6. 病

 スズが病を患った。はじめに気怠さを感じたらしい。そして時折咳が出るようになり、熱もあるようだった。タクミは彼女を不安にさせないよう努めて軽く、風邪のようだからしっかり休んで早く治すようにと言って、普段からポーチに入れて持ち歩いている市販の風邪薬を渡した。少女が寝室に入ってから、彼は頭を抱えた。異世界に迷い込んだ者が直面する現実的な困難は衣食住と言葉で、自分たちはそれらの問題をクリアできたと思っていた。甘かった。衛生と医療技術が未発達であったら、病気は命に関わる。この世界には彼らにとって未知の病気があるかもしれない。今の所食べ物で腹を下したということはないが、元の世界にはいなかったような病原菌やウイルスがいるとすれば、彼らには免疫がない。熱は多分それほど高くはなかったし、本人もあまり辛そうにはしていなかったが、どうしても不安を拭えなかった。

 異世界ってなんだよ、と思った。この世界の食べ物で腹を下さないし飢えることもなかったから、ちゃんと消化できるものだったのだろう。この世界の住人たちも、今まで見たところでは元の世界の人間と区別がつかない。まるで、元の世界と地続きのようだ。けれど、ここには魔法という謎技術があった。そうだ、魔法、魔法があるなら、魔法の薬があったっていいじゃないか、と淡い希望を抱いたりもしたが、予め断っておくとそんなものはなかった。窓の外を見やれば平和そうな青空が広がっている。この世界には人々の生活を脅かすモンスターや魔物もいなければ魔王軍だって攻めてこないし、他国への侵略を図る強大な帝国、世界を操る秘密結社や暴政を敷く悪徳貴族の類いすらいないらしい。悪者がいなくたって、世間が平和だって、現実的な問題というのは容赦なく襲ってくるのだ。


 朝食後にスズが体調を崩したかもしれないと言い出した時にはタクミは呼吸が浅くなって血の気が引いていくのを感じた。見た感じでは特に前日までと変わりはないようだった。症状は微熱があって少し咳が出るだけだったから、風邪のように思えたし、ただの風邪でありますようにと祈るような心持だった。彼は市販の薬や液状絆創膏、手鏡、マスクなどをポーチに詰めて、仕事鞄やバッグに入れて持ち歩いていた。彼の周りの男連中にはポーチを使う習慣もなく、オフィスで彼がリップクリームを取り出して塗っていたら同僚にコスメポーチかよと言われたこともある。その中から風邪薬を取り出して少女に渡して、軽い風邪だからと油断せずきちんと暖かくして寝てちゃんと治すようにと言った。

 すぐさま医者を呼ぶように頼んで、午後には往診があったのだが、やってきた街医者は軽く脈を取っただけで、安静にして消化にいいものを食べるようにと言って帰っていった。少女から見たら彼の慌てぶりは過保護に映ったかもしれない。少女が体調を崩したこと、医者を呼んで欲しいのだということを執事に伝えるためにも絵を書いたり片言言葉と身振り手振りを交えてとだいぶ大騒ぎしてしまった。少女は呑気に構えていて、執事はそれなりに心配しているようで、彼が一番顔を青くしていた。しかし彼にしてみれば決して大げさなことではなく、というのは、彼は現代医学が発達する前の平均寿命と死因を知っていたからだ。たとえ今回の少女の体調不良がただの風邪であったとしても、この先またいつ何時彼らがこの土地の病に感染するかもわからないのだ。

 水はどこから来るのかと執事に尋ねたら、屋敷には水道が通っているといい、その正体は調理部屋や洗濯部屋、バックヤードなど数カ所の地下貯水槽に給水されたものを汲み上げているらしい。さらに詳しく聞くと、街の一般の人々はブロックごとに配水されていて、その大元は水源から引かれた水路が街の区画ごとに分岐して、さらにそこから地下を通る土管や木製の管で各水汲み場まで給水しているとのことだった。当然といえば当然なのだが、浄水施設などは存在しないし、給水設備も開放系だ。つまり生水だ。執事や使用人に、ピッチャーの水は毎日交換して、必ず煮沸したものを入れるように頼んだ。迂闊だったと落ち込んだ。初めてこの世界に来た時、塔の上から町を見渡した時、この屋敷に来てからの生活においてもこの街の技術水準は想像できたし、それならば上水道の衛生水準を考えることだってできたはずなのだ。もちろん、言葉が通じるようになった今でなければ水道について聞くことも煮沸してくれとお願いすることも難しかったろう。少なくとも、体調を崩して病原菌に対する抵抗が弱くなっているかもしれない少女に生水を飲ませるわけにはいかない。

