第37話 一日遅れの

 今夜もしっぽり菘に絞られて、明日も学校に行けない――という俺の懸念は杞憂に終わった。


「あ、あのね涼。その、今日はできないの」

「……なにが?」


 夕飯や風呂などを終え、残すは就寝となり、今は俺の部屋で二人して勉強していた。

 と言っても、単語集をボケーっと眺めてるだけだが。

 そんな中、俺と同じく英単語の暗記に勤しんでいた菘が急にそんなことを言い出した。


「わかってるくせに」


 頬を膨らませる菘。しかし、膨れっ面されたところでわからないものはわからない。

 単語帳から目を離して考えるも、思いつかず閉口してしまう。

 ため息をついて、菘はおずおずと切り出した。


「だから……。今日はエッチできないってことよ」


 ああ、そういうこと。勉強中にいきなり言われたから思い至らなかった。


「そうか、わかったよ」


 しかし、菘にだってそういう日ぐらいあるだろう。そう思って理解を示すと、


「……え?」


 何故か菘が怪訝そうな表情をしていた。

 何もおかしなことを言ったつもりはないんだけど……。


「どうして、そんなに平気そうなの? もっと絶望に打ちひしがれてもいいじゃない」

「お前は俺をなんだと思ってるんだ……」

「一日遅れの賢者タイム?」

「クールタイムにラグがありすぎだろ」

「……ゲームとかで出てくるクールタイムって、冷静になるまでの期間ってことだったの?」

「違うから」


 それだと、みんな発情しながらスキル使ってるみたいだろ。

 コンパ〇ルハートあたりが作ってそうだな、そういうゲーム……。

 

「……って、そんな漫才はどうでもいいのよ」


 漫才をしている自覚があったのか。


「涼はいいの? 私とできなくて」

「良い悪いじゃなくてな。そういう日ぐらい菘にだってあるだろ」

「私はそんな一般論が聞きたいんじゃないの」


 菘が俺に詰め寄りながらそういった。ふわりと、長い髪からシャンプーだかトリートメントだかの香りがする。思わず、手にとって梳いてしまう。

 菘も俺の手を嫌がるどころか、一瞬表情を緩めるも、また真剣そうな顔つきに戻った。


「ぶっちゃけると……」

「うん」

「今日は、大丈夫かな」

「う、うそ……」

「いやほんと」


 だって、昨日八回もしたし。いくら猿と見分けがつかないと言われがちな男子高校生でも、限界というものはある。

 バナナは食べ飽きたのだ。いや、俺はバナナを食べさせるサイドか……。


「……もう私の身体飽きちゃった?」

「そういうわけではないよ」

「ほ、本当に? しばらく出来ないと思うけど、我慢できる?」

「どんな事情があるかは知らないけど、我慢できないのは菘だろ……」

「それもそうね」


 菘は俺からスッと身を引いた。そして、人差し指を唇にあてて何かを考え込む素振りを見せる。

 すぐに結論に至ったのか頷きながら、


「大丈夫。私に任せておいて」

「全くもって話が掴めないんだけど」

「とにかく、今日はできないってことだけ理解してもえれば」

「ああ、うん。それはわかったよ」


 それで話は終わったのか、菘は立ち上がり伸びをしながら大きく欠伸をした。

 ちらりと時計を見ると、日付が変わるまであと少し。

 明日こそは寝坊せずに学校へ行くと埴輪ちゃんと約束もしたことだ。もう寝てもいいだろう。

 歯を磨くために俺は部屋を出た。菘も追随してくる。

 一階にある洗面所で二人並んでしゃこしゃこと歯磨きをした。

 階段を上り二階へ戻ってくる。


「じゃあ、おやすみ」


 俺は自室の扉に手をかけながら、菘に別れを告げた。菘は俺とは隣の部屋、元は空室だった部屋に居を構えている。

 室内灯を消して、ベッドに潜り込む。寝つきはそれなりにいい方なので、すぐにでも眠れるだろう。

 ……真横でもぞもぞしてる奴さえいなければ。


「菘さん? 何してるの?」

「なにって、寝るのよ」

「ここ俺の部屋。俺のベッド」

「知ってるわ。むしろ、だからこそよ」


 言いながら、菘は抱きついてくる。女の子特有の柔らかさと温かさ。

 いくら昨日何度も触れたとはいえ、ドキドキすることに変わりはない。


「せっかく同じ家に住んでるのに、別々で寝るなんて悲しいじゃない」


 暗がりで表情はわからない。だけど、心底寂しそうな声のトーン。

 俺も菘の言わんとしていることは理解できる。

 晴れて恋人になり、その上同棲までしているのだ。ましてや、それを咎める人すらいないのだから同衾するのは自然な流れと言える。

 しかしである。


「いや、その。菘が隣にいたら寝られないというか」

「……どうして?」


 菘は不安げな声音で問うてくる。俺の身体に回された腕にかかる力も少し強くなった。


「ドキドキするんで……」

「そうやって童貞の心をいつまでも忘れない涼もいいと思う」

「馬鹿にしてるだろ? 流石に俺でもわかるわ」


 そもそも童貞とは心持ちの問題であって実際に性行為に及んだかどうかとは相関性はなく……、とご高説を垂れそうになったのをぐっとこらえる。


「でも、だったら毎日一緒に寝て慣れないと」

「一理あるようなないような……」

「涼はどうしたいの? 私と寝るのは嫌?」

「……その聞き方はずるいだろ」


 俺の弱った声に菘は嬉しそうに笑い、身体をさらに寄せてくる。

 今日はしなくてもいいと大見得を切ってしまったことを後悔した。

 心の奥底から菘を求める劣情が湧き上がってくる。

 だけど、菘は言った。今日は無理だと。

 俺も菘の身体に腕を回した。抵抗することなく、菘は受け入れる。

 これが今できる精一杯。

 

「ん……ちゅっ」


 そう思っていたのだが、唐突に唇に押し付けられる柔らかな感触。

 それが菘の唇だとはすぐに気付いた。昨日、散々重ねていたから心当たりしかない。

 舌が侵入してきたり、唇を食まれることもなく、ただひたすら互いの唇を触れ合わせるだけのキス。

 そんな子供騙しな接吻でも鼓動は高鳴る。

 時間にして三十秒ほどの長い口付けだった。

 

「おやすみのキスってやつよ」


 聞いてもないのに菘が早口に答えてくれた。


「本当は昨日したかったんだけど、涼、気づいたら死んでたから……」


 死んだというか、菘に搾り取られて殺されたというか。

 というか、いよいよこんなことされては眠れない。心臓が痛いほどにバクバクしている。

 

「ねえ、涼?」


 耳元で菘が甘い声を出して俺を呼ぶ。


「なんだ?」

「私、ドキドキして寝れそうにないわ」

「お前は完全に自爆だろ……」

「えへへ、そうねー」


 菘はいじらしく笑うと子供みたいに背中を丸めて俺の腕の中に収まった。

 

「お互い眠れないなら、今夜は昨日出来なかったピロートークってやつでもしましょう?」

「いいけど、なに話すんだそれ。メンタル童貞の俺にはさっぱりだ」

「うーん、まあ感想戦みたいな?」


 全国の将棋ファンに怒られればいいと思う。

 そして、菘は本当に昨晩の感想を語り始めた。基本的に俺をべた褒めする内容だったので、悪い気はしなかったものの恥ずかしいし、なにより余計に眠れなくなった。

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