ホットミルク(連作「六姫」⑤:凪姫)
真花
第1話
「また凪かよ。へっ、天才様には敵わないってか」
その凪である私が隣に居るのに、赤岡くんは呪詛のような言葉を吐いた。
年に数回あるコンクールへの応募は、絵画教室のみんなのモチベーションでもありながら、私が居るせいでストレスでもある。全国にある系列の教室全てから作品が寄せられるのだから、教室の中での上手い下手とは関係ない基準で審査がされている筈だ。多分問題は技量ではなく学年毎で枠が分かれていることなのだと思う。
凪はここ数年、ずっと金賞を獲り続けている。赤岡くんはよくて銅賞、佳作。
その実力の差は歴然である。
でも、だからと言って大好きな絵を描くことで手を抜くなど考えられない。
みんな、絵が好きだからここに来てる筈なのに、揶揄されることが理解出来ない。
そりゃあ、一等賞を獲りたいと言う気持ちは分かる。だけど、それを望むならたくさん描いて上手くなるしかないじゃない。
なのに、結果だけを見て私をなじる。それが嫉妬から来るものだってのは分かってる。だけど、そんなことしなくていいじゃないか。
赤岡くんもそうだけど、他の同学年の子もみんな同じようなことを言う。まるで私がズルをしたかのように言う。
「才能があるっていいよね」
「私も頑張ってるのに、持って生まれたものの差ってあるよね」
「よっ、神童様」
小学五年生の一団は、私への攻撃をいつも孕んでいる。まるで、私が群れの和をみだす異分子だと言わんばかりだ。それも、私を蔑む言葉は使わずに、羨む言葉の裏側に私が何かインチキと共にあるのではないかと言う、やっかみをひっくり返したものを貼り付けて垂れ流す。
私は絵を描きに来ているのに、そう言う毒入りの言葉を投げかけられなくてはならない。
でも、私の目から見ても作品のレベルに差があるのは分かる。と言うことは彼等から見ても同じように差が見えている筈だ。届かないと言う気持ちは、私にだって分かる。
三つ年上の、鈴さんの絵。彼女の絵だけは私は届かない。ずっとずっと上に彼女は居ると思う。
だから、彼女が居るから、私は教室に通い続けている。私は鈴さんからもっと吸収したいし、いずれ並びたい。
だけど、同学年の誰もが私に向ける刃のような態度と言葉が、私の中に降り積もって、私は段々真っ直ぐに絵に向かえなくなって来ているような気がする。
まるで、沼に沈められているよう。
徐々に私のこころが薄く削れていっていたことに気付いた今は、何かが限界を越えたのだと思う。
赤岡くんの聞こえよがしな発言に、私はいつものように上手に無視することが出来なかった。
「ちゃんとやってれば、赤岡くんだって金賞獲れるんじゃないの?」
もちろん嫌味だ。
彼は顔を真っ赤にして壁を、ドン、と叩く。
「俺がちゃんとやってないってのかよ!」
「よくふざけてるじゃない。家で描いたりしたことあるの?」
「うるせーよ! お前は家で描いてるのかよ」
「当たり前じゃない。毎日描いてるわよ」
う、と赤岡が唸る。白日の元に晒されたのは努力の量。元の技量に差があった上で、そこにも差があるのなら二人の距離は埋められることは永遠にない。
「ふん。天才のくせに努力もしてるのかよ。素晴らしいこって」
努力することをなじる心理が全く理解出来ない。と言うよりも私にとって家で絵を描くことは努力ですらない。描きたいのだ。家で描くのは当然なのだ。
「何が悪いのよ」
「うるせーよ。そうやって人を見下して悦に入ってるんだろ」
「見下してなんかいないよ」
「嘘つけ。天才様の御身分で、凡人を見下さない訳ないだろ」
ああ、もう、話すだけ無駄だ。何を言っても伝わらない。そもそもの絵への気持ちが全然違うようだし、ただ彼は自分が負けた腹いせをしたいだけなんだ。その原因とか改善とかそう言うことをしたいんじゃない。
どっか行こう。
凪はプイと横を向いて、向いた方向に向かって小走りでその場を離れる。
「無視すんな、ブス!」
後ろで聞こえる赤岡のもう非特異的な罵りを聞いて、気持ちがさらに汚れる。
廊下まで出たら、涙が出てきて、隣の部屋の近くまで行って蹲って泣いた。
私のこころは限界いっぱいを超えてしまっている。
ぼたぼたと涙が出る。
どうしてそんなこと言われないといけないのか分からない。
人より上手く絵が書けてはダメなの?