 その日の夕食のメインはスープと蒸しパンだった。少女はそれらを美味しそうに食べながら言語解析を手伝えなかったことを謝罪したが、実際のところ彼もほとんど解析に手をつけられなかった。

「まぁ、慣れない生活で、しかも休みなくずっと言葉調べてたから、疲れが溜まっちゃったのかもしれない。本当はねー、ちゃんと定期的に休日入れるべきだったんだよね。でも目処はついたし、もう簡単な会話だったらできるようになったんだから、そんなに根詰めてやる必要もないし、体調が良くなったらまた街の観光してみよっか」

朝は慌ててしまったが、さすがに時間を置けばある程度頭も冷えて、なんでもない風を装える。しかし不安を拭えた訳ではなく、むしろ内心では危惧を募らせて、これからしなければいけないことを頭の中で整理し始めていた。まず必要なのはどのような感染リスクがあるのかと医療水準の確認だ。この世界の流行病、この街の流行病、コレラや梅毒はあるのか、それとも地球にはなかったような病気があったりするのか。医療が未発達であれば、例えば重金属が薬として使われていたりしたら、鉛や水銀、ヒ素が使われていたりしたら、瀉血療法や、他にも変な治療法が信じられていたら、医者にかかることは余計に被害を増すかもしれない。その他諸々を調べるのがいざ致命的なやつを発症してからでは遅すぎる。

 出された皿をきれいに平らげて、ミルクティーをちびちびと飲んでいた少女がクスクスと笑って、咳をして、また笑った。

「でも、私運が良かったのかも。タクミさんには感謝ですね。だってほら、私は残った方がいいって言ったの、タクミさんでしょ。えーと、あの、メグさんだ。メグさんたちについてってたらもっと早くにぶっ倒れてたかもしれないし。それに、もしメグさんについてったのがタクミさんだったら、あー、名前なんだっけ、あの人と私が残っても、多分言葉調べることもできなかったし。そしたら何にもわからないまま、やばいことになってたかもしれないし」

そういえばそうだった。あの少年の名前はなんといったか、ともかく結果論でいえば少年に悪い魔法使い追跡の任務を押し付けたのは正解だったのだ。もっとも彼は保身の為にそう誘導したのであって、感謝されても微妙に居心地が悪かったりもするのだが。

 そんなことを考えていて、はたとこの世界には魔法と呼ばれる謎の技術があったのだと思い出した。初日にメグのそれを目にして以来、この屋敷に来てからは全く魔法的なものに触れていなかったのですっかり失念していた。もしかしたら魔法の薬や、あるいは魔法による治療があるかもしれない。エリクサーとか。いや、往診にやって来た街医者からはそのような雰囲気はしなかったし、先日市場を案内してもらった時もやはり魔法らしきものを見かけた気はしない。確かメグは街には他にも魔法使いがいると言っていたが、果たしてこの世界で魔法というのはどれくらい一般的なものなのだろうか。また、よしんば魔法の薬があったとしても、本当に効果があるのか、副作用の有無など確かめようがないのは、普通の薬よりも怖いかもしれない。結局のところ、魔法の存在は何の安心材料にもならなそうだ。

 ため息と笑いが同時に出てきて、そんな奇妙な仕草をする彼に少女は首を傾げた。

「いやさ、例えば魔法の薬ってのがあったら、スズは飲む勇気ある?」

突然の問いに少女は少し困惑しているようだった。

「現代社会だったらさ、薬って安全性と有効性を試験で確かめられたものだけが薬として認められるんだ。治験て聞いたことある?治験の前に動物実験やって、それから何段階かの臨床試験して、あ、治験のことね、それで本当に効果はあるのか、副作用はないか、どれくらいの量服用すれば効果が出るのか、副作用が出るのか、そういうの調べるんだ。まぁ、長い長い歴史があるんだけど」

治験が科学的に行われるようになるまでには長い長い歴史があるし、その後にも長い長い歴史がある。薬の効果を検証するというのは簡単ではないのだ。人体実験なんて笑えない話が驚くほど最近まで実際に行われていた。日本で治験に関する法が整備されたのなんて1997年になってやっとだ(医薬品の臨床試験の実施の基準に関する省令)。その話を聞いたときは、現代っていつからだっけなんて思ったりもしたものだ。

「魔法の薬だって、経験的に有効性が確かめられてるかもしれないけど、そういう意味じゃ漢方薬みたいなもんかな?」

魔法の薬というのは、言い方を変えれば作用機序のわからない(わかったら魔法ではない)薬だ。フィクションでは魔法は都合よく描かれるけれども、当事者になってみると不安しかなかった。


