど、俺には、かける命だけは無数にある。


「だから、協力してくれ、美衣ちゃん」

「はぁ~、これだから兄さんにはエサ役に徹して欲しいんですけれど」

「わがまま言ってごめんな」

「いいですよ。兄のわがままを許すのが妹の矜持というものですし」


 それは兄として反論したいところではあるが。


「それに、そんな兄さんだから、大好きなんですよ」

「俺も愛しているよ、美衣」

「……呼び捨ては許さないって、何度も何度も」

「ああ、ごめんなさい美衣ちゃん!」


 謝るから髪を逆立てるのは止めて!


「それで、どうするんですか? もちろん考えがあって、彼女を助けるって言っているんですよね」

「当然だ。……が、その前に一つだけ確認させてくれ」


 ただの仮説を真実へ置き換えるために。


「吸血鬼の、純血と混血の違いについて」


******


「……本気なんですか? 兄さん」


 俺の知識で絞り出した作戦は、妹にとって信じ難いものだったようで。


「仮にその仮説が正しかったとして、兄さんは何回殺されるつもりなんですか」

「……出来れば一桁で済むといいよな」

「本当に、呆れるくらい馬鹿で、阿呆ですね」


 自覚してるよ。救いようがない人間だって。

 救いようがないのに、他人はなんとしても救いたがるなんて、本当に救いようがない。


「それで、やってくれるのか?」

「美衣がこれまで兄さんに反対したことがありましたか?」

「……結構あるな?」


 というかほぼ毎日だろう。どうして、決まったぜと言わんばかりのしたり顔で居られるのか甚だ疑問でしかない。


「それはほら、厚顔無恥ってやつですよ。知らないんですか?」

「まるで俺の知識不足を嘲笑うかのような発言だが、今笑われるべきはお前だ!」

「さ、緊張もほぐれたようですし行きましょうか。吸血鬼さんも血が欲しくて欲しくてウズウズしていますよ」


 そうだ。こんな無駄なコントを見せつけている場合じゃない。

 視線を正面に戻すと、吸血鬼はさっきの場所から動かずに、動けずにいる。

 それも全ては美衣ちゃんの実力によるところ。彼女の力はとてつもなく格が高いらしく、並大抵の厄では役不足なのだそうだ。

 それ故に本能が危機を察知する。下手に動けば殺されるのだと、警鐘が鳴り乱れる。


「お待たせしました、吸血鬼さん。思い残すことの無いよう、思う存分暴れて下さいね?」

「幼女風情が、調子に乗るんじゃねえ!」


 有栖川の声も、口調も、面影も失われた言葉を皮切りに、両雄は一気に距離を詰める。美衣ちゃんは短剣を携えて。有栖川は牙と爪を剥き出して。

 一秒にも満たない瞬間で両者の距離は無くなり、けれどそのままの速度で再び距離が広がる。

 立場を変えて、向かってくる。


「殺す殺す殺す殺す!」


 勝てない妹には立ち向かわず、ただただまっすぐに俺の方へ。

 気づけば既に懐に潜り込んだ吸血鬼に、俺は唇を噛み切った。

 鉄の味が、口中に広がる。


「あぁ、お前は最高の食事だ……」


 悦に浸り、俺の首筋に牙を立てる彼女に、


 彼女の、血が滴る首筋に、


 仕返しとばかりに、俺も口付ける。


『兄さんの想像通り、純血と混血には大きな違いがあります』


 有栖川の首筋に残された『切傷』から、俺の『切傷』を通して、血が混じる。


『純血は厄を他者へ付与できますが、混血の厄は他者へ移るのみです』


 混じった血を通じて、彼女の血が、厄が、入り込んでくる。


『つまり、彼女の厄を兄さんに移すことは、可能性としては十分です。特に――』


 特に、厄に好かれる俺であるならば。

 徐々に自身の中で違和感が増大していき、それが頂点に達した時、噛みついていた有栖川の力が抜け地面に倒れこむ。

 解放されるや否や、俺は彼女が巻き込まれないように距離を取る。

 後は俺が助かるだけだ。


「美衣ちゃん!」

「合点です! とっとと死んでくださいね、兄さん!」


 おおよそ救世主とは程遠い台詞と共に、俺の身体は激しく燃え上がる。


「さぁ、根比べといこぜ、吸血鬼さんよ!」

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