02

 弓子、つまり俺があの女と呼ぶ元妻と再会したのは、九月の終わり頃のことだった。俺が暮らす地域にはいくつかのスーパーマーケットがあり、その中の一つで偶然に再会したのだ。決して広くはない街だから、いつかそのようなことが起こったとしても不思議ではないが、俺の心にちょっとした変化を加えたのは、彼女の身のこなしだった。俺と暮らしていた時分には持っていなかったはずのクリーム色のシャツに、以前よりも丈の短くなったように感じられるスカート。その装いこそまさにちょっとした変化だったのだが、そこに男の気配を読み取ることは容易だった。

 執着心のないはずの俺の心が銅鑼を打ち鳴らし始めたまさにその瞬間、弓子と目が合った。一秒、二秒。その一瞬の間に、俺がその瞳の中にはもう映ってはいないし、映ることはないだろうというのが分かってしまった。それで、お互いに何も知らぬ素振りですれ違った。買い物かごの中を見る間もなかった。本来なら車で十五分のところにある家に帰った頃には、気紛れで手に取ったアイスクリームがどろどろの液体になってしまっていた。

 それからちょうど一週間後の水曜日、たまたま食材が切れていたので仕事帰りの前回と同じくらいの時間帯に買い物へ行った。同じスーパーだ。弓子は、いた。今度は彼女の方は俺の姿に気付いていなかったので、果物を品定めする弓子の後ろを通り過ぎたときにかごの中をちらりと見た。納豆と牛乳、魚に牛肉。一人で食べるには多過ぎるように思えたし、日保ちのしないものばかりだった。俺は、ほぼ確信した。

 次に弓子を見かけたのはそれから二週間後の水曜日で、そのときにはもう弓子と出くわす覚悟で出かけていたものだから、弓子が突然話しかけてきたときに心臓を口から吐き出すような羽目にならずに済んだ。

「久しぶりね」

 この前も目が合ったじゃないかと思いつつ、そうしたわざとらしさが彼女の好ましくないところだったと思い出した。もちろんそんなことは口に出さずに、俺の方も挨拶をし返した。

「どこかでコーヒーでも飲まない?」

 お前、久しぶりに会ったはずの元夫と気軽にコーヒーを、蚊を殺すときのようなさりげなさで飲めるような女だったのか、なんてそんなこともやはり言えないし、そもそも断る理由もないから俺は承諾した。お互いに自分の買い物を済ませて、じゃあ行きましょうかと俺の車に乗り込んできたのにはさすがに驚いた。

「自分の車は?」

「そんなもの、あるわけないでしょう」

「家まで送れば良いのか?」

「家の場所なんて知られたくない」

「喫茶店でも行くか?」

「買ったものが傷んでしまうから」

「じゃ、じゃあ……」

「あなたの家に行きましょう」

 そうして気付いたときには押し売り強盗のように家の中に入り込んできていたのだが、家の中の様子から俺に特定の女のいないことを見抜くと、どこか呆れたような様子でコーヒーをさらさらと飲んでしまった。

「ああ、美味しかった」

「即席のものなんて好まなかったじゃないか」

「いやね、即席のものなんて。インスタントと言ってちょうだい。それに他人の作ったものは美味しく丁寧に頂く、それが私の流儀です」

「そう、……そうか」

 思えば俺は、弓子のことをたいして知らなかった。弓子が自分のことをあまり話したがらなかったというよりも、俺の方が饒舌に過ぎたのだ。明け透けと言えば聞こえは良いが、要は節操が無いのだ。思いついたことを思いついたままに、どこまでも話してしまう。そうした具合だから深く掘り下げるというよりも大風呂敷を広げるような調子で話を進めてしまい、とうとう何が言いたかったのか分からないままに終わってしまう。昔からそんな調子で、学校で作文などを書かされるときなどには大いに驚かれたものだった。親に代筆させたんじゃないかと思われるくらいに考えがしっかりしていて、普段の浅薄な俺には似合わないことだなどと言って。馬鹿野郎、俺だってそのくらいのことは考えるさ、というくらいには自明のことを書いたつもりで――ああ、こんな調子でいつも話してしまうのだ。

「いつも上の空で、何かを見ているのだけれど何も掴めずに終わってしまう、それがあなたという人なのね」

 俺が黙っているのは思考に潜っているときだ。ちょうど目の焦点が現実に戻ってきたそのときに、弓子は話し始めていた。

「それが憎いか」

「憎くはないけれど、軽蔑はするかもしれない。ちょうどあなたが人に愛憎を抱かないのと同じように」

「愛憎が、愛がないと知っていたならどうして俺と結婚なんかしたんだ」

「気付いたのは結婚した後だったから。それに結婚という枷をはめてしまえば、あなたは変わるかもしれないと思った。でもどんなに逢瀬を重ねようとしても、あなたとはすれ違うばかりで」

「それで結局、子供もできなかったな」

「あなたの実家は随分と酷かったわね。子供ができない原因を私にばかり求めて」

 雲行きが怪しくなり始めている。そう気付いたときには、もう機首を変える間もなかった。

「私だって子供が欲しかった。でも過ぎたことを悔やんでも、仕方がないと今では思える。新しい人生を始めるときがきたのかもしれないわね」

「……」

「今日あなたとお話して、ようやく分かった。あなたはやっぱり、人を愛せない人なのね。私も愛憎というものから解脱して、あなたを恨んだり憎んだりするのはやめにします」

「弓子……」

「私ね、あなたのこと、軽蔑したわ」

 弓子はそれだけ言ってしまうと静かに頭を下げ、もう俺のことなんて見もせずに部屋から出て行ってしまった。

 残された静寂には、塩っぽいような痛みがあった。

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