救済者 二

 狛井さんと為辺さんは、霊を挟んで、暫し見つめ合った。いや、為辺さんの方は、恐らく見つめているというより、睨んでいるのだろう。私からは彼の後ろ姿しか見えないが、その立ち姿だけで、為辺さんが激しい怒りを狛井さんに向けている事が分かった。

 狛井さんは口元に笑みを浮かべながら、おどけたように言った。

 「出、久しぶり。君ってば、中々会ってくれないんだもん」

 「黙れ」

 しかし、それに対する為辺さんの返事は、極めて冷淡なものだった。冷淡?いや違う。そんな一括りに出来るようなものではない。彼の声は、憎悪、殺意、悲憤、挙げきれない数多の感情が渦巻いているようだった。

 視界の端で、優里香が身震いをしたのが分かった。かく言う私も、震えはしなかったものの、戦慄した。動じなさには自信のある私でさえ、だ。

 「この・・・!」

 為辺さんは声を震わせ、今にも叫び出しそうな勢いをつけて言ったが、そこで一旦言葉を切る。為辺さんの肩が小刻みに震え、矢庭に、力を抜いた。昂る気持ちを抑えるようとしているのだろうか。そして、静かに、しかし確かな激情を含ませ、言う。

 「・・・・・・呪術師が」

 ――呪術師?――

 私はその言葉に、目を見張る。

 しかし狛井さんは特に動じる事もなく、にっこりと微笑んで言った。

 「まあ、兎に角今はさ、息子さんの霊を先にどうにかしてあげようよ。・・・折角お母さんにも来てもらってるんだから」

 「何!?」

 狛井さんの言葉に、為辺さんが喫驚きっきょうの声をあげる。狛井さんは入り口から少し体をずらす。すると、木下さんが入り口の前に歩み出た。

 「失礼します。家に居るのは息子の霊で、成仏させる為に私が必要との事でしたので」

 木下さんのその言葉を聞き、為辺さんが怒気を含んだ顔で私を振り返った。

 「すみません、私が呼びました」

 私は正直に答えた。

 そう。今日の午前中、鍵を受け取りに行く際に、私が事情を話したのだ。承諾した木下さんは、私達が病院を去った後、狛井さんと一緒に家に来た、という訳だ。

 「木下さん、すみません。まずは自分が、和樹君と対話をしたいと思います。少し待っていてください」

 狛井さんは木下さんにそう言って、部屋の中に入ってきた。男の子の霊はこちら側を向いているので、彼の正面に回り込む為だろう。為辺さんは歯痒い面持ちで半歩下がった。木下さんのいる前で、狛井さんの浄霊を邪魔するわけにはいかないからだろう。

 依然として苛立たし気に歩を進める男の子に、狛井さんは優しく声を掛ける。

 「和樹くん、聞いてくれるかな?ごめんね、閉じ込めちゃって。苦しいよね」

 そこで私は、狛井さんは現世にいないのだと直感した。

 ――自分のやってる浄霊っていうのはね、自分自身が霊界に入って、霊に直接干渉するんだよ――

 いつかの彼の言葉を思い出す。

 「和樹くん、君は凄い子だよ。だって、諦めないんだもん。自分はね、すぐに不貞腐れる子だったんだ。だから、不満があっても我慢して、どんどん新しい事に挑戦していける君が、凄く眩しいよ」

 彼の諭しは、言葉だけ聞くと、別段心に響くものではなかった。しかし、何か、今まで感じた事がないような、不思議な感じがした。冬に浴びる日差しのような、じわじわと、包み込まれていく感覚がした。

 ――霊が負の感情の念力で人間に不安を感じさせるなら、自分は正の感情の念力で、霊に安心してもらえばいいんだよ――

 ああ、そうか。これが。

 「宵村さん」

 ふいに、声が掛けられる。

 少しだけ惚けていた私は、自分の役割を思い出し、後ろにある段ボール箱の中に手を伸ばした。目的の物を手にした私は、彼らの横をすり抜け、木下さんへと向かう。私は目的の物――硬筆の紙を無言で手渡し、彼女も同様に無言で受け取る。木下さんは無表情でそれを見るが、みるみるうちに顔を歪ませ、涙を浮かべた。

 「ああッ・・・あ」

 木下さんはその場でしゃがむような動きをするが、中腰にとどめ、姿勢を戻した。

 「和樹くん、後ろを見てごらん」

 狛井さんが笑顔でそう言うと、男の子は素直に振り向いた。

 いつの間にか、私の張った結界が解けている。まだ結界が解ける程時間は経っていない。とすれば、狛井さんが解いたのだろうか。

 男の子の表情は、初めて会った時と同様、無表情だった。しかし、その時とは違い、怒気を少しも含んでいなかった。

 「ごめんねぇ、ごめんね・・・」

 木下さんは涙声でそう言いながら、ゆっくりと男の子に歩み寄る。

 「和樹のこと、見てあげられなくてごめんね。私、和樹に甘えてたの。しっかりしてるから、見てなくても大丈夫だって、そう思ってたの」

 木下さんはそこまで言うと、言葉を止め、少しだけ嗚咽を漏らした。

 「・・・和樹の字、凄い綺麗だよ。こんなに上達してたなんて、私、知らなかった・・・。頑張って書いてくれたのに、ろくに見なくてごめんね・・・。貴方の物を片付ける時も、辛くて辛くて、ろくに見ずに片付けてたのッ・・・。悲しい思いばっかりさせて、本当に、ごめんねぇ・・・」

 そこまで言うと、木下さんは、その場で泣き崩れた。男の子の目の前で、思い切り泣き喚く木下さん。そんな母親を見つめる男の子の顔は、どこか穏やかだった。

 「・・・もう、いいよ。母さん」

 男の子はそう言って、母親を抱きしめた。彼の腕が、母親に触れる事ができたのかは分からない。それでも、彼の温もりは、間違いなく木下さんを包んだのだろう。木下さんはしゃくり上げながらも、震える腕で息子を抱き返した。男の子を包む彼女の腕は、しっかり彼に触れているように見えた。

 恒久にも似た刹那、二人は抱き合い――――そして、男の子は消えた。

 光に包まれて消えるというような、浄化という言葉から連想されるような消え方ではなく、一瞬にして消えるという呆気ないものであったが、それでも、恐らくそこにいる誰もが、彼は浄化されたのだと、確信しただろう。

 そして、それまで家に渦巻いていた重い苦しい空気が、フッと軽くなったのを感じた。

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