 七日間が過ぎても少女の体調は回復していなかった。どころか、咳の頻度は増したようで、体温計がないのではっきりとはしないが熱も上がっているかもしれない。再び医者を呼んだのだが、今度は喉に効くという煎じ薬を処方された。その薬について尋ねると、どうやらいく種類かの植物の葉や根を混合したもののようだった。毒性があるかどうかもわからないが、服用を止めた方が良いという判断材料もない。彼のポーチには風邪薬は一袋しか入れていなかった。

 時間をかけてコツコツと聞き出したこの世界の健康水準は絶望的ではないにしろ、希望が持てるものでもなかった。少なくともここ数年においては深刻な流行病はなかったという。しかしやはり病気はこの街の住人にとっても脅威で、その内のいくつかは感染症として恐れられているらしかった。病名はここ独自のものだし、症状を詳しく聞くには彼の語彙と執事の病気に対する理解が不足していた。

 人口ピラミッドについて聞いてみたが、わからないと言われた。一応街の管理を司るお役所的な組織もあるらしいが、そこにある住民票のようなものにも中流階級以上の住民しか記録されていないらしい。当然、社会階級によってそれぞれの疾患の感染率も発症率も受けられる治療も異なるだろう。印象でしかないが、衛生はそれほど悪くはなさそうだ。ベッドのシーツも十日に一度変えてもらっている。

 医師という職業はあるが、師匠から弟子に伝えられていく職人的なものだった、というのも、この街には現代的な教育機関はないという。一応貴族や中産階級などのお金持ちの子供らが通う学校はあるらしいが、読み書きや計算、詩歌、文学、歴史、政治学などが主な科目というのも想像通りだ。中産階級よりも下、中流階級の子供達も十歳程までは家を手伝いつつ大なり小なりの教育施設に通って簡単な読み書きや計算を習い、そのあとは家に戻るか、どこかの工房または店に奉公みたいな形で入り職を学ぶのだそうだ。それも都市部に限った話だろう。前近代的な社会にしてはマシな方かもしれないが、予想を超えるものではなく、つまり病に感染するのは致命的ということだ。

 怖い想像はしたくない、けれど、見て見ぬ振りをして、楽観的に構えて取り返しのつかないところまで行きたくはない。少女はちょっと体調を崩しているだけで明日になったら回復しているかもしれないが、しかしもしかしたら細菌かウイルスが感染しているかもしれない。治療が必要であるとしたら。この世界の医療水準は良くて漢方医学みたいなもので、その経験的知識による治療法が有効であるとも安全であるとも限らない。そしてさらに危惧すべきことには、たとえその治療法がこの世界の住人にとって有効で安全であったとしても、彼ら異世界からやってきた人間に同様に安全であるとは限らないのだ。

 改めて、彼らの迷い込んだ異世界というのは不思議なものだと思った。この異世界の住人と彼らが元いた世界の人間に大きな見た目の差はない。どちらも一対の前肢と後肢があり、上唇はひとつながりになっていて、外耳の形も見慣れたものだし、瞳孔の形も同じまん丸だ。裸を見たことがないから服の下がどうなってるかはわからないが、肌が露出している部分に関していえば体毛の生え方も同じ。もしかしたら歯や骨の数が違うかもしれないが。

 そして、この屋敷ですでに60日以上を過ごしていて、その間ずっと食事の世話になっていて、しかし未だに消化不良を経験していない。これは彼らが新鮮な食材を使用した消化に良い料理を供されていたというだけでなく、その食材に含まれる栄養素が彼らにも消化可能だったということだ。核酸の塩基がなぜあの五種類で、アミノ酸がなぜかの20種類なのか、一般には地球の生命の自然史の偶然の結果ということになっているが、つまり全く独立の自然史を持つ系、例えば他の惑星の生物は異なる種類の核酸やアミノ酸を使っているかもしれないのだし、そのようなものを食べたとして安全かどうかは甚だ疑問だ。他に、糖質や脂質、ビタミンなどに関しても同じだ。よしんばそれらの生体分子がたまたま、あるいは何らかの理由で両世界の間で共通だったとしよう。それでも、何が食べれて何が食べれないかは本来生物種ごとに異なるし、実の所同じヒトの間でも遺伝子型によって消化できるものできないものがあったりもする。消化酵素にかかる淘汰圧は強力なのだ。

 さてすなわち、現状彼の持つ証拠では、両世界の人間は区別がつかない、同じ生物種のようにしか見えないということだ。まるで元の世界とこの世界は地続きかのようだ。例えば恒星と惑星の質量や構成物質が全く同じだったとしても、それで偶然二つの異なる惑星で独立に完全に同種の生物が誕生し進化する確率は、それこそ天文学的な単位かもしれない。もっとも彼がいまそのような思考を巡らすことができるのも、ある種の人間原理のようなものではあるが。

