第25話 師匠と美女、秘密の関係
「……っ」
ゴトンという重々しい落下音と共に、白いマグが冷たい床に横たわる。まだ半分ほど残っていた薄青の液体が、磨き込まれた大理石に散らばった。
「!」
マグを取り落とした“患者”――ログレスの上半身がゆっくりと傾きはじめたのに気づき、アレイアは目を見開いた。
なんとか倒れ込まずに壁に手をついて身体を支えたものの、師は紅い瞳を苦しそうに歪めている。
「く……」
胴衣の袖で口元を拭うと、無表情で見下ろす美女を睨めつけて言った。
「な……にを、盛ったの、です……」
「大闇術師といえど、この薬はお作りになったことがないでしょうね。なんといっても――アナタたち闇術師の力を奪う薬なんですから」
「!」
どこか機械的な口調で答えたリーバニは、長い脚を動かしてあっと言う間にログレスの前に立つ。患者を覗き込むように上半身を折ると、滑らかな紫の髪がつうと豊かな胸元に垂れた。
壁に背を預けた師は胴衣の胸元を押さえ、苦しげに小さな息を漏らす。
「……は……っ」
「ごめんなさい、きっと辛いでしょうね。元は厳しく闇術師たちを糾弾していた国が作った薬だから」
「僕を……拷問にでも……かけるおつもり、で……?」
物騒な問いであるにもかかわらず、リーバニは否定しない。アレイアはカーテンを開こうと手に力を込めたが、頭上から降ってきた白い手がそれを阻む。
(まま、まって。アレイア!)
(ココ!? だけど、どう見たって普通の治療じゃないよあれ!)
(り、リーバニ先生は……そそ、その……こわいけど、いい先生、です。な、なにか、狙いが……あるのかも)
アレイアが驚いて見上げると、蒼い髪に隠れがちな友の瞳と視線がぶつかる。珍しく主張の色を浮かべたその黒い目に、編入生は戸惑いながらも小さくうなずいた。
(わかったよ……)
控えめだが、この友は聡明だ――自分には見えていない何かに気付いているのかもしれない。
「それじゃ、取り掛かりましょうか。センセ?」
しかし白い上着の留め具を外しはじめたリーバニを見、アレイアは早くも友の忠告を忘れそうになった。見守り作戦の提案者も、手で口を覆ってどぎまぎしている。
(なっ!)
ぱさりと柔らかな音を立て上着が床に落ちると、女性らしい華奢な肩が露わになる。水色のブラウスに押し込まれて窮屈そうな胸は、誰もの目を惹くに十分だった。
「……」
「そんなに怖い顔しないで――ログレス“君”。それから昔みたいに、名前で呼んでくださらない? サリー、と」
「!」
その親しげな言葉で、アレイアはやっと先ほどから感じていた違和感の正体に気づく。ウォレンだけではない――この教術師も、ログレスの同期生だったのだ。
「懐かしいわね。こうして二人きりでいると、大書庫で過ごした日々のことを思い出さない?」
「ええ……」
師の答えにアレイアは胸の前でぎゅっと拳を握り込んだが、その声にどこか責めるような響きが含まれていることに気づく。
「何度、追い払っても……僕の探究の邪魔をする、女院生……。よく、覚えていますよ……」
師の冷たい言葉にもリーバニは怯まず、それどころか同僚をこれ以上ないほど壁際に追い詰める。
「こわい顔したってダメ。アナタはもう逃げられないのよ、大闇術師さま」
「……」
「上手く魔力が巡らないでしょう? アナタほど魔力を身体に馴染ませている人間は、そうはいないもの。だからよく効くのよ、この薬が」
細腕を壁について退路を断つと、艶やかな紫に彩られた唇が見事な三日月を作った。
「私の見立て通りね、ログレス君。本当に……こんな良い男になって」
そう呟いた癒術室の主は、黒い胴衣の襟元にそっと手を添える。上等な宝石を愛でるかのように、形の良い爪が首や顎を這った。その艶かしい所作は手慣れたものを感じさせ、一般的な男なら理性を失いそうなほどの魅力を伴っている。
「過大評価は……関心、できませんね……」
「うふふ、そういうつれないトコロは変わらないのね。けれどせっかく学院に戻ってきたのに、私のところへ挨拶もなしなんて冷たいじゃない」
相変わらず無表情のままの大闇術師を見据え、美女は息がかかりそうなほど顔を近づける。大胆に彼の膝に腰掛けたリーバニは、恋人のように腕を獲物の首へとしなやかに絡ませた。
「……っ」
アレイアは今すぐ飛び出すべきか迷ったが、それ以上に心中では邪な好奇心も膨れ上がっていた――二人は一体、どんな関係だったのだ?
