第2話 なっさん 2
「だからそこじゃねえって」
「ここ?」
「もっと下だ。貸してみろ」
那須平は、包丁代わりの草刈り鎌を使って砂サメと格闘する未久の手を取った。痩せて骨ばった手が軽く握り込むだけで折れそうに思えた。
「いいか……ここだ」
大きさが二メートルほどの砂サメはうろんな瞳で横たわっている。
誘導された未久の手の先で、茶色く錆びた刃が嘘のようにすっと腹部に沈み、根元まで埋まる。と同時に流れ出した流血の匂いが、熱気のこもる小屋に広がった。
やった、と目を輝かせたのもつかの間、未久はたちまち顔をしかめた。
「くさーい」
「砂サメなんてましな方だろ。石あざらしはこの比じゃねえよ」
嫌そうに手で臭気を払う未久に、那須平は疲れた目を向けた。
砂サメと石あざらしは大地が流砂に呑み込まれたあとに見つかった新種たちだ。
マンホールから湧き出たのでは。
砂の海で突然変異が起こっているのでは。
エイリアンでは。
取り留めのない憶測がまことしやかに囁かれ、気味悪がる人々も多かったが、なんてことはない。そんな新種たちが食べられる良質な肉だと分かると、人々はこぞって狩りを始めた。捕獲網もない砂の海で捉まえるのは至難の業だが、今もどこかで無数に発見され続けている新種たちの一匹だ。
その中で、数が多いうえ、水の確保と焼けばそのまま食べられるという点で、ゴミ島の住人にはサメとあざらしが重宝されている。
特に砂サメはどこで蓄えるのか、内部に巨大な貯水用の器官を持っており、これが水不足にあえぐ人々の助けになる。
「ほら、傷つけんなよ」
那須平は未久から刺さった草刈り鎌を取り上げると、異様に大きい尾の方に向けてがりがりと削る。ガラス細工のような灰色の鱗が硬質な音を立てて剥がれた。
「さっすがなっさん。でもグローい」
未久が鼻を押さえたまま、見ていられないとばかりに視線を外した。那須平がため息交じりに言う。
「褒めなくていいから手順を見とけって」
割いた腹の内部は豊かな油で潤っていた。見ほれるほどにサシが入った肉に、未久がごくりと唾を呑んだ。
後先を考えずに食べられたらどれだけ幸せだろうか。
那須平は横目で彼女の様子をうかがい、再び鎌を無理やり走らせる。言う通り、この作業にはある程度の力が必要だ。
尾の手前で刃の方向を変えて、水袋の片側を切り取った。
ぶしゅっという静かな音が広がったのもつかの間、那須平は水を吐き出した細い管を手際よく結ぶ。
瞬く間に頭側の管も切り取り、同じ処理を施した。
「ざっとこんな感じだ」
重量のある水袋を、那須平はサメの内部から取り出し丁寧に胸に抱えた。薄い桃色がかった袋が揺れ、水をたっぷりと蓄えていることが一目瞭然だった。
「やっぱりすごいです」
那須平と未久の対面に立っていた少女――久代朱里(くしろあかり)――が感嘆の声をあげた。年齢は十三を超えた程度だろうか。
植物の蔓のようなもので束ねた黒髪に、膝丈の茶色いワンピース。
幼い顔立ちを強調する丸めの瞳には隠しきれない疲れが滲み出ている。
「やっぱり、みなさんがいないとだめですね」
朱里はつらそうに言い、目を伏せた。
小さな背中が一層小さくなり、小柄な手がくやしげにワンピースの裾を握った。何度も同じ動作を繰り返してきたのだろう。布端が傷んで波打っている。
その背を、隣に立っていた男が軽くたたいた。
「朱里くらいの子供がそんなこと気にしなくていい。力仕事はなっさんに任せとけばいいさ。適材適所って言葉もある」
傷んだ白い長髪を垂らし、ぼろぼろの白衣に身を包んだ岩峰二郎(いわみねじろう)は、無表情で言った。「でも」と顔をあげた朱里には目を向けず、代わりに那須平を指さした。
「なっさんは楽しんでるだろ」
