第3話【灯無蕎麦1】

「今日は珍しい来客が続くことよ」

 警戒していた鬼ケ原先輩は安堵の様子である。

「貴君はもう出てきて良いぞ」

 そう言われて私はおそるおそる本棚の陰から出て行った。

 彼女は私をちらりと見て会釈をしたので、私も簡単に返した。

 驚いた事に、彼女からは狐のような尻尾が生えていた。相当先程の酒が効いているのかと思われた。

「なんだ、この女性は貴君の知り合いかね」

 彼が私に尋ねる。

 事の顛末を簡潔に話そうとしたが、目の前の彼女に辱めを受けさせては悪いと思い、上手く言葉が出てこない。すると彼女が先に口を開いた。

「今朝、恥ずかしながら私の手持ちがなかったため、助けて頂きました」

「つまり、貴君は恩人というわけか。成る程成る程。面白いではないか」

 鬼火を灯した酒を喉に流し込んで、一拍開け、追って質問をする。

「して、貴女は何故ここへ。彼は縁があるから別としても、迷ってここへ来ることはないはずだが」

 彼女は今朝のように俯いて顔を赤くしながら答える。

「本当の事を言うと、お力を貸して頂きたく参りました。既にお察しの通りですが我が家は稲荷神から呪いを受けております。そのため、その神使である狐様との半妖状態になってしまいました」

 彼はいつの間にか、煙管から吸い込み、ゆっくり一服をしていた。

「その呪いというのは?」

「はい、もともと稲荷神は五穀豊穣を司る神であります。そのため、罪滅ぼしとして私の中に居ります狐様の胃を満足させなければなりません」

「胃を?」

「はい、夢の中で御告げがあるのです。それは食材であったり、甘い辛いなどの感覚的なものであったり、料理であったり様々なのですが。それを狐様が満足するように食べなければならないといった罪滅ぼしの呪いです」

 もう一度煙管を咥えて、今度は短く吐いた。

「成る程。しかし、それが出来ないとどうなる」

「母は先日、それが故亡くなりました」

 目を一度だけ伏せて彼は言った。

「それで今は貴女の役目になったという事だな」

「その通りです。そして、この呪いは世代を下る毎に強くなっているようで、母の時は一流と呼ばれるお店の食事でしか満足は出来なかったようなのです。そして今は私の役目になり、きっと普通の食事では満足出来ないのだと途方に暮れておりました。そんな折、ここに向かって助け乞うようにと宛名のない手紙が届いたのです」

 私はただ目の前で行われる会話を舞台を観に来た観客のように聞いていた。不意に彼が私を見て言った。

「貴君をどうしてここへ来させたか分かったよ。この一件、手伝ってはくれないか」

「え、何をすれば」

「私はここで勉学に励むのに暇が無く、離れる訳にはいかないのだ。かと言って、儚げな彼女一人で行かせるわけにはいくまい。貴君さえ良ければ彼女と同行してはくれないかな」

 彼女はまたもや耳まで赤くして、私に軽い会釈をした。

 私は今朝と同じように、反射的に了承してしまったのだった。

「早速で申し訳ないのですが」

 手を恐縮そうに胸の高さほどまで挙げてみせて、発言する意思を見せた。

「蕎麦なのです。今日、初めて御告げがありました。蕎麦を食べたいとのことなのです」

 私は今朝の事に合点がいった。これだけ華奢な身体にあの量の蕎麦は致死量と言わざるを得ないのだ。

「あ、そう言えば、先程引き出したのでお金をお返しします!」

 彼女は重ねて申し訳なさげに深々と頭を下げたのでこちらが恐縮するほどであった。

 彼が提案する。

「なれば、灯無蕎麦あかりなしそばの狸蕎麦は如何かな」

 聞きなれない言葉である。

「夜にだけ現れる店で、店先に出ている行灯の火は常に消えている。また、店内は人の気配など一切ない完全な暗闇である。一見するとただの空き家に見えるだろう」

 彼はまた煙管を口に咥える。

「注意しなければならないのは、灯を絶対に付けてはならぬことだ。暗いからといって付けるとその者には必ず災いが起きるとされている」

 まるで吐き出した煙に映し出されているかのように、思い出すように話す。

「そこの店主は狸の妖であるのだけれど、出てくる狸蕎麦の味は格別であるぞ。行ってみる価値はあるぞ。少しばかり厄介かもしれないが」

 そう言って、手慣れた様子で墨を磨って、和紙のような紙に地図を書いた。

「ここへ、夜の十二時過ぎに向かえば食べられるはずだ」

 紙を受け取り、彼女は深々とお礼を言った。次いで私にも深々と頭を下げた。

「巻き込むような形になってしまって申し訳ございませんが、これからよろしくお願いします」

 夜に大学の前で待ち合わせをする事にして、彼女は部屋を後にした。

 彼はこちらを見て、何故か嬉しそうな顔をしている。

「何ですか」

「いや、狐と虎、縁ある二人の今後が楽しみでね。そうだ、折角行くのならお土産を貰ってきてくれないか」

 煙管の火皿の灰を落とし、手入れをしているようであった。

 こうして、私の大学生活の幕は、半ば強引な対外的圧力を持って降ろされたわけである。

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