豚は空を見上げられない
えびこカニ子
第1話 マキ
青々と澄み渡る空、広く潤んだ田圃。
どこまでも続く緑の地平線、冬には雪が嫌という程降り異国などと表現されるまでにもなる景色「なんもなんも」と全てを寛容的に考える人々。
北海道に対する他県民のイメージはザッとこのようなものだろう。
そんな北海道の北の町の一角にポツンと居座る築30年は経つであろうささくれた古民家の窓枠に肘をつきマキはため息を一つ吐く。隙間風が入るこの家、いくら灯油ストーブを焚いても暖かくはならない。マキの口から放たれた掠れ雲のような息は冷えた窓を一瞬温める。しかし外気によってそれは一瞬で消えてなくなってまう。まるで言いたいことを言えずに言葉を飲み込んでしまう自分のようだと悲観的な思いが襲い、マキは吐き捨てるようにもう一つ息を吐いた。窓枠に合わせて屈んだ腰が徐々に悲鳴をあげる。剥き出しの脛が寒さを訴える。それでもマキはここを離れたくはなかった。いや、離れられなかった。
「ごはんだよー」と母の声が聞こえる。
この日常的な言葉も今は煩わしい。いや、苦痛に感じる。そんな事を考えていると呼んでも来ない私に痺れを切らしたのか母が階段を登ってくる音が聞こえる。ギシギシと築30年の階段から響く音が私の心を更にかき乱していく。幼い頃は母が呼びに来てくれるのが嬉しくてわざと布団の中に潜ったり、ドアの陰に隠れて脅かしたりしていた。今は到底そのような気分にはなれない。ゴンゴンと強めのノック。「マキ、ごはんだよ」かすれ気味の声と同時に開かれるドア。ふと母の方を見る。母は「いるなら降りて来なさい」などの言葉を言いたかったのであろう。しかし私の姿を見て一瞬硬直し息を飲んだ。そして恐る恐るという表現がぴったりな足取りで私の方へ歩いて来た。いつもならゾウみたいだと揶揄っている足音がこの古びた床を軋ませない。それほどの"なにか''が母の視線の先にあるのだろう。
「マキ、、、」先ほどと違い小さく震えた声が母の口から放たれる。同時に母が私の横を通り過ぎる。ふと何気なく自分の足元を見る。
綺麗な赤色の血溜まり。私はその中心に立ってる。しかし決して履いている深緑色の靴下には染み込まない。血が足に纏わり付いている感覚も、血生臭さなどの不快感もない。
後ろで小さな悲鳴が聞こえた後、先ほどよりも少し大きな声で私の名前が呼ばれる。物心がつく前から呼ばれていた名に反射的に振り返る。
血の気のない青白い顔、白のニットから力無く覗いた青白い腕、茶色い膝丈のタイトスカートから伸びたこれまた青白い足、そして胸に刺さった包丁。あの包丁、私が修学旅行で母にお土産で買ってきたものだ。懐かしいな。あれ、切れ味が良いって喜んでもらえたな。それが今は私の左胸が深く飲み込んでいる。そして"それ''に縋り付き必死に私の安否を確認する母。
あぁそうだ。私死んだんだっけ。
『どうせ検死やらなんやらで身体を色んな人に見られるならきちんとむだ毛の処理をしとけばよかったな』
そんな呑気なことを考えて二度と開けることのないであろう目を瞑った。
-なんでだろう。不思議と”未練”なんてものはなかった-
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