第3話 空の見える場所

 暑い。痒い。

 知哉(ともや)はぼりぼりと無意識に腕を掻いた。日焼けした皮がぽろぽろと剥け落ちる。この温暖化の現代、男でも日焼け止めや日傘を持つべきだ。

「じゃないと死ぬ……」

 だが仕事中なので、日傘は持てない。明日はきちんと日焼け止めを塗らないと、と心に決める。

 通勤時間だけだと、ほんのちょっとだからと思いついつい面倒になるが、これは駄目だ。これだけ炎天下の中外に立つなら話は別である。

「よろしくお願いします」

 本当は美容院の店名やカット料金や場所などを言いながらちらしを渡した方が良いのだが、もう面倒になってさっきからこの言葉しか発していない。若い女性をメインに渡しているが、受け取ってくれる人もいれば、知哉の存在を全く無視して足早に通り過ぎていく人もいる。

 それは仕方ない。自分も逆の立場だったら、興味がなかったら通りすぎてしまうと思う。

 持ってきたちらしを全部配り終えるか、交代要員が来る一時間後か、どっちが先だろうか。いずれにしろそれまで店には戻れない。

(あ、あの人髪綺麗だな)

 ミニスカートの女性がちらしを無視して颯爽と目の前を通り抜けていく。ちらしを無視したのだから望みは薄そうだが、一応声をかけなくては。

「あのすみません」

 女性は知哉には目もくれず、すたすたと歩いて行く。

「あの、僕そこの美容院でアシスタントをやってまして、」

 そこまで言うとちらっと目をあげてくるが、歩く速度は緩まない。

「カットモデルとかご興味無いですか」

「結構です」

 ばっさり言ってさっさと言ってしまう。まぁ、そうだよなと肩を落としつつ女性の背中を見送り、ちらし配りに戻る。足元のアスファルトから熱気が漂ってくる気がする。噎む せ返るような暑さだ。

 近くの劇場やカフェに行く客が多い様だ。今日は何の演目をやっていただろうか。少し離れたところにある、たこ焼きの屋台から漂うソースの匂いが今は鼻につく。

 そう言えば、この前帰省した時に会った兄も真っ黒に焼けていたなと思い出す。

 営業二年目。日焼け止めを塗るのが煩わしいのもあるが、夏場の営業たるもの日焼けの色が営業回りをきちんとしているかの指針だ、という時代錯誤の上司がいる為らしい。そんな奴の下で大丈夫かよ、と言ったら、それ自体は嬉しくないけど少しずつ客の顔を覚えて、向こうにも覚えてもらって、ちょっとした世間話を出来るようになってきて仕事は楽しい、と言った。

 ――それが仕事に繋がることもあるし。軽口叩いて貰えるような関係の方ほうが、なにかとぶっちゃけて貰えて思わぬ話が聞けたりもするから。

 そう言って笑っていた。

 今の知哉は、就職したばかりで仕事の面白みがわかるには程遠い。客との接点も、

やっと試験に合格して許されたシャンプーのときだけで、あとは店内にいても客と話

すことは殆ど無い。先輩に言われるままに雑用をこなすばかりだ。今日など、出勤し

てきてすぐちらし配りなので店内にもいない。

 雑貨店から紙袋を下げて出てきた女性グループを追いかけて、ちらしを渡す。

「今キャンペーン中ですのでよろしかったらご覧ください」

 素気無い反応を予想していた知哉だったが、ひとりが知哉の顔を見て目を合わせ、

立ち止まった。

「美容室?」

「はい。そうです。すぐそこのビルですよ」

「そうなんだ」

 一人が立ち止まると、他の女の子たちも立ち止まって、えー、ひろ髪切るの? そ

ういえばさぁ、などとお喋りに花が咲く。

「じゃあちらしもらう」

 初めに立ち止まった、ひろと呼ばれた女の子が手を出してきた。

「ありがとうございます」

 じゃあ私もーというグループの女性全員に、営業スマイルでちらしを配った。する

と、ひろが小首を傾げて知哉を見て来る。

 どこかで会ったことがあるだろうか。実は既にうちの店のお得意様だったりしたらどうしよう、と知哉がたじろいたところで、彼女が言った。

「おにいさん、地元の人?」

「え。大阪、ではないです」

「やっぱり。イントネーションが違うけん。もしかして広島?」

「はい」

「そうなんじゃ」

 ひろは急に訛りを変えて顔を綻ばせて言った。

「広島のどこ? うち尾道」

「僕は呉です」

「まじで! うち大学でこっち来たんじゃけど、広島の人に会うの久し振りじゃわ」

「僕もこっち来てから初めてです」

 広島訛りが懐かしく、無邪気に笑う彼女の反応も面白くて、つい知哉も微笑んだ。

ひろはまだ話したそうだったが、友達が早く行こうよと言うので話を打ち切った。去

り際、

「ほじゃ今度髪切りぃ行くけん。絶対行くけん」

「ありがとうございます。お待ちしております」

 本気で言ってくれていそうなことがわかって、嬉しくなって頭を下げた。が、彼

女たちの姿が見えなくなってからはたと気が付いた。折角来てもらえても、自分はま

だ髪を切ることはできないのだ。騙したような、申し訳ない気持ちになる。

 ――焦ってもしょうがないからさ。自分が今出来ることをして、お客様に喜んで頂

くしかないから。

 また、兄の言葉を思い出す。

 空を見た。相変わらず、陽光が降り注いでいる。兄も東京で、苦しい新人時代を経

てこの空の下、今日も頑張っているのだ。まだ社会人になりたての自分が、弱音を吐

いている場合ではない。

 気を取り直して、ちらし配りを再開した。

 ひろが店に来てくれた時に自分がいたら、せめて心を込めてシャンプーをさせて貰おう、カットモデルも頼めないだろうか、などと思いながら。

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