第2話 それぞれの場所

 夜の道は、全ての輪郭がぼうっとぼやけて闇に溶けていくように感じる。その中

にぽつぽつと浮かび上がる光。街灯。民家の窓明かり。一瞬で通り過ぎていく風景の

中に、幾つもの物語がある。置き忘れられた三輪車。まだ帰ってこない誰かの為に、

点けられたままの玄関の灯り。幾つもの光の、それぞれの下に街があって、人がいる。

 旅に出て知らない街を見ていると、そんな当たり前のことに気付かされる。

ふと。なぜだかすごく、切なくなる。みんな生きているんだ。それぞれの場

所で、それぞれの物語を。

 こう思いたいから、僕は旅が好きなのだと思う。帰り着いたキャンプ場にバイク

を止めて、張っておいた小さなテントに潜り込むと、そんなことを考えながら丸く

なって眠った。

 明け方近く。はっと目を覚ます。髪が少し濡れていた。テントの雨漏りだろうか

と見回し、飛び起きる。

「床上浸水かよ」

 色んな物がひたひたと雨水に濡れていく。僕は慌てて荷物をまとめると、外に出

た。薄暗く、厚い雨雲から雨がばらばらと落ちてきていた。足あしもと下で、土が吸い込みきれない雨水がばちゃばちゃと音をたてる。手早くテントを畳み、差し当たりキャンプ場の管理事務所のある棟へ向う。入口の所で、丁度同じタイミングで、ずぶ濡れで駆け込んできた人と目があった。

「……参りましたね」

 苦笑いで声をかけてくる。

「ほんとですよね。あの、テントですか、バンガローですか」と訊いてみると、

「テントです。バイクでツーリングで」と答えが返ってきた。

「僕もなんですよ」

 そのまま一緒に中へ入る。事務所は人でごった返し、雨の匂いが充満していた。

畳の大部屋を廊下から覗くと、皆じっと置いてあるテレビに見入っている。画面には

台風並に発達した低気圧の影響で大荒れに荒れる各地の様子が、次々に映し出されて

いた。

 風雨はどんどん強くなり、窓ががたがたと揺れる。びゅうびゅうという唸りが壁

の外を這い、遠雷まで聞こえ始めた。

 コインシャワーを覗いてみたが、考えることは皆同じらしい。もう少し空す くまで待つことにする。取り敢えずタオルで拭きつつ、大部屋の隅に腰を落ち着ける。さっきの人が、セルフサービスのお茶を取って来て僕にも渡してくれた。

「ありがとうございます」

 貰った紙コップは小さく薄くて、持つのも大変なくらい熱かったけれど、冷え切っ

た体にはとても旨かった。

「すっかり冷えちゃいましたね」

 言って、ぐっしょり肌に貼り付いた半袖のシャツを引っ張っている。そして

「おれ、渋谷です」

 と右手を差し出して来た。

 一瞬戸惑ったが、僕も右手を出して握る。

「沢村です」

 軽く頭を下げて自己紹介する。

 いつか大学の心理学の講義で 、握手で気持ちが通じやすくなると聞いたことを、

ぼんやりと思い出した。

「沢村さんは今日どうする予定だったんですか」

「僕は、朝一で小樽方面へ行くつもりだったんですけど」

「そうかぁ。おれは元々ここでもう一泊するつもりではいたんですけどね」

 僕たちは互いのことやバイクのことなど暫く話し込んで、やっとシャワーを浴び

終えた頃には、外は嘘のように晴れ渡っていた。

 予定通り出掛けるという渋谷さんに、僕も着いていくことにした。元々、きっち

り予定をたてた旅でもないのだ。

 向かったのは、渓谷だった。国道から外れて入った道はどんどん細くなり、終い

には砂利道になる。地面には所々に大きな水溜りがあってかなり運転はし辛かった

が、景色は最高だった。川に沿って進んでいく途中に立て看板があって、『鳥地獄』

とか『屏風崖』とか、色々な名前が書いてある。

「鳥崎八景っていうらしいですよ」

 渋谷さんがヘルメット越しに叫んで寄越した。二股に分かれた滝や、大きな岩。大きなダム湖。橋。そして、行き着いたところは見事な滝だった。切り立った森から吹き出しているように見えた。黒い岩を伝い、木々の葉を飛沫で濡らしながら白く輝く。小さな虹がかかっていた。

「アイヌの人達も『ポロソー』、大きな滝って呼んでいたらしいですよ」

 と言うので、僕は振り向いた。眩しそうに目を細めていた渋谷さんは、気づいて微笑んだ。

 僕らはすっかり打ち解けて、他にもあちこち回った後キャンプ場へ戻った。地面は

やはりまだ濡れていたので、一番安いバンガローを二人で借りることにする。

 陽がようやく落ちようとしていた。

「今日は楽しかったです。僕正直言ってここは通過するだけの予定だったんですけ

ど、面白かったです」

「おれごときのナビで喜んで頂けたなら何より」

 渋谷さんはにこにこと言った。

「晩飯どうしましょうか」

「パーッとやれる物がいいよね。折角ふたりなんだし。事務所で肉とか売ってくれる

そうだから、焼肉でもしようか」

「それいいですね」

 僕たちは売店で野菜や肉、酒などを買い込み、鉄板も借りてきた。熱した上に油を

敷き具材を乗せ、よく冷えた缶ビールのプルタブを起こす。

「じゃあ、乾杯」「乾杯!」

 涼しい北国の夏は心地よく、苦い泡が一日走り回った喉を潤してくれる。焼ける端

から食べては飲んだ。僕たちは程よく酔っ払い、取り留めのない話をして笑い合い、

夜更け過ぎにベッドでゆっくりと眠った。

 翌朝。連れ立ってキャンプ場を出た。途中の道の駅でルートを話し合い、長万部近

くの国道で別れることにする。渋谷さんのバイクがウィンカーを出し右折レーンに車

線を変更する。丁度信号が赤になったので、暫く並ぶことになった。互いにバイザーをあげて、

「じゃ、気をつけて」「またどこかで」

 と言い合う。

 信号が青に変わる。渋谷さんが片手を上げて、すっと曲がっていく。僕は直進する。

 ミラー越しに、もう一度手をあげる渋谷さんが見えた。見えるかわからないが、僕も手を大きく振る。そして僕は、バイザーを下ろして視線を前に戻す。僕の向う先へ。たくさんの思い出を抱えて。

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