第5話 出会いと覚悟の開始地点


 その日もまたいつも通りみんなより少し遅めの起床。いつものように昨晩の内に学校の準備を終わらせていたおかげで急ぐことはなかった。外に出ると息が微かに見える。まだ秋であるというのに、今日はいつもに増して寒い。太陽は雲に隠れてみんなに意地悪をしていた。風が吹くたびに震えてしまう。


 児童園から学校までは徒歩なら10分程度で着く。通学路では頭の悪そうなやつらが騒ぎ立てていた。秋休みを終えた児童達のテンションが狂い始め、謎の我慢勝負が流行り始めたのだ。


 雪は降ってないが、最低気温は3°の予報。それなのに男子は薄い長袖一枚だったり、半袖だったりと見ていて怖い。しかし、頭がおかしくなったのは男子だけではなかったと知るのはもう少し後のことだ。


 校門を抜けて校舎に入る。自分の靴箱にある上履きと靴を交換して教室へ向かった。学校は新館と旧館に分かれていて、新館には主に職員室と5、6年生の教室があり、旧館には1〜4年生の教室と多目的教室が並んでいる。そして、僕は6年3組のある3階へ足を進めている。


 5年生まではずっと1、2階の教室だったのに6年生になって初めて3階になった。そのせいで慣れないうちは遅刻しそうになったことがいくらかある。


 鐘が鳴る数秒前に教室に入り席に着く。先生も来て朝の挨拶をする。そして、何気無い日常が始まった。




 午前中の授業と給食時間が終わって掃除の時間が始まると、掃除の担当区である花壇へ向かう。騒がしい廊下を抜け、靴に履き替えた。外に出ると、冷風がお出迎えしてくれる。僕は鼻をすする音が隣を通り過ぎて元気よく走って行くのを見送ると、大きな雲に覆われた空を見上げた。今にも雪が降りそうな雰囲気だ。


 友達作りは上手くいっておらず、その不安を煽るような雲。ため息をついて視線を落とす。


 掃除時間の開始を知らせるチャイムが鳴ったにも関わらず遊び呆ける人が何人か伺える。それに比例して遊ぶ人を注意し、真面目に掃除をする人もいた。


 運動場と体育館の間を掃除することが僕の仕事だ。今日もいつものように1人きりの作業を開始しようとした。同じグループの人たちは男女問わず教室や廊下で暴れ回っている。いつものことだし、注意しても掃除するとは思えない。


「はははっ! ほらほら!」


「さすが、我慢強いね! ははっ!」


 いつもならただの騒ぎ声としか認識できなかっただろう。しかし、今日はそこにありえない光景を目の当たりにする。それは、人間の惨めさを酷く物語る光景だった。いつもなら自分のことばかりで他人が何をしようと、他人に何が起きようと気に留めることはない。しかし、今は違った。


