蒼玉の狂詩曲

糸夜拓

第1話 華やかなる都・エルヴァンスドリス

 不意にはっきりとした意識を、その直後、彼は呪った。

 手から力が抜けて、カラン、と、大理石の床の血溜まりに剣が落ちた。

 東洋の国の特別な剣で、金で細やかな装飾が施されたそれは、確かこの屋敷のゲストルームに飾られていたものの筈。

「あ、ああ」

 救いを求めたのは、自分の筈、だったのに。

 彼は、自分が最後に手をかけた人の表情を思い出し、膝をついた。

 クスクス、クスクス、と。

 いつの間にか握り締めていたから、か細い女の笑い声がする。


 さあ、あの人のところへ連れて行って。

 

 その声に、絶望に染め上げられた意識は、逆らうことなく。


***

 第二の王都とも謳われる、華やかなる都エルヴァンスドリス。

 誰もが浮き足立つこの街でもし見所はと聞かれたら、まずは画廊通りギャラリーストリート。多くの芸術家が、画廊が軒を連ねるこの通りで腕を磨いている。

 それから、美術館やオペラハウス、王立劇場などが連なる王立通りロイヤルストリートは欠かせない。避暑の時期は特に、名門貴族の紋章を掲げた馬車が行き来して、華やかさが増す。

