過去

彼女の家は、お世辞にも裕福といえるような家庭ではなかった。

父は仕事も碌にせず、酒を飲んだくり知らない女をひっきりなしに家に連れ込んでいた。

更に、響の姉草間 楓は、仕事をクビになって実家に帰ってからは遊びにふけっているし、家の光熱費やらなにやらを上げに上げていた。


そんな状況にも関わらず、離婚も叱りもなにもしないで、母は働き続けている。家に帰ってくるときは、月に一度お金を家に置いていくときだけだった。







響の食事は一日に一度あるかないか、家事全般をこなした上で父の機嫌が良いときに与えられる。だからか、姉は家で食事を取ることはなかった。


家にいると、父か姉のどちらかが機嫌が悪いときに一日中ベランダに閉じ込められたり、姉がよく吸う煙草を体中に火消しのために押し付けられたりもした。酷い時には、床を舐めるように命じられて断れば、小さい子供が好きな大人に売りつけると脅されていた。酒に酔えば、湯船に顔を無理やり抑えつけられたり、酒瓶で頭を殴られたりすることが当然の如くあった。




泣いてなどいられなかった。泣くともっと痛めつけられる事を知っていたから。

味方なんていなかったし、助けを求める気力なんてなかった。

そうしてくうちに、それが当たり前だと思うようになっていた。







それがおかしいと思い始めたのは、小学生から中学にあがってできた友達の家に無理やり遊びに連れて行かれたときだった。



その友達の家は、彼女の目にはとても綺麗に見えた。温かく出迎えてくれる彼女の母親は、ヤツれてもいなければ虚ろな目もしていない。響が知っている母親とは随分と違っていた。それに、彼女の母親は一日中家にいるようだったし、怖い父も姉もいなかった。







純粋に羨ましかったのと同時に自分の家がひどく汚いように思えた。

それからは、友達はできても遊びにいく事はなくなった。

自分の家の現状を大切な友達に知られたくなかった。知られてしまえば最後、蔑まれるような気がしていたから。









そうしているうちに父が行方を暗まし、姉が自分の家庭を持つようになった。

そして、母は家によくいるようになっていた。家には、響と母の二人。

食事は、一日に一度あるかないかだったのが三食に変わった。

家事も母がいないときは響がやるようになっていた。


突然変わった家のことを、特に気にも留めず、単純に嬉しく思っていた。あのときの友達の家庭に近づけていると思うと不思議と気分が高揚していた。





<視点の変更(響)>

かれこれして一年以上経ち、父のことも姉のことも忘れ去っていた頃。

そんな私のもとにある事が起こった。





その日、高校受験を間近に控えていた私は自室で勉強をしていた。時間が経ち、少し休憩しようと思った私は、最近愛読している本を開こうとしていた時だった。


母の部屋から誰かとの会話が聞こえてきた。

部屋を隔てる壁は、案外薄いらしくなにかと生活音が聞こえてしまうのは珍しい事ではなかったし、電話をしているときの話し声が聞こえてくるのは日常的に当たり前のことだったからそんなに気にしていなかったのだが、








聞き流すにしては、衝撃的すぎる言葉が私の耳に無作為に乱入してきた。







「お金が必要なの?いくら?」






ハッキリと母の口から紡がれたであろう言葉を咀嚼するのには随分と時間がかかった。

壁越しでなければ、どういう意味で言ったのか慌てて問い詰めていただろう。






まだ混乱している私に追い討ちをかけるように母は続ける。もう気にも留めずにいることはできなかった。私の心臓は、勝手にドクドクと嫌な音を立てて、静かに次の言葉を待っていた。








「何に使うの?…え?友達と遊ぶため?家賃は?」







その言葉を聞いたとき、ある人物の顔が浮かび上がってきた。

私の姉である、草間 楓だ。久しく思い出したことで、余計な過去も一緒に蘇る。途端に喉に異物がせりあがるのを感じた。




そこからの行動は早かった。急いで二階に下りて、トイレに駆け込み吐き出す。

ひとしきり吐いたおかげで、落ち着きを取り戻すと無意識に自嘲的な笑みを浮べていた。母と二人で暮らすようになって、最初の頃はよくしていたことを思い出す。



意識を集中して、想像の中にあいつを作り出す。そして、自らの手でぐちゃぐちゃに壊した。





一階に母が下りてくる気配を感じて、その場から立ち上がり母の元へ向かう。






母を視界に収めると、手に財布を握っていた。





自分の体温が急速に下がっていくのを感じる。そして、自分でも信じられないくらいの苛立ちが込み上げてくる。








「ねぇ、何それ。こんな夜中にお財布持ってどこ行く気?」







私の言葉に少しうろたえながらも母は、はにかむ様に笑って、







「ちょっと、楓のところに行こうと思って」







と言ってくる。





その瞬間、今の幸せをあいつに壊されてしまうのではないかという恐怖に襲われた。

後もう少し、もう少ししたら母が最近うまくいっている男性と再婚して、いつかみた綺麗な家庭の一員になれると思っていた。

怖くて仕方がなかった。唯一の夢だったから、なくなってしまうのが。








「お金なんて、貸さなくていいよ!自業自得じゃない!」




「それでも家族だから…ね?」




「あの人が、何かしてくれた?いつも自分のことだけ、こっちのことなんか省みない!そんな奴に貸す必要なんてない!」




「あの人じゃないわ、お姉ちゃんよ響。」




「…姉だって思いたくもない。」







バシンッ







私がそう言った途端、母が蔑むような目で私を見て頬をおもいっきり叩いてきた。

あまりのショックに言葉が出ず、母を見つめるばかりになってしまった。






なんで、どうして。言いたい言葉は、全部喉から出る事を許してはもらえなかった。









「ほんと。最低な子ね。家族を家族と思えない人とは、話したくないわ。今すぐ部屋に戻りなさい。」







急な事で何も考えらなかった。体も目線もそこに縛り付けえられたように母が玄関から外へ出るまで、呼吸さえも止まってしまっていたかのようだった。





母の気配が完全になくなるまでは、その場に蹲っていた。

数分して、やっと体を動すと呆然と部屋へ帰る。






ベットに身を投げて、母にされた事を思い出した。

母は、家族というものに大きな理想を持っていた。そして、家族の絆は絶対であると信じ込んでいる。そのため、私が虐げられていた事も知らないし、知ろうともしない。その証拠に、私が母に助けを求めたとき、嘘をつくなと叩かれた。私が体についた痕を見せても、構ってほしくて自分でつけたと思っていたほどだ。それに、父が母を好きだといえば、そうなんだと信じていた。


良く言えば、盲目的に愛が深いのだろう。

悪く言えば、馬鹿だ。






そんな母を可哀相だと思っている私は、おかしいのだろうか。




私の中の母親という存在の常識は、かなり狂気的だと思う。それでも、盲目の家族愛を掲げて人好きする笑みを浮べて暗闇にいるのは怪物といってなんの間違いがあるだろうか。それに、意図的に人の気を引こうとするそれは、可哀相な怪物だ。









段々と睡魔が襲ってきた私は、抗うことなく眠りについた。

夢の中のあいつは、私を見て笑っていてその手の中には母から貰ったであろうお金を握っていた。










この日から、彼女は母を更に異端に思うようになり、時折異様にお金に執着するようになった。



それは、彼女自身も説明できない変化であり、突然な訪れであった。







他者から見たらなんてことない変化は、彼女なりの家族というものへの拒否の意だった。そして、じわりじわりと彼女を蝕んでいく甘い黴菌だ。



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