私の個人的な近代文学全集
麦直香
魔術師〈原作『魔術』芥川龍之介 〉前編
或る冬の晩のことです。
私を乗せたタクシーは、横浜の繁華街を離れ、郊外の住宅地に入っていきました。時刻は18時を回り、辺りはすっかり夜の空気にのまれています。
そして、今やっとほのかな暖色光で照らされた、モダンなアパートの前に止まったのです。
「ここで合ってますかね」
運転手が問いかけます。私は「ええ」と短く答え、料金を払ってタクシーを降りました。
『ミカサ横浜』と印字された、これまたモダンなプレートが立っています。
目的の106号室まで行くと、イギリスと日本の国旗とともに、“万喜 三須来”と書かれた表札がありました。
万喜 三須来という名前を知っている人は、皆さんの中にも少なくないかもしれません。万喜君はイギリス出身の日本人で、現在は医科大学の一年生というわけです。そして同時に、万喜君は“西欧魔術”の若き使い手でもあるのです。
そのため、最近はTVや、ネットニュースで彼の名前を見かけることもしばしば……
え。私はどうなのかですって? 笑わせないでくださいよ。
万喜君になんて、
私はインターフォンを押しました。するとまもなく、黒色のセーターを着た万喜君が現れました。
「よく来ましたね。どうぞ」
そう言って、万喜君は私を奥の部屋に案内しました。1Kの部屋はきれいに整頓され、無駄なモノは一つたりともありません。床には、ナイロンのラグ、中央にローテーブル、それを挟んだ二つのクッションチェア、端っこには木の本棚が置かれています。
「何か飲み物用意しましょうか」
年上のオーラを漂わせていますが、これでも私より二年も年下です。
「ああ、何でもいいよ」
その後、私たちは政治経済だの、共通の趣味である本の話にありつきました。そして、一時間余たったときのことです。私はついに本題を切り出しました。
「そういえば、君は小さいころ、イギリスに住んでたという話だが」
「ええ、住んでいましたよ。グラスゴーという所です」
万喜君は微笑を含ませ、答えました。
「では、西欧魔術を使いになることも本当か」
一瞬、万喜君の動きが止まりました。私は核心に迫ります。
「事実です。それが何か」
「あのう、よければその魔術を私の前で見せてくれないか」
「いいですとも。これをこうしさえすれば
万喜君は何か念じるかのように右手を開きました。ローテーブルの前にそれを出して、上へと移動させます。すると、どうでしょう。呼応するかのように、ローテーブルが空中へと浮遊し始めたではありませんか。私の体は、銅像のように固まってしまい動けませんでした。
彼が再び手をもとの位置に戻すと、テーブルもすかさず、下にドシンと音をたて、定位置に戻りました。
「驚きましたか?今度はこいつをよく見ておいてください」
万喜君はそう言って、ちょこんと自分のスマートフォンを置きましたが、どういうわけかスマホはまるで、換気扇のようにぐるぐると回り始めました。
それも一か所にとどまることなく、テーブルの上を移動しながら勢いを増して回り続けます。
私はまた馬鹿みたいにぽかんとしていましたが、万喜君はそんなことに動じず、私のほうを向いて、薄ら笑いをうかべています。
スマホはやがて勢いを失い、数秒後に止まりました。私は今見た光景が信じられずにいました。まあ、素人にとっては当然のことなのでしょうが。
「では次で最後にしましょう。本でも読みますか」
万喜君は横目で右の本棚を眺めていましたが、やがて手を伸ばし、人差し指を立て招くように動かすと、本棚に並んでいたうちの本が一冊、すっと抜き出てローテーブルの上に飛んできます。
手に取ってみると、新刊のミステリー本でした。
「貸しますよ。文章表現が巧みなんです」
「わざわざ、ありがとう」
そう言うと、万喜君は満足したようにうなずきました。
私はというと、もう有頂天の気分でただただ驚き、万喜君を見てばかりでした。だがしかし、魔術をたやすく使いこなす人間にとっては、お粗末に感じたのかもしれません。
「いやあ、君が西欧魔術の使い手であることは知っていたが、ここまでとは思わなかったよ」
万喜君はまた笑みをうかべながら言います。
「期待に応えられて何よりです」
「ところで、この魔術は何か特別な力を借りて行うのか」
私は、ただいま万喜君からもらった、ミステリー本を開きながら言いました。万喜君は急にキリっとした目になります。
「特別な力はなにも借りていないですし、持ってもいませんよ。西欧魔術は魔術の中でも比較的、簡易な
「努力すれば、誰にでも使いこなせるようになる、と?」
「ええ、まあ」
「ほう」
私はにやつきを隠せませんでした。どうやら魔術というのは、想像していたよりも簡単に扱えるようです。
「では、教えてくれないか。その魔術とやらを」
私がそう言うと、万喜君は先程よりも、一段真面目な顔つきになりました。
「いいでしょう。ですがこの魔術を習得するにあたって、ある条件をのんでいただきたいんです」
万喜君はゴホンと、咳払いをはさんで私をじっと見ました。
「使用する際、欲を捨ててほしいのです」
「欲?」
「はい。さっき言ったように、西欧魔術は習得が簡易な魔術ですが、使い方によっては心身にも影響を及ぼしかねません。現に私の高校の知り合いに教えたことがありますが、そいつは重傷を負いましたよ」
“重傷”というフレーズに私はすっかり怯え、震えあがってしまいました。万喜君は「失礼」といい、私に向かいこう尋ねました。
「あなたは欲を捨てる覚悟はありますか」
まるで虎のような鋭い眼光で万喜君は言います。取り調べを受けているようでした。私は負けじと唾を一飲みして、
「ああ、あるよ。魔術さえ教えてくれれば、絶対に私利私欲のためには使わない」
万喜君はしばらく私のことをじっと見つめていましたが、やがて柔和な表情になりました。
「そうですか。では早速教えることにしましょう。今日はもう遅いですから、泊っていってください」
「ありがとう。助かるよ」
たまりませんでした。ついに、魔術を私が使いこなせるというのですから。私は歓喜のなか、万喜君に何度も礼をいいました。が、万喜君は頓着することなく、
「○レクサ、七時にアラームをセットして」
私はしきりに胸を弾ませ、万喜君をながめていました。
私の個人的な近代文学全集 麦直香 @naohero
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