 その石畳の通りを急ぐ姿がある。

 華やかな姿の多く行き交う中、軍装はやや浮いて見えるか。

 そのうちの一人が、何やら納得がいかぬと声を荒立たせた。

「納得できません! 聞いてます、隊長!」

 鼻息も荒く、言い捨てた男は濃灰の軍装。一見して、国軍在籍だとわかる。

 赤毛を怒りで逆立てんばかりの勢いで、青々とした樹木の陰も涼しげな石畳を軍靴で踏みつけるように歩いている。

 彼の憤慨に、肩をすくめて数歩前を歩いていた青年が振り返った。

「何がだ、アルド? 待ち合わせ場所が洒落たティールームなのに軍装なのが、か? それとも徒歩なのが、か?」

 笑う拍子に、少し暗めのブロンドが揺れる。灰色がかった淡い空色の目が、通りすがった馬車に掲げられた紋章を見るともなしに追う。

 漆黒の長衣を翻す背は高く、体躯はしなやかさを感じさせる細身。

 まだどこかあどけなさを感じさせる笑みにつられ、すれ違った婦人が振り返る。

 長剣を佩いていないのが惜しいわと、通り過ぎた馬車から楽しげな声が背を追った。

 彼の名は、エディン・サングウィンという。

「違います! そうじゃなくて! この時期に! くだらない事件の手伝いとやらに! 貴方ほどの人が借り出される事がですよ! 絶対上層部の陰謀です!」

「それについては私も同感だ。が……少しは黙れ。うるさくて仕方がない」

 言い募る部下を黙らせたのは、苦笑するエディンの隣に立つ細身の青年。

 一重の切れ長の目元が印象的だ。

 常に冷静沈着、参謀としての実力は軍上層部にいる兄と勝るとも劣らないだろうと囁かれるほど。

「ですが、ラズウェル副隊長!」

 名を、フォート・ラズウェルという。

 隊の中でも熱い性格の部下に、ラズウェルはため息を一つ。

 声ばかりは呆れたようにアルドに言って聞かせるのが、

「どのみち、ルメスリージュにいたところでろくに練習もなさらない。元々優勝に興味はお持ちでないらしい。でしょう?」

 呆れたような声でそうだろう、と断定されて、エディンは苦笑の色を濃くした。

「あー、まぁな。ま、隊長階級以上は参加必須だから出る予定だけどさ。ま、それもこの出向が長引けば辞退かなー」

 アルドは顔を真っ赤にして、そんな、とさらに言い募る。

「国王主催の剣闘会ですよ? 実力を示す絶好の機会です!」

 日を三日後に控えた、国王主催の剣闘会。

 今、王都ルメスリージュではその話題でもちきりだ。

 開催されるのは先王主催以来二十年数年ぶりとなる、国軍の精鋭を闘わせる剣闘会。

「優勝者には要職が約束されているというじゃないですか!」

 軍に属する者達は、少しでも国王や上層部の目に留まろうと、鍛錬を重ねている。

 熱くなっているのは、出場者だけではない。

 毎夜のようにどこかで催される夜会においても、最も旬の話題であるらしい。

 王都内の国立闘技場で行われるというその大会に、普段は争いごとを好まない貴族達も、優勝候補について熱く語り合っているとか。

 だがおそらく、その大会が最も注目を集めている理由は、他にある。

「噂はそれだけじゃないんですよ。第一練兵場で耳にしたんですけどね、あのアジュール聖公爵も王と共に御覧になられるとか!」

「アジュール…伝説の公爵様か。そりゃすごいな。お前はそんな噂聞いたか、ラズウェル」

 アジュールといえば、このラングランスの国民であれば、知らぬ者はいない。

 ラズウェルも、苦笑交じりに確かにその噂は聞きました、と応じる。

「建国にまつわる伝説の一族ですからね。滅多にお出ましにならないし。ああそうだ、アジュールといえば、玉座の間の一面を飾る大きな絵画を御覧になったことは?」

 ルメスリージュの中心部、華やかな白い王宮の最奥にある、玉座の間。

 様々な公式行事に使われるその広間には、作者不詳の大きな絵画が飾られている。

「……あー、ちらっとならあるな。玉座が背を向ける壁一面に飾られた絵だろ。確か、戴冠の。王の頭に、司教が王冠を載せている」

「あれは司教などではありません。戴冠を行っていらっしゃるのは、真の意味におけるこの国の支配者。国を守護する聖獣、蒼き獅子の人としての姿…つまりアジュール聖公爵だと言われていますよ」

 国を守護していた聖獣に、この地を統治する人間の王となることを許されたのが現アイオス王家だとされている。

 幼い頃から寝物語で語られることの多いラングランスの伝説だ。

 国の守護者であり、王家の守護者でもある聖獣、その望みに従い国王が用意したのが、聖公爵という爵位だという。

 王でさえも腰を折り、忠誠を誓うというのだから、憧憬の的になるのも頷けよう。

 しかも、実在するというアジュール公爵家の現当主は若く美しいというもっぱらの噂。

 貴婦人方は観戦の為のドレス作りに精を出しているとか。

 誰がかの公爵の心を射止めるかと、観客席でも熾烈な戦いがありそうな予感だ。

「なるほどね。それで大騒ぎなワケか。貴族どもがこぞって観戦したがるわけだ。普段は剣闘会など野蛮だなんだと罵る方々まで観戦に出てこられるのもそのせいか」

 エディンは茂る樹の枝をかがんで避けながら喉の奥で笑った。

「……エディン」

 ならば尚更出たくないなと苦々しげに付け足す独り言を、小さく階級ではなく名で呼ぶことで、友人も兼ねている片腕がたしなめた。

 目元は微かに気遣う色。

 アルドはその雰囲気に気付いて少し歩調を緩めて二人から距離をおく。

 尊敬する隊長には、何やら込み入った事情があると、知っていての配慮だ。

 ラズウェルがアルドを振り返り、軽く目で謝してから、エディンに小声で、

「……観戦なさると?」

「……風の噂によるとな」

 苦笑したエディンが、ふと思い出したように胸元から封書を取り出す。淡い水色のごく普通のものだ。

 その表書きの字は、少々拙く幼い。

「最近は馬術の家庭教師を味方につけたらしい。全くどうして、誰も知らない俺の居場所がわかったのかと思えば」

 声は、少し楽しげで、少し暗い。

「では」

 軽く目を見開いたラズウェルに、エディンは大丈夫だと笑って見せた。

「この出向中に『体調不良に陥り、出場辞退』することになっている」

 若くして隊を率いるまでに出世したエディンを煙たがる上官は少なくないのだ。

 若造を活躍させたくない上層部との取引を実は済ませていると小さく囁く声に、涼しげな美貌が渋面になる。

 「……アルドではないけれど、本当に、惜しい。貴方こそ上に立つべき方なのに。だが、その胸に更に傷跡が増えるのはもっと惜しい」

「……傷跡だけで済めばいいがな」

 思い出せば、苦い思いが胸に広がる。

 胸に、凶刃を受けたのは、確か十二の頃か。

「思えば、よく死なずにすみましたね。死んでもおかしくない傷、だったのでしょう?」

 幸運に感謝しなければ、と囁かれた言葉に、エディンは笑う。

「実は、そのあたりの記憶は曖昧なんだ」


 覚えているのは、痛みというよりは…熱さ。

 あの家に引き取られてから間もなく、お披露目という名目で無理矢理連れてこられた王宮での公式行事の、華やかな賑わいにまぎれて向けられた殺意。

 確か、王宮を抜け出して、庭園に迷い込んだ辺りで刃がガス燈の灯りで光り。

 大聖堂にたどりつく間際で、意識を取り落とした。

 息をする度に熱く疼く胸の傷に、

 ……てやろう。

 そういえば、耳ざわりのいい声を聞いた。

 あの時、傷の手当てをしたのは、誰?



「……昔話はここまでにしておこう。ほら」

エディンはおどけてみせて、ティーポットの形をした看板がぶら下がる小さな店を見上げ、話を打ち切った。

「到着だ。丁度喉が乾いた頃合だと思わないか? 時間まで茶でも飲もう」



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