こんなにアレなはずがないなんて妄想してもいられない

アレ

ちょっと一駅

 生きていると、いろいろなものを見かけるものだ。これはその一例だ。

 地下鉄のその電車は空いていた。座席が半分弱埋っていて、立ち客はいない。そんな電車の扉の脇に、地味な若めの男が座っていた。男はラフな私服を着ている。電車は駅に着き、空いたその向かいに中年の男が座った。中年は、筋肉労働者の雰囲気を漂わせているが、ネクタイを締めている。叩き上げの社長か、それとも転職に成功したのか。他には、妙に態度の大きい、老人と呼ぶには若い、何か態度が大きい男が近くに座った。この男は、強いて言えば新聞記者風といったところだろうか。

 若めの男は、ペットボトルを出し、茶か何かを少し飲んだ。その後、げふっごふっと辺りに聞こえた。若めは、手を口に当てもせず、咳をしていたようだ。

 マスクをつけている筋肉中年が、若めに怒鳴りつけた。

「なんだテメー、マスクもつけてねーで、なにやってんだ!」

 いきなりのことである。若めは、刹那の間固まった。だが、それは本当に刹那のことだった。

「あ?マスクなんてどこで売ってるんだよ?バカなの?」

「コノヤロー、口答えするのか!ネクタイも締めてねえくせに!」

 筋肉中年の頭から湯気が立っているかのような雰囲気である。しかも、関係ない話まで織り交ぜている。その中身は、ネクタイを締めればエラいという、末端ホワイトカラーらしいものだ。やはりそういう方なのだろう。今にもつかみかかりそうな雰囲気である。そこに、先程乗ってきて近くにいた新聞記者風が寄ってきて、口を開いた。

「なあに、かえって免疫力がつく。」


 一同はしらけた。だが、いきり立った連中がそう簡単に覚めてくれるものでもない。

「なんだテメー、黙ってろ!」

「おっさん、あんた関係ねーだろ?」

 新聞記者風は、あっさり退いた。でもきっと、この話を脚色し、武勇伝として語るのだろう。そんなものだ。そうなると、二人の戦いを止める者はいなくなった。果たして、闘争は続けられた。


 そんなこんなで、賑やかになり過ぎた車内を、派手な中年の女が走った。騒ぎに近寄ってきたのだ。ババア参戦!大仏パーマから何が出てくるのか、それはまだわからない。

「あんたたちいい加減にしなさいよ。それにおっちゃん、あんたのマスク、ダメよ。お鼻を隠さなきゃ。」

 派手な服の中年女は、飴を取り出した。

「とりあえず飴ちゃんなめなさいよ。おにいちゃんも。」


 そのめんどくささに耐えられないのは、いずれも同じだった。そんな戦士二人がすっきりしない状態で席に戻ったとき、別の中年女がやってきた。こちらは眼鏡をかけていて、比較的地味だ。

「あんたね、あんたもダメでしょ。ナニよそのマスク。」

 なるほど、派手な中年女は、鼻の周りにすきまをつくっていた。中の針金をほとんど曲げていないからだ。だが、派手中年は、収まりがつかないようだ。

「うるさいわね、マスクしてるんだからいいでしょ!」

 ババアは、さっきと違うことを平気で言う。そして二人の口論は続く。最初に争っていた二人は、顔を見合わせてにやついている。共通の敵が、友情をもたらしたのだろう。


 もはや第三者が聞き取ることすら困難な、言語か鳴き声かわからないような中年の言い争いは続いた。だが、それは強制的に幕を閉じた。次の駅で、けっこう多くの客が乗り込んできたからだ。

 観察していた私はそこで降りたので、その後については何も知らない。

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