第27話 追悼の虹

 風がなびいている。センブリはずっと待っていた。時間にして約12時間、半日といったところか。彼は岩のようにじっとそこにいた。口をつぐみ、両手を組み、ひたすらにディーンが戻ってくるのを待った。

 すでに日は沈んでいた。その日の空は暗く、深い紫だった。微かにピアノの音のようなものも聴こえてきたが、彼は音楽を聴いていない。彼のなかで、その日聴こえる音楽は全てただの「音」でしかなかった。彼は時折寒さと体の硬直を紛らわすように柔軟をし、1キロほど湖の周りを歩いた。しかし彼はディーンが湖から顔を出すまで、その場を一度も離れず、一睡もしなかった。

 薬にも害にもならないようなピアノ曲が6曲目に差し掛かった時、やっとざぶん、と湖から音がした。センブリは思わず立ち上がった。

 見慣れた赤い髪の少年。

ディーンは濡れた髪を突き出し、左右に振った。肩にはワールテローもいる。ディーンは片手をあげた。彼の手の中は一匹の濡れた鳩がいた。ぼろぼろで、やせ細り、黒ずんでいる。

「センブリ、受け取って」ディーンは鳩をセンブリに軽く投げた。センブリはうまくそれをキャッチした。まだ微かに温かいが、生物と言うにはそれはあまりに冷たすぎる。

 ディーンは両手を使って湖から陸へ這い上がった。

「ごめん、ずいぶん待たせたみたいだね。時間にして一時間くらいだったと思うんだけど、『記憶の凝縮と授受』をしたんだ。ところどころよく覚えていないんだけどね、それで遅くなったみたいだ」

「記憶の授受?」センブリはディーンの肩を抱き、自身のジャケットを彼の肩にかけた。お風邪をひきますよ、とセンブリは言い、ハンカチを差し出し、ディーンはそれで頭を拭いた。

「どうやら僕は母の記憶を失ったみたいなんだ。母のことは覚えているはずなんだけどね。レメディオス様だろう?今でも顔はありありと覚えているよ。不思議だな。ただ、何か僕にとって大事なものを差し出してしまったみたいなんだ。そんなはずないんだけどね」

「レメディオス様の記憶をエネ大王にあげたということですか」

「そうらしいね。でもヘンだな、ちゃんと僕は『母様』の顔も名前も覚えているのにな」

「思い出と記憶は似ているようで少し違います」とセンブリはつぶやいた。

「義父さんも、シリウスも母様の記憶を持っていた。義父さんもそれを差し出したんだ。なんとか人の形を保っていたみたいだけど、呪文を使いすぎて、もう燃料切れみたいだ。鳩に戻ってしまった。すぐに回復させないと」

「私も少しだけ呪文の心得があります。少しだけ、ですがね。回復魔法くらいは使えます」ディーンとセンブリは馬車に乗った。二人の間にシリウスを寝かせ、二人で同時に回復魔法を使用した。

「くそ……鳥類の生理学は専門外だぞ……くそ……」ディーンは呪文をかけながらつぶやく。ワールテローは馬車を引き、発進させた。

「急いでいきやすぜ、坊ちゃん」心なしか、ワールテローの頬にも涙の跡があるように見えた。


 城に着くまでの間、ずっとディーンは回復魔法を使っていた。彼自身もう燃料切れであったが、そのことはなんら気にしなかった。

「医局へ運んでくれ。もとはヒトだ。解除魔法を使いさえすれば治療なんていくらでもできる」ディーンはセンブリに命じた。センブリがメイド服の女中に命令すると、一人がベッドを運んできた。同じ顔で同じ背丈で同じ服の女中が三人でシリウスを医局まで運んだ。

「医局には少々手荒いですが、研究熱心な医者がいます。あの人ならうまくやってくれるでしょう……」センブリは息を大きく吐きながらディーンに行った。その場でディーンは床にへなへなと倒れた。センブリも同じように床にうずくまった。潔癖の彼が床に服を接着させるのは極めて珍しいことだった。そのまま二人は冷たい床で寝た。


 気づけば彼は暖かい布団の中にいた。真っ白でふかふかな布団の上にいた。服も先ほどまで着ていた、ぼろぼろで濡れたものではない。いつの間にか、バスローブのような寝間着に変わっている。おぼろげな目で彼は周囲を見回す。眼鏡が無いのだ。起き上がって手を伸ばす。と、枕の少しその先に、黒い淵の眼鏡が当たった。彼はそれをかけてみる、間違いなく彼のものだ。視界が一気に鮮明になる。焦点が合う。


