第2話

 秋だと言うのに土砂降りの雨になった。この雨音の中なら、私が話す話は鈴さん以外には聞こえないだろう。

「鈴さん。あのね。私が絵を上手く描くと、他の子が、五年生の全員なんだ、酷いことを言ってくるの」

「嫉妬しているような言葉?」

「うん。それに私がズルをしているようなことも」

 私の言葉を飲み込んだ鈴さんは、薄く笑った。それはゾッとする、悪魔のような笑みだった。

「絵ってのは残酷なんだよ。実力が見れば分かってしまう。ズルなんて不可能だ。あいつらが凪ちゃんにやっているのは、世界で一番情けない行為だ。自分が登れないからって、上に居る者を蔑む。そんな奴はもう絵を描くのをやめればいい」

 鈴さんの言ったことが胸にスーッと入って来る。その通りだと思う。いや違う、鈴さんの言葉はそのまま、私が思っていたことだ。そして、あまりに辛辣だから言えないでいた言葉だ。

「その通りだと思う。そのくせ、家で絵を描きもしないって。努力することが変だって。でも、私にとって絵を描くことは努力じゃない。描きたいから描いているだけなんだ」

 鈴はゆっくりと頷く。

「努力だろうと、好きで描いていようと、そうやって積んだものの量が技量に影響するのは当然だよ。積んだ方が偉いってことはないけど、上に行くのに積むことは必須ではある。だから、それをしないで上にいる人をやっかむのは愚かとしか言いようがない」

「家で絵を描いてもいいんだよね?」

 鈴は笑う。さっきの怖いのと違って、太陽のような笑顔。

「いいに決まってる」

 急に、気持ちがざらざらしていたのが水平線のように落ち着いて、ため息が出る。

「きっと鈴さんだけが、同じような気持ちで絵を描いてるんだと思うんだ」

 鈴は少し考える。

「そうかもね」

「私、鈴さんと同じクラスで絵を描きたい」

 鈴はもう少し考える。

「それはいいアイデアだけど、先生に訊いてみないと。それと、今凪ちゃんに嫉妬している彼等のこころがそのままになる可能性はあるよ」

「それはもうどうでもいい。あの人達のために私が居る訳じゃない」

「よし、分かった。この話が終わったら一緒に先生のところに行こう」

 凪はミルクを飲む。少し冷えて来ている。

「他の五年生が問題だってことは、言わないで済むならその方が、いいな」

「そうだね。単純に同じレベルの私と切磋琢磨したいと言うことでいいでしょう」

「同じレベルではないと思う。私が追いかけている」

 ははは、と鈴は笑う。そう、見れば分かるのだ。

「そうだね、でも一番近いのが凪ちゃんなのは間違いない」

「いつか追い付きます」

「きっとさ、私は思うんだ、技量はどこかで限界になって、その先に本当の表現があるんじゃないかって」

 多分そうなのだと思いたい。技術の追求だけで絵画が終わるなんてのはつまらない。

「だから、いずれは表現で勝負だよ」

 凪は深くふかく、頷く。

 私の中にあった傷が癒えた訳じゃない。でも、私が尊敬している人に、同じように思って貰ったそれだけで、私は間違ってないんだって思えた。私は私でよくて、私のやり方でよくて、私の目指し方でいいんだ。

 貰ったのは、勇気なのかも知れない。

「さて、先生のところに行こうか」

「あ、ちょっと待って」

「何?」

 鈴が首を傾げる。

 これは敬意だ。これは想いだ。恥ずかしいことではない、なのに、憚れる。

 鈴はじっと待っていてくれる。

「あのね」

「うん」

「鈴さんのこと、これから鈴姉って、呼んでもいい?」

「いいよ」

 何でとか、どうして、とか何も言わずに、鈴姉はそれを許可してくれた。まるで、彼女に私と言う存在が認められた、いや、もう認められていたと言うことのように感じる。

 だから、私の顔から笑みが溢れる。

「鈴姉、今日は本当にありがとう」

「全然。また何かあったら相談してね」

 連れ立って先生のところに行く。先生は凪のクラスで教えている最中だった。

 呼び出して、少し時間を下さいと言うと、応じてくれた。

 事情を説明すると、問題ないとのこと。ただし、条件としてコンクールだけは実年齢の部に出すか、それが嫌ならば出さないか、と言うことが挙げられた。当然呑む。

 今日から鈴の居るクラスに参加するように言われた。


 凪よりも三つ年上の鈴が居るのは、中学生のクラスだ。他に高校生のクラスと大人のクラスがある。鈴曰く、高校生のクラスが一番平均的なレベルが高く、大人の部はそうでもないらしい。また、中学生のクラスは小学生と違って、真剣に絵をやりたい子が多いので雰囲気はかなり違うとのこと。

「今日からこのクラスに参加させて頂くことになりました、凪です。よろしくお願いします」

 挨拶を済ませたら先生の話が始まるかと思いきや、鈴が立ち上がる。

「みんな、この子は小学生のクラスでは上手過ぎてこのクラスに来ました。だから、同級生だと思って接して欲しいです。私の妹分になりたいとさっき本人から申し出があってそれを受けたので、何か彼女のことで問題があったら私に言って下さい」

 鈴が述べる言葉が胸に響いて、熱い涙が出た。

 私は今日から安心して、絵を描ける。そう信じられる。

 新しいキャンバスに向かったら、その真っ白さに、背中を鈴姉に守られているような気持ちに、何を描こうかと言うことを考えるべき時間なのに自分の絵にまつわる歴史が脳裏を流れる。

 子供の頃、気が付いたらお絵かきをいつもしている子供だった。

 他の遊びもしたけど、何よりも絵を描くことが好きで、毎日まいにち、絵を描いていた。

 線をどのようにすればどう言う効果が出るか、とか、色の組み合わせで雰囲気が変わるとか、実験を何度も何度もして、次第にイメージを描くと言うことが出来るようになり始めた。

 そのときに絵画教室の話を母が見つけて来て、ここに通い始めた。小学校二年生だった。

 そこからずっと、ここで描き、家で描き、実は学校の授業中も描いている。

 コンクールに出れば金賞、学校での作品でも高い評価を貰ったけど、本当はそう言う賞はあまり興味がない。それは誰かを感動させた証明ではないから。

 私は絵が好きだ。その内には、観て感動した他の人が描いた絵もある。そう言うことが出来るようになりたいと強く思っている。

 私はもし何にでもなれると言う特権を得たとしても、絵描きになる。いつの間にかそれは当たり前になっていて、疑問を持ったことは一度もない。

 私は、絵描きだ。未熟な絵描きだ。でも明日のためにではなくて今日のために絵を描く。

 旅路から戻って来た凪は、今一度、キャンバスと向かい合う。

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