第24話 ジャンの記憶
気づけばディーンとセンブリは誰かの家にいた。何の変哲もない家だ。貧しいとも思えないし金持ちとも言えない、ごく普通の中流家庭。
「いいかい」と黒髪黒目の男が言った。男の前には十歳ほどの黒髪の男の子が立っている。
「お前には義理の弟がいる。その弟を見守るのがお前の役割だ」
「弟……」黒髪の男の子は、まだ声変わりをしていない。あどけない丸い目でじっと父を見ている。
「詳しくは言えないが、お前の弟は将来この国を統べるものとなるだろう。それを監視するのが……お前の役割だ。俺たちの家は代々王様の一族を守ってきた。この国を影ながら支えてきた。それが俺たちの役割なんだ……」
「父さんも王様を守ってきた?」
「勿論。あいつには……たくさんの『貸し』がある。俺たちが今こうして生きていられるのも、あいつのおかげなんだ。あいつの……あいつの……あいつのことは……一言で……言い表せない……」
「わかった、父さん」黒髪の男の子はじっと父を見つめて言う。
「俺がこの国を、この国を統べる人を守る。それが俺の役目だ」
場面が変わった。そこはディーンが見たことのある場所だった。そうだ、ディーンがかつて通った私立中学だった。大広間だ。大広間に一年生が全員集められている。壇上には入学式、とでかでかと書かれてある垂れ幕がかかっている。そこに先ほどの黒髪の男の子が……ディーンの知っているジャンがいる。ジャンの視線の先には、銀色の目に眼鏡をかけたひときわ小さな男の子がいる。彼は校長先生の長い話には全く興味が無いらしく、黙々と勝手に持参した『純粋理性批判』を全く悪びれること様子もなく読んでいた。誰よりも小さく、小柄で、目立たないようにしていても、どこか他の人とは違う雰囲気を放っている。彼は……
黒髪の男の子は教室に帰る道すがら、銀色の目の男の子のもとへ一目散に翔けて行った。黒髪の男の子は周りからの人望も厚いらしく、講堂から教室へ帰るたった十分ほどの道で、教師から上級生から、様々な人に声をかけられていた。それらを軽くいなし、黒髪の男の子はやや早い足取りで、黙々と本を読みふけりながら歩く男の子のもとへと向かう。
ああ、そうだ。今のディーンはちゃんと覚えていた。
あの時初めて、生まれて初めて、友という存在を知った。
「それ、面白いよな」
本を読んでいた少年はびっくりして顔を上げる。少年の目は銀色に光り輝き、まっすぐに目の前にいる少年の黒い目を覗き込む。
「……面白い」
秋だった。読書するにはもってこいの季節だ。木々は枯れ始めていたが、今まさに、彼らにとっては全てが始まろうとしていた。
彼らの使命の始まりが。
めまぐるしく、光り輝いているように見えて退屈な日々の思い出がどっと押し寄せる。
化学実習では未来の国王は一人誰よりも早く成功してしまい、全くジャンの出る幕はなかったこと、体育では常にジャンは一番で、みんなとテニスに興じていたが、ディーンはいつも黙々と一人シャトルランをしてジャンを困らせていたこと、ジャンはディーンのシャトルランについてきて、いつもディーンより多く走ったこと、テストではディーンが常に一番だったこと、放課後は二人でよく図書館にこもったこと、ディーンが休日に筋トレを始めたのをきっかけにジャンもそれにつきあったこと、ディーンがカブトムシを採りに出かけた時、心配でジャンがついてきたこと、自由研究で大人顔負けの研究内容を発表してきたディーンにみんなが口を開けて聞いていたこと、ある日いつも読んでいる本を置き忘れたディーンが必死になって学校中を探し回っていたこと、それをジャンが手伝ってくれたこと、ジャンにはたくさんの女の子が夢中になったが、ディーンはたくさんの研究者から声をかけてもらっていたこと。二人で川に飛び込んだ日の帰り、一緒にお風呂に入ったこと……。
「ねえ、私のこと、好き?」茶髪の女の子が言う。しかし目は見えない。ぼんやりとしていて、顔にモザイクがかかっている。