 あるいは、本当に地続きなのかもしれない。彼らがこの世界に迷い込んだワームホールのようなものが過去に、もしかすると現在もどこかにあって二つの世界を継続的または断続的に繋いでいるのだとすれば。例えば、どこか僻地にある、独特の風習のある村の里山にある滝壺の裏にある祠から続く洞窟の奥にある地下神殿で四隅にある高台の灯篭に火を灯して中央の祭壇で古から伝わる祝詞を唄うと両世界を繋ぐ扉が開くとか。

 それに、食べ物と同様のことが病原菌についても言える。一般に病原菌やウイルスと宿主の関係は厳密だ。少女が何かに感染しているのだとしたら、それは病原体から見ても彼らとこの世界の宿主となる生き物、おそらくはヒト、が区別がつかないということだ。本当に、地続きとしか思えない。そんなに簡単にワームホールが開いてたまるかよ。

 医者が処方した喉に効くという煎じ薬は大して効果がないようだった。微熱は引かないし、相変わらず咳も止まらない。試しに彼もその薬を飲んで見たのだが、痒みを覚えるだとか喉が腫れるだとか吐き気を催すということはなく、少なくとも即効性の毒性はなさそうだった。特別喉がスースーするとかいうこともない。もしかしたら、喉が腫れている時に飲んだらちょっとは違ったのかもしれないが。

 体調がなかなか回復しないことで、初めのうちは気楽に見えた少女もだんだん不安を隠せなくなってきたようだ。ある朝には夜中に起きて泣いていたのか目元を赤く腫らして出てきたこともあったし、時々暗い面持ちで物思いに耽って窓の外を眺めるようになった。

 庭の散歩ができるのも調子の良い日だけで、一日の大半を部屋のソファーに座って過ごすことも多くなった。当然街の散策などはできない。少女を一人屋敷に残して行くのも気が引けたが、しかし今後のためにも街の様子を知っておく必要があるということで、ある日には使用人を一人案内役にタクミだけで街に出た。語彙もだいぶ増えて、簡単な会話もできるようになっているので、前回よりももっと詳しく見聞きすることができた。その日は一日使って街の主要な箇所を巡って歩いた。市場の他に、川岸の荷揚げ場、広場、おそらく議事堂か何かなのであろう、貴族が集まるのだと説明された大きな宮殿、商店などが軒を連ねる目抜き通り。一日使ったといっても、街はそれほど大きいわけではなく(前近代の都市としては十分大きい方なのだろうが)、山手線の内側の半分か、さらにその一回りも小さい程度だった。医者は往診が基本で、診療所のようなものを構えているのが十数箇所、入院可能な病院は二箇所しかなかった。現代人の感覚で言えば街の規模に対して少なすぎるが、前近代的な社会ではむしろかなり多いと言えるだろう。

 少女のために焼き菓子とりんごのような果物を買って帰った。


 三度目の往診で医者は少女の病について診断を下した。病名は固有名詞らしくてどのような病気なのかも連想できなかったが、羅患者数の多い、しかし有効な治療法のない難病だということだ。熱は高くないが、咳は相変わらず続いていて、ネバネバした痰をが出てくるようになった。このまま症状が進めば、やがて肌が蒼白になり、胸に痛みを覚え、喀血するようになるという。そこまで聞けばタクミも思い当たるものが一つあった。症状から素人判断でも肺炎が疑われ、それも結核菌による肺結核かもしれない。異世界人が元の世界のヒトと区別がつかないのだから、結核菌がいたっておかしくない。

 であれば、この世界の医者に治療できるはずがない。結核は抗生物質が発見されるまでは不治の病とされていたのだ。少女が体調を崩したと言ってからこの12日間、いつも悪い方の場合を考えてそれなりの覚悟を決めていたはずの彼もショックで気持ちが深く沈んで行くのを感じた。安静にしていて十分な栄養も保障されていて、しかし少女の状態は一歩づつ確実に悪化して行くのだろう。取り返しのつかないところまで行ってしまう前に元の世界に帰って治療を受けることができればいいのだが、帰るための唯一の方法と言われた魔法の道具を追って行ったメグたちからの音沙汰はついぞない。

 彼は自分の所見を少女に正直に話すことにした。

「だから、この世界の医者にこの病気を治すことはできないかもしれないし、自然に回復することも望めないかもしれないの。でもあんまり悲観しないで。この世界では無理だけど、元の世界に帰れば、ちゃんと治療できるし、それに肺結核だとしたら病状の進行はそんなに早くないはずだから(これは彼の希望であって、実際のところ彼らの現在の生活状況でどの程度結核に抗えるかも定かではない)。ほら、正岡子規とか、堀辰雄とか、結核患ってからも活動してた作家とか有名でしょ」