 ホースを持っている坊主頭の男子の他、男女各2人が笑顔で馬鹿騒ぎしている。その目の先にはずぶ濡れの少女がいた。


「何やってんだ!」


 あまりの異常さに思わず叫んだ。日頃からこんな酷いいじめがあったなんて知らなかった。


「我慢比べだよ。見てわかるだろ。ああ、おまえも我慢比べしたいのか。だってよみんな!」


 明らかに常習犯だ。ということは、この光景は周りの人たちからすれば普通だったのかもしれない。


 集団の中でもひときわ大きな体格をした男子がこちらに意識を置いた。すると、全員の視線がこちらに集まる。


「い、いや、違うんだ。そういうわけじゃ……」


 これはまずい。僕までいじめの標的にされてしまう。と思い、一所懸命に首を横に振って否定した。


「なーんだ。つまんねーやつだ」


 坊主頭の男子がつまらなさそうに呟き、「そうだな」と同意しながらみんなの視線は元に戻る。僕は痛い目を見る前にこの場を離れようとした。


 敵を作るのが怖い。だから、だから今回は……。


 水の弾ける音は止むことを知らず、耳を塞ぎたくなる。しかし、いじめの標的にされるのは嫌だ。


 でも……。


「なぁ、我慢比べなんてやって楽しい? 彼女が辛い思いするだけだからやめた方がいいと思うけど」


 思考が行ったり来たりを繰り返した結果、穏やかに事を収めようと試みた。短時間で考えた割には良い策だなと自画自賛出来る。


「こいつは我慢するのが好きなんだってさ。だからやってんだよ」


「そうだよ、そうでなきゃこんなことやんないよ。それにいつものことですし」


 ポニーテールの女子と眼鏡の女子が反論する。作戦は失敗に終わった。


「おまえさ、ウザいんだよ。用が無いならさっさと消えろ」


「……」


 体格の大きい男子がイラついたような顔でこちらを見下ろす。僕が黙り込んで数秒間、少女への水撃は止まった。今のうちに逃げればいいのに……。そう思ったが、彼女はそんな素振りを見せなかった。


 短く清潔感のある髪からは水滴が落ち、目からは冷水とは違う何かが溢れているような気がする。彼女が瞼を開くと、冷静かつ優しそうな瞳がその姿を現した。よく見るとわかった。あれは泣いているのだ。完全に泣いている。しかし、そこには強さがあった。言葉では言い表せないが、心を動かす何かがある。


 坊主は思い出したように少女へホースの口を向け直した。知らない誰かがいじめを受けている。彼女を助けたとしてもまたイジメられるかもしれない。それだけではない。標的に僕も追加される可能性もある。


 もしかしたら彼女は性悪だからイジメられてるのかもしれない。何かしら恨みを持たれていじめられているのかもしれない。こんな大きなリスクを背負ってまで助ける必要はあるのだろうか。


 風が吹いて花が揺れた。それと同時に「寒っ!」という声が後ろから聞こえる。彼女はどれほど寒いだろうか。きっと、僕の感じている温度と天と地の差があるだろう。


『勇気を出して一歩踏み出してみて。それだけであなたの未来も変わるかもしれない』


『今、おまえの力を必要としてる人がいる。ならどうするか、考えてみろ』


 両親の声が聞こえたような気がした。手紙に書かれていた内容も思い出す。助けたとしても見返りなんて求めちゃいけないと強く念を押す。どうせ友達付き合いとか無いし、恥とかプライドとかさっさと捨ててしまえば楽になれるだろうと思った。そんな心にも無い理由を添えて決意を固める。最後に平穏な学校生活へ別れを言う。


 さようなら。僕の平和で孤独な学校生活。


「なぁ! やめろって言ってんだろ、このゴミ共! さっきから穏やかに解決しようとしてたらなんだ、言い訳ばっか。少しは恥を知れ!」


 わざと荒く大きな声で叫び、静かな校庭を震わせる。彼らは計10個の攻撃的な眼差しを送ってきた。


「はー? おまえウザいな。こいつにもかけてあげようぜ」


 体格の大きい男子が一番に反応する。


「そうだね、やっちゃお。ムカつく」


「ほんとに、偉そうな事言いやがって」


 それに続いてポニーテールと目つきの悪いボサボサ頭が怒りをあらわにした。狙いが変更され、実行犯である坊主がホースの口を潰したままこちらに噴射してきた。容赦無く飛んでくる冷水が寒さに拍車をかける。しかし僕は他の感情に押さえつけられる前に走り出していた。


「なっ」


 坊主頭が驚きを隠せずに変な声を出す。ホースを奪い取るのに5秒もかからなかった。女子とか関係無い。いじめを見過ごして一緒になって楽しんでいたのだ。許さない。こんな時はやられる側の気持ちを直接教えてやるのが1番効果的だと思った。


 いじめっ子に水をぶっかけると全員悲鳴を上げながら逃げて行く。逃走中の背中も濡らし、次々と服の色を変える。いじめっ子たちに水が届かなくなるまで逃げられたので一息ついて蛇口を捻った。


 今頃になって耐えようにも耐えきれない寒さが心身を襲う。それから緊張から解放された時の脱力感があった。彼女もこんな思いだったのだ。否、もっと長く、じわりじわりと苦しんだのだ。そんな彼女の痛みなど僕が語ってはいけない。