「うん……どうして?」ジャンはそっけなく答える。
「いつも私からだから」
「何が?」
「誘うの」
「僕も誘っている」黒髪の少年は背が伸び、肩幅が広がり、声も低くなった。
「いつそんなことした?」
「いっつも一緒に帰っている」
「でも本当はどっちだっていいんでしょ?」彼女は泣きそうになりながら言う。
「いてもいなくても、どっちだって変わりないんでしょ?」
「どうしてそう思う?」
「態度よ」
「わかんないな」
「だって私の話覚えている?」
「覚えている。ラテン語の成績が上がって数学が下がっている。僕が数学を教える」
「あなたってそういうのしか興味ないのよ、きっと」と彼女は言った。
「もともとそういうことにしか興味ないのよ。あなたって。誰にだっていい顔して、愛想があって、清潔感があって、人当たりが良くて、信頼もあって。でもあなた自身はこれぽっちも本当は他人になんか興味ないのよ。ただそういう風にした方が都合がいいから振舞っているだけ。私があれやこれやあなたに対して色々考えているとき、あなたは全然別のことを考えている。いつも……いつもね」
「どうしてそう思う?」
「だってそうじゃない? 私の気持ちわかる?」
「わかるわけないさ。でも、わからないから誰よりもわかろうとしている」
「嘘よ、本気でなんかそう思っていない」と彼女はため息をつく。
「いつも全然別のことを考えているもの」
「そうじゃない。確かに僕には気がかりなことやいろいろ考えなきゃいけないことがあるさ。でも、僕だって誰彼構わずOKしているわけじゃない。それくらいわかるだろ」
「あなたにとって恋愛なんてその『考えなきゃいけないこと』のうちに入っていないじゃない!!!!!」
そう言ったきり彼女は少年の前から二度と姿を現さなかった。
季節は巡る。様々な女の子が少年の前を通り過ぎて行ったが、最終的にはいつも似たようなことを言われて終わった。鏡が別の角度から同じものを映すように、始まりは違えど、終りはいつも同じだった。彼にはその原因がわかっていたが、それを認めるほどの勇気がなかった。
「ディーン……」
少年の視線の先には、常に危なっかしげな、我が道を行く天才少年の姿があった。
「ディーン、気を付けてよね」化学実験の際にガスバーナーで火傷したディーンの指を彼は強引に引っ張って水道の水に浸らせた。
「シメンドリの声って何種類かパターンがあるんだ。彼らってコミュニケーションしたり、群れで訓練とかするんだよ。その声のパターンを今思い出しててさ、今良いアイディアが何か浮かんだんだけど、忘れちゃった」眼鏡の少年は全く授業に関係のないことを呑気に呟いた。ジャンはさすがにため息をついた。
「思索にふけるのは授業以外にしてくれないかな。今は授業中なんだ。少なくとも実験に集中してくれないと怪我をする」
「僕が怪我をすると誰か困るのかい?」純粋な興味なのか屁理屈なのか、彼は丸い目をさらに丸くさせてじっとこちらを覗き込む。
「……もちろん」と少年は言い、」ため息をつく。
「君は何もわかっていない」少年は人知れず呟いた。
「ねえ、僕さ、彼女を見ると不整脈を起こす。病気かもしれない」銀色の目の男の子はまじめな顔してそんなことを言う。黒髪の男の子は背がさっきより高くなっている。
「ばかだな、それは……」彼は笑いながら、僕を諭してくれた。
少年の視線は何度も僕を追っていた。いつだって僕を見てくれていた。僕が君を知る前から僕を見てくれていて、僕を知ってから尚、僕のことを見てくれていた。いつもだ。いつも、いつもだ。周りの人間に気を配りながら、その実、僕を捉えて離さなかった。危なっかしくて独りよがりの僕を、君はずっと見ていた。僕は何も気づいていなかった。
気づいていなかったのは、
世界を見ていなかったのは、
僕だった。
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