「これのどこが楽しんでるんだよ、じっさん」
那須平が呆れ顔で言って鼻を鳴らした。
じっさんとは二郎の呼び名だ。那須平のなっさんと似たようなもので、いつからかそう呼ぶ習慣がついていた。
二郎が那須平の抗議をさらりと無視し、目を細めて「相変わらず、いい腕だな」と褒めた。
朱里が「ですね」と続くと、未久が「だから砂サメはなっさんが担当したらいいのに」と大きく笑った。
***
那須平は、結んだ砂サメの水袋の端を鎌で切り落とした。
意外と収縮力の強い管が、不気味な音をたてて傷みきった寸胴鍋に水を吐き出していく。最も大きな鍋に溜め終えると、次は小さな鍋にガラスの瓶。わずかな残りは底穴をふさいだ浴槽に流し込んでいく。
「これで何日か持つか」
安全ヘルメットを脱いで汗をぬぐった那須平の隣で、未久が心配そうに声をあげた。
「でも、またすぐ無くなりそうね」
「そうだな」
那須平は鍋の中の揺れる水面を無表情で眺めた。
迷いが日々大きくなっていた。
このままでいいのだろうか。いいはずがない。何とか手を打とうと思っているが、その時期がこない。腹をくくる何かがいる。
けれど、そうこう悩む間に、生きるだけで体力がどんどん削られていく。
未久の言う通りなのだ。
この小さなゴミ島で生活する人間は、自分を含めて未久、朱里、二郎の四人。食糧は当然だが、何よりも水が足りない。
楽園島ならば陸地の中央にある湖から取水できるが、流砂に浮かぶ自分たちには安定した水源が無い。
川や湖はとうに埋まっており、豊富な水と言えば海ぐらいしか考えられない。
しかし、海にたどりつくためには、流砂の上を永遠に等しい距離を進むしかない。
気まぐれで急浮上して噛みついてくる砂サメや、泳いでいるだけで災害になる砂クジラなど、砂の海は魔境だ。見たこともない危険な生物が潜んでいる可能性もある。魚群レーダーや潜水艦など夢物語だ。
いつ壊れるかわからないボートで長旅などとんでもない。
その上――
「おい、大丈夫か」
那須平は真横で大きくせき込んだ未久に視線を向けた。
未久は口に当てた手を見て目を見開き、慌てて拭うと、那須平から隠すように背後に回した。
「砂ぼこりでむせちゃったみたい。最近……多いんだ」
未久の視線が斜め下に落ちた。
「……そっか。気つけろよ」
那須平はそう言うと、再び揺れる水面に目を向けた。
網膜には、はっきりと真っ赤な点が残っていた。それはたった今、目に映った光景だ。
未久は白塵と呼ばれる白い流砂の飛沫に侵されていた。
流砂の世界では、早ければ十代後半。長くもっても四十代後半には、微細な塵に肺を侵され、命を失う呼吸器病を発症する人間が多い。
大陸が砂に呑まれて以来、寿命が急激に短くなった理由がこれだった。
高性能なマスクも、完全に身を隠せる場所もない砂の上。灼熱に身を焼かれながらも日々の生活をこなすには、動き回る他ない。
そして気づいた時には白塵に殺される。
無慈悲な世界だ。
「ねえ、なっさん」
手を後ろに組んだ未久が、上目遣いで見つめた。
那須平は、乾いた唇に残る血の跡を無理やり視界の外に押しやり、ぶっきらぼうに返事をする。
「なんだ?」
「なっさんって楽園に行きたくないの?」
「別に行きたくないな」
「どうして?」
不思議そうに目を丸くした未久に、那須平は平坦な声で答えた。
「行っても今の生活と変わらないから。むしろひどくなるかもな」
「そんなのわかんないじゃん」
未久が頬を膨らませた。
「わかるさ。仮に選ばれたとしても、楽園では一番下なんだよ」
那須平が寂しげにいい、割れたコップを寸胴鍋に突っ込んだ。
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