それじゃ教室の意味がないじゃない。
努力してるのはおかしいことなの?
絵が好きだから毎日描くのは異常なことなの?
賞なんてなければいいのに。
しゃっくり。涙がさらに出る。
辞めようかな、教室。こんなところに居ても楽しくない。
鈴さんだけはすごいけど、あとの子の絵は別に勉強にもならないし。
先生は何て言うかな。寂しい顔をするのだろうな。
先生のことは好きだし、絵も教わっててすごくいいと思う。でも、先生は五年生の問題を放置したままにしているから、だから、ここではずっと私は彼等の暴力に耐えなくてはならない。
鼻をすする。しゃっくり。また涙がぼたぼたと出る。
「あれ、凪ちゃん、どうしたの?」
声を辿ると、鈴さんだった。
鈴さんがこの時間帯、隣の部屋で一人で描いているのは分かっていた。彼女らの教室の時間までの間をそうやって鈴さんは過ごしている。だから面識があるのだし、だから私はこっちの方に逃げて来た。鈴さんを求めて逃げて来た。
でも私は何も言葉を発することが出来ない。感情が涙になることに体が支配されている。
しゃっくりをしながら、涙目で鈴さんを見る。
「とにかくこっちにおいでよ」
鈴さんは私の肩を抱いて起き上がらせて、そのまま部屋の中に私を連れて行く。私は涙を流しながら頷いて、彼女の先導に従う。
部屋に入れば、鈴さんの書きかけの絵があった。
マルバツゲームのように九の四角に区切られたキャンバスのその一つひとつの四角に人が居て、隣や上下のマスの人と何らかのやり取りをしている。マス毎に色合いが大きく異なり、ショッキングピンクのようなマスから漆黒のマス、空色のマスまである。描かれている人がマスの大きさに比して大きめで、小さなエレベーターに乗っている人くらいのサイズ比だ。隣室とのやり取りの中にストーリーがあり、でもそれはシンプルで、喧嘩とか恋だとか、友愛と言ったものだ。群像劇として、キャンバスを立体的に使っている。
やっぱりすごい。私にはこの絵は描けない。
部屋の中にあるあいている椅子に座らせられる。
私の涙は全然止まらない。泣いているのに絵を見て打たれている自分が同時にいるのが少し滑稽だった。
鈴さんは私の正面に座って、私が泣き止むのを待っていてくれる。
大事な、絵を描く時間を削って、私を待っていてくれる。
だから、早く泣き止んで、話をしないと、そう焦るのに、一向に涙がしゃっくりが止まってくれない。
時間だけが進んでゆく。
夕暮れが宵がかるのを追い越すように暗雲が育って、いずれ雨が降り始めた。
その音に気付いた顔の鈴さん、ふむ、と小さなため息をつく。
「飲み物取ってくるから、ちょっとここで待ってて」
鈴さんが立ち上がっても部屋の外に出ても、涙が止まる気配はない。
破裂したこころなのに、それでこんな状態なのに、やっぱり鈴さんの絵を見てしまう。
アイデアも、面白いし、ストーリーを入れ込むことも面白い。
でもそう言うものを支えているのは間違いなく画力だ。何度も何度も描き続けた上でしか決して手に入らない力が、彼女にはある。作品の推移を見ているからその力がまだ発展途上であると言うことは分かる。でも、私の画力は高いのに、彼女に及ばない。きっと鈴さんも家でも描く人だし、描くのが当たり前の人なのだ。
ドアが開いて、鈴さんが戻って来た。
渡されたマグカップには暖かいミルク。きっと大人に無理を言って作ったんだ。
両手でホットミルクを抱いて、ちび、ちび、と飲む。
甘くて、暖かくて、体の全部に染み渡るような感覚で、気が付いたら涙の出方が緩徐になっている。
鈴さんも同じようにホットミルクを飲んでいる。
半分飲む頃には、涙は止まっていた。
テーブルに鈴さんがマグカップを置く。私の目を見る、鈴さんの目。
「何があったの?」
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