膝の上の美女を睨み、ログレスはかすれ声ながらも冷然と答える。
「懇意に、していた……間柄ではなかったと、思いますが……」
「よく言うわ。私の“はじめて”を奪っておいて、罪なヒト。いたいけな少女の心をあれほど焦がし、溺れさせたのは間違いなくアナタなのよ」
(!)
アレイアは聞いたことを後悔し、自分の好奇心を引き裂きたくなった。同時に燃えるような嫉妬を感じ、思い切り鼻にシワが寄る。こちらには気づいてない女神が、どこか甘えるような声で追い討ちをかけた。
「拠点は王都にあるけれど、勇者一行の任務でいつも遠征していたでしょう。寂しかったのよ? 何度も忘れようとしたけれど、アナタみたいな男はこの広い王都でも見つからなくて」
「です、から……貴女、とは……!」
「もう終わった関係だって言うんでしょう? なんて勝手なの。でもそういう奔放なところにも惹かれるのよ、私。昔の“過ち”は、お互い綺麗さっぱり忘れましょ」
今の彼には――そしてもちろん、自分にも――関係のないことだと理解しつつも、その醜い炎は容赦無くアレイアの頬を灼いた。恐る恐るといった様子でココルノがちらちらと視線を寄越してくるが、表情を繕うこともできない。
「それに今なら、私の魅力がよく理解できるんじゃなくて? 私も良い女になったでしょう。ほら――よく見て」
身体の自由が利かない師の頬を優しく手で包みこみ、リーバニは自分の方へと静かに引き寄せる。
「アナタが望むなら、お見せするわ――どこまでも、“深い”ところまで」
「……」
しばらくしてリーバニが手を離しても、師はまるで彫刻のように微動だにしなかった。アレイアは思わず、いつものように師へと“思念”を流す。
(ログレス?)
それでもやはり、反応はない。その紅い目は紛れもなく、癒術室の女主人だけを一心に見つめている。肩にかかった髪を払い、リーバニは満足げに呟いた。
「……ふう。やっと“かかった”のね」
(そんな――あれって、“
(え、ええっ? ま、魔法?)
ココルノと同じく、アレイアも心から驚いていた。彼女の言うとおり、“魅惑”の分類は魔法――しかも妖精や魔物のような、ヒトではない“存在”にしか操れない特殊な技なのである。
つまり、リーバニは――。
「これほど魔力を抑え込んでいるのに、なんて頑固なのかしら。さすが大闇術師ね。でも、これで準備が整ったわ……」
(!)
妖艶な唇を舌で舐め、“白衣の女神”は自分に見入る同僚に微笑んだ。
「美味しそうなその魔力が詰まった肉体――たっぷりと堪能させてもらうわよ、ログレス君」
「なっ、なにすんの! このっ――!!」
ついにカーテンを開け放ち飛び出したアレイアだったが、自分を迎えた視線がひとつでないことにぎょっとして足を止めた。
「!?」
ひとつはもちろん、こちらにふり向いて驚くリーバニのもの。
もうひとつはその向こうからハッキリと自分を射抜く、見慣れた紅い瞳。
「……忍んで機を窺うというのなら、もう少し辛抱してはどうなのです。弟子よ」
そして最後に残ったのは、部屋の中空から自分を見下ろす小さな瞳だった。
『こいつが、お前の弟子? アッハハ、おもしれー!』
固まった編入生を見て高笑いし、その存在は虹色に輝く蝶のような羽を揺らした。
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