「その……大丈夫?」


「うん。大丈夫。その……ありがとうござい、ます」


 そう言って彼女は一礼する。相当寒かったのだろう、口も震え、声も途切れ途切れで、相当弱っている事がわかった。


 とりあえず彼女の教室である6年1組へ行って体育着を持たせる。その後僕も着替えを持って一階にある保健室向かった。その途中、ビショビショに濡れた僕らを見て笑い者にするやつらがいた。


 やはり人間とは悲しい生き物だ。困っている人を見下して優越感に浸って何が楽しいのか理解に苦しむ。もちろん、僕たちを心配してくれる優しい人もいた。そこで人それぞれ違うのだと実感する。きっと僕の運が悪いせいで勝手な偏見を持ってしまったのだろう。


 保健室に着き、彼女にトイレで着替えるよう言うと彼女は控えめに頷く。その間に僕も着替える。彼女が着替え終わってトイレから出てきた。彼女が寒そうにしていたので、僕の教室に置いていたジャンパーを着させた。「ありがとう」と言いながら彼女はジャンパーを着た。


 サイズは丁度良い。たしかに僕は小柄だが、女子とあまり変わらないというのはさすがに恥ずかしい。暖房をつけてその前に椅子を用意して彼女を座らした。タオルで頭を拭く彼女に訊く。


「ねぇ、なんでいじめられていた時、逃げなかったの?」


「うーん、なんでって言われても……。逃げてもどうせいじめられるから。それに、あなたが助けてくれると思ったから」


 どうして。その言葉が脳内を暴れ回る。赤の他人を信じるなんて僕には到底出来ない。もしかしたら彼女の期待を裏切り、いじめに参加する可能性だってあった。いや、いつもの僕は『見て見ぬ振り』といういじめをしていたのだ。なのに……。


「なんで僕を、全く知らない赤の他人を信じることができたの?」


「あなたが最初に声をかけた時、助けたいって気持ちは伝わってきたよ? だから、あなたは私を助けてくれるって思った」


「ありがとう。こんな僕を信用してくれて」


 嬉しかった。少し照れくさいという感情もある。彼女となら仲良く出来るような気がした。これはきっとチャンスである。本で得た知識を絞り出すため脳内会談を開く。どうやって仲良くなるか悩んだ末に出た結論は。


「僕、和田啓太って言うんだけど、君は?」


 名前を聞き出すということだった。静かな保健室に男女2人きりの状況ということを意識した瞬間、心臓の動くスピードが速くなった。彼女に聞こえてないか心配するほどリズムを刻む音は速くなる一方。


 今、どうして意識したのかわからない。しかし、そのままでは頭がおかしくなりそうだったので、気分を紛らわそうと部屋を見渡す。ベッド、カーテン、机、電灯、窓……。


「私は南原 亜子みなみはら あこ。よろしくね」


 そう言って彼女は笑った。ふと我に帰り、外にあった目線を戻す。彼女の笑顔はさっきまでの『冷たい』という印象をぶち壊すほど可愛いかった。


 大きくクリクリした垂れ目からは綺麗な瞳がこちらを覗く。健康的で柔らかそうな唇で、比較的小顔で小さな涙袋が彼女の良さを引き立てる。


「もし、良かったら……その、友達になってください!」なんて言葉は喉に到達する前に胸の内に隠れてしまった。代わりに無難な返答をする。


「こちらこそ、よろしく」


 僕の言葉の後に出来た沈黙の中、掃除時間の終わりを告げる放送が響く。それに反応して彼女が立ち上がる。


「今日はありがとう。じゃあ、またね」


 細長くて綺麗な指を、見せつけるように揺らしながら保健室を出て行く。


「あ、うん、またね」


 呆気にとられたまま無意識のうちに手を振り返す。彼女の背中を見届け、ドアが閉まる音と共に力が抜けた。ここまで緊張するのは初めてで、なかなかの喪失感が脳内を占領する。空に浮かぶ雲になった気分だ。


 これが僕の始まり。終わりへの始まりなのだ。


 今日はいじめという雪に埋もれていた南原さんを助けた日。そして彼女と初めて出会った日。僕の物語の開始地点なのだ。

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