「でも、でも、間に合わなかったら。だって、もう何十日も経ってるのに、連絡も一つもないし」

「間に合わないって、むしろ何年もかかってもまだ追跡が終わってないって、それはもう相手に逃げ切られちゃって元の世界に帰る手段がなくなっちゃってるって場合のような気がするけど」

 それは問題のすり替えであるが。

「あとはいざとなったら、ちょっと怖いけど、魔法使いに頼ってみるってのもありかもしれない。ほらあの人が、どうしても困った時にはそうしろって言ってたじゃない。この世界の医者には無理でも、魔法使いだったらなんとかできるかもしれない。なんたって魔法使いだからね」

「そんな都合のいい魔法あるかな」

 なんとか少女を元気付けようとあれこれ適当なことを喋る彼に対して、少女の方は気持ちが落ち込んでいるせいか後ろ向きなことを言う。そしてその少女の意見を彼も実際のところ否定できない。

「とりあえず聞いてみるだけ聞いてみるよ。でも、箒にまたがって空を飛ぶとか動物に変身するとかよりかはありそうじゃない?物理法則とかを無視するってんじゃなくって、確率がごくごく低い現象を恣意的に、まるで恣意的に起こすっていうのだったら、ありえないとまでは言えないでしょ、この世界だったら。結核だって、元の世界でも抗生物質が発見される前は不治の病だったっていうけど、抗生物質による治療が受けられなくたって、致死率が100%だったって訳じゃないだろうし。あ、知ってる?AIDSって今でも有効な治療がないけど、や、進行を抑えることはできてて、完治できないってことになってるけど、でも、すごく少ないけど、治療を中断してから長期間HIVが陰性で、おそらく完治したんだろうってケースも報告されてるんだって。本人の健康状態とか遺伝子型とか、持ってる抗体だとか、それからウイルスの遺伝子型とか、要因はわからないだけで色々あるんだろうけど、偶然の要素もあるだろうし。その個人個人に都合のいい偶然を引き起こす魔法とか、あったりして」

 そう言いながら、そんな都合のいいものは本当に魔法としか言いようがないと心の内で呟く。患者とウイルスそれぞれの遺伝子型が与えられていて、患部の状態が与えられていて、それで魔法を使った後に起こる都合の良い偶然ってどんなものだろうか。いずれにしろ、魔法があったとしてもそこまであてにはできないが、しかし他にできることもなさそうで、そして何もしなければほぼ確実に最悪の結末を迎える。しからば、どこかでそのままメグたちの帰りを待つか、それとも信用することもできない治療を受けることにするか、その判断をする必要があるのかもしれない。

 彼が一生懸命にあれこれと喋っていたので、少女も彼が励まそうとしているのだとわかったのかもしれない。少女はちょっと考えた後、悪戯っぽく笑って言った。

「私は、どっちかっていったら、病気を治す魔法よりも空を飛ぶ魔法のほうがいいな。箒じゃなくてもさ、漫画とかでよくあるグライダーみたいなやつ、ああいうので自由に空飛ぶの」

「ん?んん?あ、いや、それだったらあるかもしれない。ほら、覚えてる?魔法の道具を盗んだ男が凧に乗って逃げちゃったって、あの人、メグさんが言ってたじゃない。いやただのグライダーかもしれないけど」

 偶然都合のいい風が吹く魔法とか、それで自由に空を飛べたなら。少女が空に舞い上がっていく絵が頭の中に描かれて、背筋に薄ら寒く感じた。


 あまり期待はするなよと自分に言い聞かせながら、執事に魔法で少女の病を治すことはできるかと、そういう魔法はあるかと尋ねたところ、残念ながら、そういうものは無いと言われた。メグはもちろん、この街にいる他の魔法使いも魔法で人の病を治すことはできないし、またそういう魔法の話を聞いたこともないという。ついでにいえば傷を治すような魔法もなかった。魔法の呪文も、魔法の薬も、あるいは魔法の聖域もなかった。

 多分その通り、この世界には治癒の魔法など無いのだろう。ダンジョンも無ければモンスターとエンカウントしてバトルすることもなく、HPも無ければ「状態異常」も無い。街の様子と規模から推測することもできる。中世社会に比すれば教育機関が整っているのかもしれないが、現代社会よりもずっと早くに子供は就労するし、しからば結婚するのもきっと早くて、出生率だって低くは無いだろう。それなのに、複数の貴族が居を構えているからにはこの地方の中心都市であろうに、もしも治療の魔法なんてものがあればもっと人口も増えていただろう。そうはならずに、歩いて回れる規模の都市と、その周りを囲む田園風景、その向こうに森林すら見えるという、ファンタジー映画ではよく見る、しかし現代社会ではすでに失われた風景が広がっているのは、つまり治療の魔法が無くて死亡率も高いということだ。

