救済者 四
私が天会寺を訪れた頃には、時刻は19時をまわっていた。生暖かい風を浴びながら寺の前の石段を登り、山門を潜ると、優里香が庫裏の前に立っているのが分かった。私の姿を見咎めると、人差し指を口にあてながら、大きく手招きした。静かに来いとの事だろう。
「維純ごめんね、置いてっちゃって・・・。師匠たら、私を無理やりひきずっていくんだもん」
優里香が不満そうな顔で言う。彼女は私の事は怒っていないようで、その事に少しだけ安心した。
「狛井さんと一緒にいたから帰ってこれるだろうとは思ったけど」
「うん。狛井さんに送ってもらったよ」
と言っても、車で送ってもらったのではなく、二人してタクシーで帰ってきた。彼は車の免許を持っていないらしい。交通の便があまりよくない場所に住んでる上に、男の人が免許を持っていない事に少し違和感を覚えたが、特殊な身の上である以上、何か事情があるのだろう。
私の言葉の後に、沈黙が訪れる。ひぐらしの鳴き声が、やけに耳に響いた。
「・・・為辺さん、怒ってるよね」
私からそう切り出すと、優里香が静かに「・・・うん」と返した。
彼女の様子から見るに、為辺さんの怒りは尋常じゃないように思えた。だから優里香も、その事を伝える為に、外で私を待っていてくれたのだろう。
そうでなくても、勝手に浄霊を依頼した事。狛井さんを連れてきた事。これらの材料から、彼が激怒する事は、容易に想像がつく。
「・・・兎に角、私謝るよ。浄霊を頼んだ事を後悔はしてないけど、為辺さんの依頼を奪っちゃったあげく好き勝手やっちゃったわけだし。百パーセント私が悪いから」
そう言いながら、私はゆっくりと引き戸に手を掛ける。覚悟していた事とはいえ、やっぱり怖い。
優里香と一緒に静かに入り、彼女に連れられ廊下を進む。案内された先は、リビングのようで、私は初めて入る場所だった。為辺さんは、こちらに背を向けて座っていた。
「あの、為辺さん」
私は意を決して、彼の背中に声を掛ける。為辺さんは微塵も動かない。
「勝手な事をして、すみませんでした」
私はそう言って、頭を下げた。為辺さんの方から、物音が聞こえた。下を向いているので見えないが、彼が、椅子から立ち上がって、こちらを睨んでいるのが分かった。
「もう今後、このような事はしないと約束出来るか?」
低く、厳かな声でそう言われ、私は頭を上げた。彼の顔は怒りに満ち満ちていたが、なんとか抑えようとしているようにも見えた。少なくとも、狛井さんを見つめていた時の後ろ姿とは、比べ物にならない。
「いいえ。出来ません」
私が正直にそう告げると、斜め後ろにいた優里香りが身じろいだのが分かった。一方の為辺さんは、こちらを睨みつけたまま表情を変えない。
「確かに霊は、無差別な悪意で、人に害を及ぼします。でも、一概に全てが悪い霊じゃありません。そうなるに至った理由が、ちゃんとある霊だっているんですよ。だから、全てを浄化する事は無理でも、ちゃんと浄化出来る霊は浄化した方がいいじゃないですか」
私はそこで、一旦言葉を切る。そして、更なる怒りを買う事を覚悟で、言った。
「調伏に手間が掛かるっていうんだったら、また狛井さんに頼めばいいじゃないですか。今回みたいに、簡単に浄霊出来る場合もあるんですから」
私が狛井さんの名前を出すと、為辺さんは一瞬目を見開き、そして、一層強く私を睨みつけた。それでも、私は言葉を止めなかった。
「あの人は、呪術を生業にはしていません。霊を救おうとしています。なんでそんなに狛井さんに冷たく・・・」
「お前に」
突如、為辺さんが割って入った。
「お前に、何が分かる」
凄まじい怒りの表情を浮かべながら。
体の芯が冷えるような心地がした。彼は、ゆっくりと私に歩み寄る。溢れんばかりの怒気に怖気づいたのか、後ろで後ずさる音が聞こえた。私は、負けじと為辺さんを見つめる、いや、同じように睨みつけていたかもしれない。
「あの人は、残り少ない人生を、日々を踏み締めて生きていこうと頑張っています。自分にしか出来ない、浄霊で。その事を、少しは分かってくれても・・・」
そこから先は、声に出す事が出来なかった。一瞬、何が起こったのか分からなかった。吐き気を感じ、蹲る。口からは唾液が漏れていた。背後から、「維純!」と心配するような声が掛けられた。私はその場で荒く呼吸をし、ゆっくりと顔をあげる。
為辺さんが侮蔑するような目で、こちらを見下ろしていた。その時、彼に喉を殴られたのだ、と分かった。
「維純、大丈夫?」
優里香が私の右肩に手を置き、もう片方の手で背中をさすってくれた。私は彼女の慰撫に甘えるように、体の力を抜き、尻餅をついた。
「もういい」
為辺さんを見上げる私を、彼は見下しながら、言った。
「お前は、破門だ」
私は、為辺さんを見つめ呆けていた。暫しそうした後、立ち上がり、頭を下げる。
「お世話になりました」
そう言って、私は踵を返した。後ろで優里香が、為辺さんに責めるような口調で、何か言っているのが聞こえる。恐らく、説得しようとしてくれてるのだろう。しかし、万が一彼が考え直したとしても、私は戻る気は無かった。彼の、こちらを否定する様なあの目。心の底からの拒絶。私は、もう彼とは分かり合えないのだと分かった。
寺の前の石段を、ゆっくりと降りる。
喉が痛いな、と思った。それ以外には何も考えず、降りていく。
踊り場に差し掛かった時に、ふと、狛井さんの言葉を思い出した。
――君はさ、今までこの場所から空を見た事はある?――
――自分は夕方の空が好きでね、出に会えないで帰る時も、いつもここで空を見てから帰っているんだ――
そういえば、彼にそう言われたものの、一回もここで空を見た事がなかったなと、展望スペースに目を向ける。時刻は19時半になろうとしているが、まだ七月初旬な事もあり、まだ夕方と言えるだろう。
最後なんだし、狛井さんお勧めの夕方の空を、見ておこうと思った。
手摺りを握り、空を見る。
日は既に、地平線の影に隠れていた。しかし、空の中程に固まった雲が、日の光を映し赤紫になっていた。その少し上には、ちぎれちぎれになった薄い雲が散らばっており、その後ろの空と重なり、赤よりも青に近い紫色をしていた。
素直に、綺麗だと思った。
私は今まで、空を見て綺麗だと思った事があっただろうか。
無心に空を見つめていると、淡い紫に重なるように、星が瞬いているのが見えた。金星だろうか。
私はその暮れゆく空に光る唯一つの星を、雲の紫が濃紺に染まるまで、見つめていた。
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