第8話 はじめての夜には甘いものを
「ふぁー。つっかれたあ!」
同日の夜。
王都の隅にある宿の一室で、ぼふんっという柔らかい音と共にそんな声が響き渡った。
「ここが新しい“我が家”かあ。うーん、いいお部屋……」
師からの指示で王都を下った先にあったのが、この雰囲気のいい宿である。名前を言うと、すぐさま丁寧に部屋に案内された。荷物もいつの間にか運び込まれており、暖炉には心地よく火が盛っている。
「はー……すごい一日だったなあ」
制服のままベッドに寝転がったアレイアは、天井の木目を眺めながら今日という日を思い返していた。普段は辺境の村でのんびりとしている自分にとっては、まさに激動の一日だったと言えよう。
「みんな、良い子でよかった……」
セルジオの案内が終わったあと教室に戻ると、正式にクラスの一員として認められたのかほぼ全員から声をかけられたのである。
目を閉じて学友たちの姿を思い出しながら、アレイアはぶつぶつと“復習”をはじめた。
「えーと。かわいい髪留めをしてたのがシャーリーン。“テペグ社”の鞄を持ってたのが、ノートン。それに“モーマットアンドリータ”のブーツを履いてたのがメイジー……いや、メンジーだっけ?」
さすがに誰かさんのように一度で名前を把握できたわけではないが、気の合いそうな子の名を知ることができたのは大収穫だ。
「……驚きましたね。髪留めや鞄の“学友”を得てくるとは」
「わっ! ロ、ログレス。おかえり」
静かな声が降ってきたのを聞き、アレイアは驚いて目を開けた。
懐かしくさえ思える呆れ顔でこちらを見下ろしているのは、もちろん師だ。
「村ではないのですから、きちんと施錠すべきでしょうね。ちなみに彼女の名は、メレジー・アンダーソンですよ」
「はあーい。“先生”」
「……」
アレイアが手を挙げて言うと、師はどこか憮然とした顔つきになる。柔らかそうな肘掛け椅子まで歩き、その黒い胴衣の背を沈めた。
きっちりと引き下げていたフードが落ち、疲労の滲んだ顔が露わになる。
「疲れた?」
「ええ、それなりには……。ラケア村全人口の倍以上と会話しました」
「あはは、あたしも。でも、楽しかった!」
自然と滑り落ちた言葉に、ログレスは紅い目をちらと寄越して呟く。
「……そうですか」
「学院長以外に、知ってる人いた?」
「僕の院生時代からずっと、教術師の面子は変わっていないようです。……いくつかは、“新しい顔”が増えていましたが」
少し声が低くなったような気がしたが、アレイアは直感から深く訊かないことに決めた。どうも良き出会いばかりではなかったらしい。
ふとアレイアは、師に訊きたいことがあるのを思い出した。
「ねえ。“モラク・ゥレ・カニーエ”って、どういう意味なの?」
「精霊語? “魔法術師”課程にでも入るつもりですか」
「ううん。ちょっと小耳に挟んだ会話に出てきて」
とっさに言うと、師は可笑しそうに肩を揺らして言った。
「……それはさぞ、愉快な会話だったのでしょうね」
「な、なに。教えてよ」
「“近寄るな。毒液を吐くぞ”――といった意味の言葉です」
「あ、アイツっ!」
精霊が大人しく退散した理由を知り、アレイアは悔しそうに拳を作った。これは明日、文句を言ってやらねばならない。
「そんなことより……」
「えっ?」
ふと自分に落ちた影に、アレイアは蜂蜜色の目を上げる。
ギシ、とベッドが重みに軋む音が耳を打った。
「アレイア。僕は――もう、我慢の限界です」
「えっ、ええ? ちょっ、なっ、なに!?」
シーツについた師の両腕の間で、アレイアは完全に硬直した。
思わず上半身を後ろに反らすが、想い人はずいと身を乗り出して追従してくる。
「……逃げても無駄ですよ」
薄暗い部屋に浮かび上がる、熱を灯した紅い瞳。
くつろいだ場でしか見せない、滑らかな
外の雑踏の香りの中にも、書物やインク――そしてわずかな薬草といった、心地よい彼本来の匂いが混じっている。
アレイアは優秀な“犬鬼”の嗅覚を恨みながら、耳まで真っ赤に染めあげ慌てた。
「ろ、ログレスっ……!?」
「アレイア。この部屋では、貴女は僕の“生徒”ではありません。……言っている意味がわかりますね?」
いつもは影のように静々としているので意識していないが、こうして接近されると立派な大人の男という印象が際立つ。小柄な自分との体格差もあり、そこには意外なほどの迫力があった。
緊張が背を駆け抜け、アレイアは舌をもつれさせる。
「えっ……えと……う、うん」
「ならば、僕の求めているものが何か――承知しているはずです」
「……っ!」
目と鼻の先にある顔を見つめていたアレイアの脳裏を、興奮した少女の声が駆ける。
“普段は冷たいヒトが時たま見せる優しさとかケダモノ感とか”
「け、けだもの……っ!?」
「ケモノ、ですか……それも、悪くはありませんね。しかし、まずは“甘いもの”から頂戴したく――」
「っひゃ!?」
音もなくこちらへ伸ばされた手に、アレイアは思わず目を閉じた。
冗談ではなく、心臓が飛び出してしまいそうだ。
「ろ、ろろログレスっ! あ、あの、“そういう”のは、その……!」
「何です?」
「ちゃ、ちゃんと“雰囲気”を作ってからというか……は、離れてたからって、帰って“いきなり”っていうのは、乙女的にちょっと……! せ、せめて湯浴みを」
「却下します。今は少々、“味見”するだけですので」
「あ、味見!? あんた、いつからそんなっ――!」
きゅぽ、と聞きなれない音を聞きつけ、ついにアレイアは恐々と薄目を開けた。
「……え」
浮かび上がったのは――質素だが、居心地のよい宿の室内。
となりでもぐもぐと何かを頬張る音を聞きつけ、アレイアはぎこちなくそちらへ顔を向けた。
「あ、あんた何してんの」
「なに、とは」
ベッドに腰かけている師は、年甲斐もなく膨らませた両頬を忙しそうに動かしながら問い返してくる。
胴衣の膝の上でしっかりと抱かれているのは、村の友から贈られた果実が漬けられた瓶――いつの間にか、自分の後ろにあった荷が口を開けている――だった。すでに半分ほど無くなっている。
「味見って……!?」
「その必要もなくなりました。さすがはメル、果実が浸かる時間が短縮されるのを考慮し、ニルヤ家秘蔵の“
「し、しないでよっ! あんたは自分のがあるでしょ!」
「もう食べました」
瓶を奪い返しながら、アレイアは師を睨めつける。
しっかりと蓋を閉じながら、唇を尖らせて呟いた。
「もう、なんなのこの甘党師匠っ……! へ、へんなこと言っちゃったじゃん……」
「ふむ。たしかに妙ですね……。果実の砂糖漬けを食すのに、湯浴みまで必要とは」
「ッ!」
ぎくりと制服の肩を震わし、アレイアはちらと発言者を盗み見る。
口の端についた砂糖水を舐めとり、想い人はにやりと笑んで言った。
「……一体、何を想定していたのでしょうね? 我が“弟子”は」
編入生の真新しい日記帳の
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