 そもそも、何を以って治療とするか、何が病で何が健康なのか、実のところそれは一意的でも自明でもない。健康と、その健康が損なわれている状態というのは、時代や社会によって少しづつ変容するのだ。むしろ健康と健康が損なわれた状態とを定義することこそが医学といってもいい。過去においても近い未来においても、想像しうる大体の社会でインフルエンザは間違いなく病気とされるだろう。一方で、脱毛症や肥満が病的であるか自然な健康状態であるかについては現代においても意見が分かれる。鎌状赤血球症という遺伝性の貧血病が、遺伝子型がホモの場合には成人前に死亡してしまうほどの重篤なものが、しかしヘテロの場合には低酸素状態にならない限りほぼ問題なく、しかもマラリアに対する耐性があるというのは有名な話だ。この例では酸素環境とマラリアの有無によってホモ野生型とヘテロ変異型のいずれが健康的か病的かが反転するのだ。

 USAでは歯列矯正に並ならぬ情熱が注がれているが、内外から見て、それは互いに病的に映るかもしれない。冷え性のことを冷え性と言うのは日本ぐらいだ。いくら食べても脂肪も筋肉もつかない体質というのは、成人の儀式に己の身一つで猪と闘って勝たなければならない戦闘民族においては致命的だが、現代社会においては羨望の対象だろう。健康的な子供は外で遊んで日焼けしている、日焼けしているのは健康的という奇妙なステレオタイプから、日焼け止めの使用を禁止して生徒の健康を無自覚に損ねている学校はまだまだ多いという。頭髪の黒染め強要もまた然り。かつて(の一時期)、あるいは今でも大多数の間では同性愛やトランスジェンダーは心の病だとされていて、またトランスが心と体の性の不一致で、おかしいのは体の方なのだと、そう理解している人の間でもそれらが性同一性障害と同一視されていたりもする。性同一性障害は身体と性自認の不一致にストレスを感じるという病気のことだが、しかし自身の身体に本当に何の不満もない人間はLGBTも「ノーマル」も問わずごく少数だろうし(タクミは叶うならば少女漫画のようなすらっと細長い足が欲しかった)、トランスだろうが自分の性のあり方を肯定的に受け入れて周囲ともうまく折り合いをつけているならそれは病気とは言わない。

 さて、魔法の薬というものがあったとしよう。例えばそれがいかにもファンタジックな空中都市、実際に空に浮かんでいなくてもマチュピチュやクスコのように高い山の上にある街では肌を蒼白にさせ、やがて灼け爛れさせて死に至らしめる呪いの薬とされているものが、紫外線のそれほど強くない低地ではむしろ美白肌を得る美容液としてマダムが必死に買い求めるかもしれない。魔法がどうやってメラニンを除去するのかは知らないが。あるいは、概日リズムを破壊して永遠に眠り続ける魔法の薬というのはどうだろう。たとえ王子様のキスが不要であっても、外からの強い刺激がない限り自ら覚醒することがないのだとしたら、遠からず衰弱して死に至る、つまり永眠する、これもまた呪いの薬だ。しかしその過眠症が病原体の感染によるものではなくて、他の症状が併発しなくて、それで完全に解毒できるものならば、そして代謝を落とすことができるならばそれはsci-fiに出てくるような人工冬眠と同じだし、代謝を落とすことができなくても、そのままでも低体温療法などに応用できるかもしれない。

 身体を望むままに作り変えられる薬なんてものが、一瞬で変身するのでなくても、数ヶ月、あるいは数年かけてゆっくりと、人体に無理のない範囲で、ヒト細胞でできるだけでもいい、そんな風にでも変身する、そんなものがあれば、アメリカ人男性はキャプテン・アメリカみたいなムキムキマッチョになりたがるかもしれない。一方で、一定数の日本人男性が、性自認が男で、女装趣味があるわけでもなく、普段特に美容に気を使っているわけでもない、恋愛対象も異性の、いたって「ノーマル」の成人男性が、しかしどういうわけか美少女になりたがるかもしれない。周囲からは理解されず、ビョーキだと言われるかもしれない。

 物語において魔法を語るのは簡単だ。その魔法の効果結果意図を物語の枠組みの中で語ることができるから。しかし実際にその魔法的なものが何を起こしているのか、物語のコンテクストを排して、物質的な現象として観察しようとすれば、途端に、その動作原理と同じくらいに結果も曖昧なものになってゆく。魔法をあえて否定はしないが、それでも魔法でできることは本質的に曖昧なことのみなのだろう。なんでも都合よくはできない。世の中、世知辛いのじゃ。

