絶対に人を殺すミステリー

名取

人が死なない退屈な世界





 人は死ぬ。


 どのような死に方であれ、結果的に人は死ぬ。


 しかし僕のいるこの世界では、絶対に人は死なない。


 、死なない。



「おはよう、沙上くん」

 後ろから声をかけられ、僕・沙上結城さじょうゆうきは読んでいた文庫本を閉じて振り返った。そこには幼馴染の安藤ゆりえが柔和な微笑みを浮かべて立っていた。

「今日も読んでるの? 江戸川乱歩」

「ああ、まあね」

 朝のホームルーム前の教室。この清々しい時間に読書をするのが、僕の楽しみであり、日課だった。

「また同じ本……よく飽きないね。そんなに面白い?」

「面白いよ。安藤も読んでみたらいい」

「え、私はやめとく。だって人が殺されちゃうんでしょ? そんなの怖いじゃん」

 ほらきた。

 内心の軽蔑を悟られぬよう口元の笑みだけは保ちつつ、僕はゆりえの次の言葉を待つ。彼女はいつものように、無邪気な笑顔でトレードマークの三つ編みを揺らしながらこう言った。

「みんなが平和で穏やかに生きられる。それ以上の幸せなんてないでしょう?」

 僕は彼女の言葉に賛同しているかのように、にっこり微笑んでみせた。

 あー、そうですかそうですか。


 この世界が現実ではないことを、僕は知っている。


 もちろん初めは、そんな風に考える自分の方を疑ったし、ましてや実際に人を殺したいと思うことなど一度もなかった。ただ小説やドラマで、架空の殺人事件を眺めているだけで十分満足だった。けれどなぜか、そしていつからか僕は、実際にトリックを使って殺人を犯す以外のことを全く考えられなくなっていた。当然、僕は自分の精神が狂ってしまったのだと思い、恐怖に駆られた。しかし、こんなことは誰にも相談できない。それくらい僕の中の欲求は大きなものだった。

 そこで冷静に考えてみたところ、この世界には「殺人事件」というものが不自然なまでに欠けているということに気がついた。身近で起きることは現実では滅多にないとしても、テレビや新聞でさえ残酷な事件を報じない。報じたとしても、それはいつもこことは全く無関係の場所で起き、その事件によって僕らの生活が変わることはない。それだけではまだ偶然とも考えられたが、しかし何より、ここでは。そのことに最初に気づいたときは血の気が引いた。僕の世界の時間の進み方は、一人の人間に依存している……それがあの安藤ゆりえだ。彼女のライフイベントに合わせて、この世界の一秒間は理不尽に早まったり遅くなったりしている。


 そして考察の末、彼女はこの世界の「」だと判明した。


 その証拠に、彼女の周りでは、日常的に小さな謎が、不自然なほど大量に発生する。それはもううんざりするほど……腐敗した食物に、無数の蛆が湧くように。

 つまるところこの世界は、の世界、なのだ。


 もはやそうと考えるほかない。そうでないなら、どうしてこんな不自然な世界が成立するだろう。しかしそれがわかったところで、僕の中で一度芽吹いてしまった殺意は消えるどころか日々成長していくばかりだ。僕の殺意の対象は、近所に住んでいる、峯山夫妻。彼らは見た目こそ裕福な善人たちだが、陰湿極まりない方法で母を自殺に追い込んだ卑劣な奴らであることを、僕だけは知っている。


 母はとても美しい人で、その優しさと美貌が、峯山洋子の嫉妬心に火をつけた。


 僕が幼かった頃、母は、峯山を主犯格とした幼稚園のママ友たちからネットまで使った壮絶ないじめを受け、心を病んで自殺した。しかも洋子の夫で医者でもある峯山健一は、母が死んだ後、遺された僕ら家族に「口止め料」とでも言わんばかりに大金を持ってきた。それも、明らかに他人事のような、迷惑そうな顔で。

 健一は「見舞金」と言っていたが、そんなものはどう見ても建前だと、今なら簡単に見透かせる。でも今までの僕は、そんな見え見えの悪意にさえ気づかず、建前を本心と思い込んで、こんなにも長いこと呑気に暮らしてきた。そんなバカな自分自身が、僕は何より許せない。が、一人息子の僕が殺人犯として捕まれば、両親の顔にまで泥を塗ることになってしまう。


 だから僕は、完全犯罪を実行する。


 かつて母が、見えない悪意の手によって証拠もなく殺されたように、今度は僕が、あいつらを誰の目にも見えないナイフで、鮮やかに殺してやる。

 もちろんのこと、自覚はある。僕はとっくに狂ってしまった。このおかしな世界と、えげつない悪意のせいで。だからこんな僕に救いが残っているとすれば、それは仇を殺すことでしかない。たとえこの世界がどれだけ邪魔をしようと、関係ない。僕は絶対にあの夫婦を殺す。そしてその後も、きっちり幸せに生きてやる。


 そのためなら、どんな犠牲も厭わない。

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