第2話【鬼と酒】

 大学のキャンパス内では既に式が終わったのか、わらわらと人でごった返していた。一瞬、人波の中に赤い雅な着物が見えた気がしたが泡沫の如く消えてしまった。

 私は鬼ケ原先輩に会いに行かねばならない。鬼ケ原先輩は姉の友人である。姉が入学した時から既に居たらしく、その勉学への一途な、熱気溢れる気概からなのか未だに大学を巣立とうとはしていないようだ。入学式に行く前、姉に告げられた。

「どうせあなたは友達も出来ないのだから、鬼ケ原でも訪ねなさい。そして、これを渡してきて」

 そう言って渡されたのは小さな小包であった。中身は何かと聞こうとしたが、姉は要件を伝えるだけ伝えてすぐに居なくなってしまった。

「我が姉ながらなんて的確で身勝手な」

 そう呟きつつも、入学式の熱に魘される人波をなんとか乗り越えることができた。事前に鬼ケ原先輩は元学生寮にいるということを聞いていた。この元学生寮というのは木造であり、時計塔のようにそびえ立っている構内の最果てにある場所のことである。その昔、大学側と学生との間に結ばれた協定によって希望する学生が一人でも居住している限りは取り壊すことは出来ない決まりになっているらしい。御察しの通りその最後の一人が鬼ケ原先輩である。

 重々しい扉を開けると軋む音が大きく響いた。見上げると壁に沿って階段が螺旋状になっており、その最上階に鬼ケ原先輩は住んでいる。

「何故こんな面倒な」

 と運動不足の私が呟いてみても悔しく反響するだけであった。

 最上部に着くと何があるかと思いきや、簡素な扉が一つあるだけであった。呼び鈴などは特になく、扉は半分ほど開いていた。室内は暗く、何も見えない。

「ごめんください、誰か居ますか」

 尋ねたけれど返事は無かった。ここまで苦労をして上がってきた手前居ないからと言って納得する訳にはいかない。せめて、姉から託された小包くらいは置いていこうと思い中に入っていった。

 一歩踏み出したらもう戻れなくなるのではないかと思われるほどに暗く、左右上下の方向感覚は直ぐに失われた。こうなってはもう何かにぶつかるまで歩くより仕方がないので、意を決して歩みを進めた。このような広い空間があるのだろうかと思われるほど歩かされた。もしかすると私は大変な事態に陥っているのではないか、このまま誰にも発見されずに暗闇の中人生の幕を降ろすことになってしまうのかと半ば諦念に似た決意をしようとした正にその時だった。遠くにぼんやりとした明かりが見えた。

 そこを目指していると徐々に視界が開けてきた。

「やあ、客人なんて珍しい。良くここまで来れたじゃないか。普通の人間は来れないようにしているはずだが」

 そう話すのは年季の入った着物をだらりと着た、髪は白髪で年齢不詳といった雰囲気の男性だった。彼は何故か机の上に椅子を置いて座っていた。

「あなたが鬼ケ原先輩でしょうか」

 そう聞くと、ゆっくりとこちらを見下ろすようにして答える。

「如何にも、私がこの大学に住み着く鬼ケ原である。貴君は何者かな」

「私は姉より預かったこの荷物を返しにきました」

「姉? もしや、貴君は虎かな?」

「はい、確かに氏は千虎と言います」

 彼は椅子から立ち上がったと思いきや、ふわりと浮かび、ゆっくりと床へ降りてきた。私の顔をこれでもかと覗き込み、口元はにやけている。

「これは、めでたい。ああ、めでたいぞ。そうか、彼女の弟か。確かにその無愛想な顔は似ているかもしれない。して、貴君は酒は飲むのか。彼女は見事なものだったが」

「嗜む程度には」

 そう答えると、部屋の奥へ入っていき、何かを探しているようだった。

 それまで気が付かなかったが、よくよく部屋を見渡すとそこら中に本が散らばっている。また、種類もばらばらで百科事典や研究書、詩から児童文学に至るまであらゆる物が散乱している。まるで図書館をひっくり返したかのような状況である。

 彼が戻ってきた時には、その手に手のひらほどある盃が二つ持たれていた。

 そこへ、腰にぶら下げている瓢箪から酒を溢れんばかりに注ぎ入れ、渡してきた。

「良き日に」

 そう言うと、彼は手を私の持っている盃にかざした。すると水色に近い炎が水面より立ち上り、稚鮎の腹にも似た爽やかな香りが辺りを満たした。

「鬼火を見るのは初めてかな。こうするとより酒が美味になる。熱くはないからこのまま飲めるぞ」

 私は一気にそれを飲み干した。確かに熱は感じなかったが、喉を通っていく、粘性が高いのかと思われるくらいとろみを帯びたその液体はそれまで飲んできた酒とは一線を画したものであった。

「どうだ、気に入ってくれたか」

 私は余韻を楽しんでいて返答を忘れていた。それほど夢中になる味であった。

 それから姉からの小包を渡し、少し彼と姉のことなど話をしていた。

 すると、突然それまでの会話が止み、彼は声を小さくして伝えた。

「何か来るぞ。貴君は奥の本棚の後ろへ隠れていなさい。これは妖の類だ」

 唐突に言われた私はふらつく足元でなんとか本棚の後ろへ隠れて様子を見た。

 彼は私が入ってきた扉を見つめ、警戒しているようだった。

 暗闇から、からんと下駄の音がした。

 息を飲む音が聞こえるほど、部屋には緊張の糸が張り巡らされている。只事ではないことだけは酔った私の頭でも理解ができた。

「何者だ」

 彼が刺すような声で尋ねた。

 暗闇からは晴れやかな赤い着物を着ている女性が現れた。

「あの、すみません、迷ってしまって。そうしたら、なんだか香ばしいような匂いにつられて来てしまいました」

 彼女は今朝蕎麦屋であった女性に違いなかった。

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