第7話 偽善者になろう
「和田くん!」
二度目の言葉で我に返った。僕の名前を呼ぶ声は幻聴ではないとようやく気づく。振り返るとそこには走って近づいてくる南原さんがいた。
「さっきはごめん。和田くんが犯人じゃないって知ってたのに演技なんかして……」
その言葉は心を貫いて絶望に侵されている僕を殺した。そして実感する。
僕は生きているのだ。
胸の奥深くまで染み込んで離れない。この感覚に依存しないと生きていけなくなるような素晴らしさ。
あと数回この気持ちを味わえば中毒になるだろう。人に信頼されるのがこんなにも嬉しいなんて知らなかった。
「私は知ってる。和田くんは絶対に嘘をついてない」
この喜びを与えられる人間になるにはまだ道のりは長いだろう。だけど目指すのも悪くないんじゃないかな。なんて思えるほど衝撃的で印象的な言葉だった。
「あの時いた体の大きい人が笠原 熊雄(かさはら くまお)って名前。笠原の父親は国会議員で過保護なの。だから先生たちも簡単に手出しできないんだよ」
だから先生たちも無理矢理僕をねじ伏せようとしたのかと1人で納得する。それから関崎や先生が言っていた熊雄が誰なのかもようやく分かった。
「ありがとう。こんな僕を信じてくれるなんて…… 」
そう言って僕は南原さんに一礼した。今回の件は僕が被害に遭うだけで済んだからいいものの、また同じようなことが起きるかもしれない。
純粋な正義感が湧いてきた。笠原のいじめを止めたい。
「ちょっと質問してもいいかな?」
「いいよ」
「笠原が他の人をいじめてるの見たことある?」
「うん。笠原は気に入らないやつがいたら片っ端からいじめるよ。私みたいに」
彼女が嫌な気分にならないよう、いじめられていた理由は聞かなかった。
『起きるかもしれない』ではなかった。現在進行形で起きているのだ。どうにかして対策をしなければならない。しかし、超えるには高すぎる壁が連なっている。
権力と過保護を兼ね備えた主犯格の親、それに怯えて機能を放棄するどころか児童を間違った方向へ導く先生、笠原の周りにいる実行犯兼おまけのやつら。現時点でわかる障害だけでもこんなにある。
それだけではない、笠原のいじめを止めたとしても再開しないとは言いきれないから厄介である。後のことは一旦置いといて、今起きているいじめだけでも止めよう。
本当は直接教え込んだ方がいいのだろうが、相手には複数の仲間がいて人数的に無理だ。人を殴る勇気が無いのも理由の一つ。今回のように先生が相手になる可能性も上がるためでもある。
「ねぇ、さっきから何考えてるの?」
南原さんが立ち止まったまま動かない僕の顔を心配そうに覗く。
「ちょっとね。どうやっていじめを止めようか考えてた。南原さんも一緒に……いや、ごめん。何でもない」
僕は一緒に止めさせようと言いかけた。しかし、彼女を危険な道へ連れて行くわけにはいかないと思い、口を噤んだ。ただでさえいじめられていているのに、これ以上酷いことをされたらどうする。それに、この計画は大人に刃向かう可能性だってある。
今の時代、大人に刃向かうということは社会的な死を意味する。僕はともかく彼女には夢があるかもしれない。
「私も止めさせるの手伝うよ!」
「えっ」
薄暗くなった街に取り残された2人。フェンス越しに部活生の声が聞こえる。
「先生とかクラスメイトを敵にするかもしれないんだよ? 友達を無くすかもしれないんだよ?」
「友達なんていないし、いじめはダメだと思う! このままいじめられるのも嫌だし、1人じゃどうすることも出来ないから。それに、いい子ぶる絶好のチャンスだし?」
彼女は笑った。僕は少し戸惑ったが、しっかりと笑顔で返した。
「あと、下の名前で呼んでいいよ。そのかわり私も呼び捨てで呼ぶからね、啓太」
「えっ、いきなりなんで?」
「そ、それは……お友達になった印?」
そう言いながら彼女は照れた。
友達という言葉は暖かく、僕はそれをゆっくりと飲み込んだ。
「わかった。じゃあこれから一緒に偽善活動していきますか」
僕は手の甲を上へ向けて亜子へ腕を伸ばした。彼女も同じように手を出し、手が重なった。
「絶対にいじめを止めさせるぞ!」
僕は宣言した。
「「おぉ!」」
そして、掛け声と同時に重ねた手を勢いよく上げる。叫び声は大空へ溶けていった。
僕たちは狂っている。赤の他人を助けるために身を削ろうとしているからだ。この世界で一番愛おしいのは自分のはずなのに。
明日からはいつものように穏やかな生活を送ることはできないだろう。しかし、不思議なことに胸が熱い。今まで平凡な日々を送っていたからそう感じたのか、あるいは……。
想いは秋の冷たい風に吹かれてどこかへ飛んで行ってしまった。
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