「気づきおったな」

 甘くけだるい声がした。前に彼はそれを聞いたような気がするが、思い出せない。目覚めると水槽の中でほほ笑むレメディオスがいた。

「ずいぶんと眠っておったみたいじゃ。まったく。また無茶したみたいじゃの」

「ああ……そうみたい、ですね」彼はいきなりのことに戸惑いを隠せなかった。なぜか彼は急にどぎまぎし、委縮した。

「お母様」と彼は言った。

「なんじゃの」

「僕のことを思い出せますか?」

「ふふ。お主がまだ小さな円だったころから知っておるぞ。無論、今の形になってからは、あまり知らないことも多いがの」

「お母様は僕のことをどう思います?」

「そうじゃな……」レメディオスはくっくと笑った。

「実はたびたびお主のことを知っていることもあるのじゃ。股聞き、というやつじゃがの。信頼できる筋からの……地下に住み、ちょこまかと人知れず生きる者から聞いた話じゃ。それによるとお主はすごく頭がよく、時に無鉄砲みたいじゃの。かっか」彼女はけらけらと笑った。

「しかしとても愛おしい、なぜだろうな。わからん」

「僕のことを知らなくても?」ディーンは彼女に迫った。

「『母様』、僕はお母様のことをほとんど知らない。母様も僕のことを知らない。僕は無知だ。何でも知っているような顔をして、自分のことばかり考えてきた。隣にいる、僕を愛してくれた人間のことを、これぽっちも理解していなかった。僕はいつも僕の事しか考えてこなかった。そのせいで、世界から一つ、高貴なる魂が亡くなってしまった。

僕は今それに打ちひしがれているけれど、いずれその記憶も思い出も、どこかへ行ってしまう。この世がこの世として成り立つために、ただ平凡にこの世が今まで通りすぎさっていこうとしようとするたびに、僕らの思いも思い出も、どこかへ消え去ってしまう。日常を営むために、あらゆる情念はただ、波のように過ぎ去り、どこかへ片付けられ、ただいつもの日々がまた繰り返されるだけだ。

お母様、僕はお母様のことが好きかどうか、それすらもわからない、お母様、本当の話です、僕はあなたを尊敬しているけれど、愛しているかなんてわかりゃしない、僕にはあなたの記憶が無いのです、お母様、それでも僕はあなたに愛されたいのです。どんな人よりも、あなたに、ああなんて矛盾、どうしてですか? どうしてなんですか?」

「愛しておる」優しくゆっくりと、しかし彼女ははっきりと口にした。

「思い出すのじゃ。お主にも愛した人物がいることを」彼女は微笑んだ。

「お主が儂を愛さなくてもよい。儂はお主を愛する。お主のことをすべて理解できなくてもな……………。そうじゃ、愛とは、理解とはまた別の次元のファクタなのじゃ。ほら、虹がかかるぞ。歌うのじゃ、お前を愛した魂がまた点に召される。歌うのじゃ。悲しくてもそこに愛はあるのじゃ。悲しいのはお前だ。私らだ。それでも歌うのじゃ。讃えるのじゃ。高貴な魂を」

 空から微かにオルガンの音が聞こえた。そうだ、これは、讃美歌なのだ。


君の信仰心は篤い、だがその証を欲した

マーブルアーチの上で君が旗を掲げるのを見た

しかし、愛は勝利を見せびらかせるようなものではない

愛は冷たく脆いモノなのだ、だからこそ救いを求め主を讃えるのだ

ハレルヤ、主に感謝し、喜びと賛美を

そういえば、君に教えられた時があった

目下で本当は何が起こっているのかを

だが、もう君は私の前に姿を現さなくなった、違うかい

私が喜びを覚えた時のことを思い出させ

聖なる鳩は飛び立ち

私たちから出た息吹すべては神を讃えるものだったのである

ハレルヤ、主に感謝し、喜びと賛美を


 その日、歴史的に見ても初めて観測されるほど大きな虹がこの国の空を跨ぎ、歴史書の新たな一ページを刻んだ。




 彼はまた眠った。次に起きた時、微かに涙の跡が頬に残っていた。どうやら彼は泣いていたらしい。鳩が飛び立つ夢を見たような気がする。

 晴れやかな青々とした空に鳩が飛び立ち、大きな虹が二つも現れた。空も人々も歌い、レメディオスが指揮をした。彼女は水槽の外にいて、体長が30メートルほどもあった。人々はレメディオスを見上げながら歌った。ハレルヤ。

 そんな日が二日くらい続いただろう、それが夢だったのか現実だったのか、ディーンには判断できなかった。その記憶すらも次第に薄れてきた。永い眠りの後の『ふわふわした現実離れした感覚』だけが彼を包み込んでいた。しかしそれも、彼が頭と上体を起こし布団から出てしまえば、次第になくなっていった。

 彼は確実に『死の感覚』を纏っていた。それは深く愛し愛された人間が纏う特有の空気である。その感覚が彼の胃の深いところにまですとんと入り込み、やがて沈着して消えなくなった。それは一生残る『跡』なのだ。人は多かれ少なかれその『跡』を刻み付け、他人の死という門を潜り抜け、それでも進んで行かねばならぬということを、彼はまだはっきりと理解していなかった。彼は昨日の彼とは同じようで別ものだった。それが死を潜ることで起きる副産物とも言えるだろう、とにかく彼は誰よりもタフに生きなくてはならなかった。

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