「それじゃあ、どんな魔法があるんです?」

「そうですね、メグ様は色々な魔法を使えます。ご存知の通り、違う言葉を話す相手とも直接考えていることをお互いに伝え合うことができます。それから失せ物や探し人などに関する占いをすることもできます。その年にどのくらい雨が降るか、川が溢れるかどうかまで予言することもできます。他にも、ああ、なんて言えばいいのかな、人に景色を与えることができます(執事はタクミたちに合わせて平易な言葉を選んでくれている)。逆に、相手の見ている夢を覗き見ることもできます。もちろん、私どももメグ様の技能の全てを知っているわけではないのです。五年ほど前にメグ様が旅行の折、屋敷からガラスの花瓶が盗まれたことがあったのですが、後日街のゴロツキに雷が落ちて死ぬということがありまして、そのゴロツキの家から盗まれた花瓶が見つかったのです。メグ様は自分がやったのではないと仰っていましたが、後でやりすぎちゃったとひとりごちているのを聞きました」

 聞くところによるとその花瓶というのは大きな飾り壺のようなもので大層な高級品で、農場一個買えるくらいの代物らしかった。

「この街にはメグ様の他にも幾人か魔法を使える方がいらっしゃいますが、その中でもメグ様が一番優れているのです。各人が使える魔法は各人によって異なります」

「そう。じゃあ、魔法の道具ってのは?」

「魔法の道具は、とても珍しいもので、魔法使いほど多くあるわけではありません。魔法の道具は魔法使いの作るところに生まれるものですが、魔法使い自身どうやってそれらを作るのかを知らないといいます」

とどのつまり、この世界の人たちにとっても魔法というのはよくわからないということだ。さもありなん、というよりは、もしも魔法について仔細に説明されていたら、かえって魔法の存在を信じる気を無くしていただろう。

 魔法で病気を治せると本気で期待するのは、できるのは、きっと生物学を知る前までだろう。生物学を知らなければ、病気も、病気が治るのも、または傷が治るのも、何が起こっているのかも、その仕組みもわからない不可思議な現象で、つまりそれ自体が魔法のようなものに見えて、しからば魔法によってその現象を左右できると思ってしまうのかもしれない。宇宙科学が発達して衛星写真や太陽系の模式図が普及したため、大地が球形の惑星で太陽の周りを自転しながら公転していることを疑う人間はほぼいないだろう。重力という言葉が普及しているから仙術を極めてもスーパーマンのように空を飛ぶことができないというのも疑いようがない。ところが熱心な宗教家というのは、やはりまだどこか魔法的なものを信じている。例えば科学は死後の世界というものについて無関心で、あえて否定することすらしていないので、否定されていないので、多くの人が死後の世界を語ることに抵抗がない。

 生命とは本質的に複雑なもので、生物学には「重力」のような代表的な言葉もなくて(あえてあげるとすれば「遺伝子」や「細胞」だろうが、それらが何かと問われて答えられる人は少なくて、結局のところ生物は土塊でできているのではないという認識以上のものではない)、似非科学的なものが波乱していて、魔法を期待する余地が生まれてしまう。酵素ダイエットとか手かざし療法とか。例えば、「この薬を飲めば鳥のように空を飛べるようになります」と言われて信じる人はいないだろうが、「傷が見る間に治ります」と言われれば危ういかもしれない。けれども、実際に傷が治る過程では、外傷により壊れてしまった細胞から漏れ出た内容物のうちの何かが周囲の細胞の膜上の受容体に結合し、幹細胞の増殖や傷口への細胞の移動を引き起こす、さらに、傷口を細胞で埋めるだけでは組織の再生は成されず、各種の細胞が周囲の細胞との分子的、電気的、機械的な刺激のやり取りを通して然るべき位置に配列されなければならない。細胞が移動したり変形したりするのには当然エネルギーが消費されるし、化学熱力学的な過程なので気合を入れたって反応速度が変わったりはしない。まだまだ分からないことだらけで生物学の研究が熱心に行われているが、ではしかし「傷を治す魔法」というのはこのわかっているだけでも十分に複雑な過程のどこにどのように作用するものなのか。魔法のように見える外傷の治癒過程は実のところ魔法ではなく生体組織の活動で、魔法の傷薬というのは空飛ぶ薬と同じくらいにありえない。傷を治すために薬ができることは、傷口からの感染を防いだり保湿をしたり炎症を緩和したりといったところだろう。


 彼が病を治す魔法はなかったと伝えると、少女は力なく微笑んだ。

「まあ、むしろ、ちょっとホッとしたかも。ほら、タクミさんが色々脅かすから、病気治す魔法があるって言われてもちょっと怖かったんだよね。ホラー映画とかだと、なんかそういうので病気が治ったに見せかけて、でも後でもっと酷いことになってたりするじゃない?」

「あー、あれな、違法な無認可の整形手術の結果ひどいことになりましたって話とか実際にあるしね」

「でも、病気治す魔法無いんですね。うちのお母さん結構ゲーム好きで、私後ろから見てたりするんだけど、回復魔法って一番基本の魔法でしょ?」

「そりゃゲームだからね。回復手段がないとゲーム性が制限されるし。魔法って言えば瀕死が一瞬で治ってもそれ以上説明いらないから便利だよね。宿屋で一晩寝ただけで全快とか、ハーブきめるだけで感染予防できるウイルスとか、やっぱどうしてもつっこまれがちだし。まあでも魔法がでてくるのってゲームか、アニメとか漫画とか映画でも結構ゲームの影響強いしな。あー、岡野玲子の陰陽師って漫画知っとる?夢枕獏が原作の、でも途中から独自路線突っ走り出したやつ」

「んー、知らないです」

「まぁ知らんよね。その作者さんお坊さん漫画とかお相撲さん漫画とか書いてるような人で、その陰陽師も後半なぜか古代エジプトが絡んできたりとか色々ぶっ飛んでるんだけど、あの魔法というかファンタジー描写はすごかったな。そこそ、ゲームよりも今昔物語とか宇治拾遺物語とかそっちがベースにある感じ」

少女は少しばかり視線を宙に彷徨わせてから、おずおずと聞いてきた。

「ホラー漫画みたいな感じ?」

「あー、近いかもしんない。あ、そっか、わかったかも。ずっとさ、なんで往年のホラー系漫画誌って少女漫画系しかなかったのか不思議だったんだけど、魔法とかファンタジーに対する男女の文化的な差っていうかさ。男子文化だと魔法つったら剣と魔法のバトルアクションがどうしても強くなっちゃうんかも。で、女子文化だとおまじないとか占いとか、ね?オカルト的っていうか」

 少女は面白そうに笑いながら耳を両手で塞ぐふりをした。

「やなこと言わないでよ。ホラー漫画よりか少年漫画のバトル物の方がいい。だって、ホラー漫画は結構助からないもん」

「ん?ああ大丈夫だって。あれはフィクションで、これは現実だから。少年漫画みたいな魔法がないからって、じゃあホラー漫画みたいな魔法があるわけでもないから」

そう言いながら、彼自身も面白くなってつい笑ってしまった。そう、彼らが体験しているのは夢でも疑似体験でもなく、彼らにとってのまぎれもない現実で、現実なのでゲームに出てくるような魔法はなくて、けれどもそれらとは別の、しかし魔法としか呼びようのない不思議な現象が存在する世界なのだ。

「現実だから、現実的な魔法しかないって、このさ、現実的な魔法って字面がもうなんか学術的で面白いよね」

 彼としては、病気を治す手立てが見つからなかったという報告なのだから少女を落ち込ませることになるのではないかと危惧していたのだが、それを少女は意識してかしなくてか笑い話にしてくれたのだから、彼は感心したし、ありがたくも思った。

「でもよかったよ。もしさ、これがゲームとかにありがちな、悪の魔王を倒してこの世界をお救いくださいな展開だったら、それなのに回復魔法は使えませんだったら、もうやばかったよ」

逆に、全部が全部ゲームのような世界だったら、すなわち大してコストも高くない魔法だの薬だので傷や病が簡単に治せて、悪の魔王を暴力でもって制圧すれば全ての問題が解決するのならば、話はさほど難しくなかったろう。あるいは、解決困難な問題を擬人化したものが悪の魔王なのかもしれない。大切な人やお姫様が病に倒れて、その原因は悪の魔王の呪いで、そいつを倒せば呪いも解けてハッピーエンドになりがち。同様に戦争が起こるのも、その他の悲惨な事件が起こるのも全部どこかにいる邪悪な誰かのせい。ついでに言えば不景気も保育所不足もお野菜の値上がりも無能な政府も過労問題もイジメ問題も推しアイドルのスキャンダルも全部魔王のせい。にんげんどもがおかしくなっちゃったのは魔王マグロナちゃんのせい。

 現実の病気の原因はウイルスや病原菌、遺伝子、不健康な生活習慣、その他諸々。決して意思を持った人格が裏で糸を引いているわけではない。ごく自然なことで、生物は生態系の中にいて、生態系には様々な生物が含まれて、大きな多細胞生物がいればその中で生きる微生物やウイルスもいて、それらの相互作用がやがてその生物の標準状態からの逸脱を招くこともあり、それを人は病気と呼ぶ。現代社会においてこそ病気はその多くが治療可能なものになってマイナーなものにもなったが、元々はもっとありふれたものだった。魔法の世界だからって、生物がいる限り病気もあって、それは魔法によるものではないし魔法で治すことはできないのだ。

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