第5話 嵐の前の静けさ
その日から彼は哲学の研究を休み、キッシンジャーの暗号解読に努めた。呪文を試さなければならないため、家に引きこもるようにもなった。オトメイアは大きくなったディーンが何をしているのか心配したが、研究だというと納得した。
もうすっかりディーンが物理学でも哲学でも良い成績を修め、自分の知らないところへ行ってしまったのだと日々痛感していた。シドにしても、オトメイアにはギターのコードや奏法など全くわからず、息子たちは自分の知らない世界を築いてしまったのだというちょっとした寂しさと嬉しさの入り混じる感情がこの頃から芽生えるようになっていた。
ディーンが二十歳になるまであと半年ほどしかなかった。その間に多くの呪文を覚えなくてはならなかった。幸い科学の基礎を理解していたから、暗号を解いた後は呪文の理論に関して一日もかからずに習得できた。あとはそれを体に覚えさせるだけだった。これがなかなか難しかった。「理解することとできることは別」とはよく言うが、実にその通りだった。
まずは簡単な水を氷にする呪文から覚えたが、その習得に丸二日かかった。この程度でキッシンジャーの手を借りたくなかったので、彼は話しかけることを拒否し、完全に独学で学ぼうとしていた。事実、教えられても会得できるかどうかは本人の度量によるところが大きかったため、この時期の相談は意味を為さなかった。
次に物を浮遊させる呪文を覚えた。これには三日かかった。物を変化させるためには化学の知識が十分に必要だが、物を移動させるためには物理学の知識が必要だった。これがまた難しく、一度本気でキッシンジャーに話しかけようとしたがやめた。三日目に枕が浮遊したのを見て、彼は感激した。しかしその浮遊時間には限度があり、大きなものを長時間浮遊させるためにはまだまだ訓練が必要だった。
そのため、彼は半年間学業を休まなければならなかった。もともと飛び級で進学できたので、半年ほど休学することは何ら問題でもなかった。むしろ同年代の子たちと足並みが揃うくらいだった。
休学中に彼はジャンにレベーカとの仲を報告した。
「やったな」とジャンはコーラのグラスをカチンと割った。彼も最近経済学の論文がアクセプトされたばかりだった。
「お互い良い報告ができて良かった。レベーカの件は君のおかげだ。ありがとう」
「謙遜するなよ、実力だろ」
「いや、本心で君の助けがないと僕は何もできなかった。ありがとう」
彼らは固い握手を交わした。
「それで? いつ結婚するんだ?」
「彼女が来年仕事して、僕が二十歳になってから」
ディーンは嬉々として語った。彼から何かを話すのは滅多なことではないから、相当うれしいのだろう。
「でもそれまでにやらなければならない事があるんだ」
「そうか」ジャンはコーラを一気飲みした。
「応援している」
「僕のこと、今何をしているのか聞かないのか?」
「……信頼しているんだ」ジャンはぽつりと言った。
「お前のことだけは」
聞くとジャンはディーンとは真逆の立場にいた。学業などは軌道に乗り研究の世界でも認められつつあったが、女とは最近別れたばかりだったそうだ。
「そうだったのか」
ディーンは驚いた。学生時代から成績優秀で人柄もよく人望もあつい、それこそ非の打ち所の無い青年のジャンが女に振られるなど到底考えもしなかったからだ。
「人生はいろいろある」
ディーンはなんて声をかけていいのかわからなかった。ジャンがヒト並に悩んでいて、それを自分に打ち明けるなど、ディーンには到底考えもしなかった。
「そうだな」
ジャンはゆっくりと話した。日が傾いていた。夕日が彼の横顔に差し掛かっていた。
ディーンは一層呪文を覚えることに精を出した。今までも丸一日かけて呪文を覚えていたが、それからは寝る間も惜しんで練習した。物を変形させる呪文や、その応用としてカギを開ける呪文、自分自身を移動させる呪文に、空気中の酸素から火を起こす呪文……などなど。
そのどれもが難しく、習得に一カ月以上かかることもあった。しかしなんとかキッシンジャーの手も借りずに自力で習得した。あと二十歳になるまで一か月、風を自分の手の中で作り出す呪文を習得すれば基礎は一通り終えたと言っても過言ではなった。
レベーカには覚悟を持ってすべてを打ち明けた。自分がブライアン・オータスの養子であること、命を狙われる危険性があり、それはどの兄弟においても同じであること、それを防ぐために呪文を覚えていること。
彼女は真剣に話を聞いていた。彼は実際に彼女の前で炎を作り出し、呪文を披露した。
「すごいわ」
彼女は純粋に驚いた。彼女の横顔は炎に照らされた。二人は大学のキャンパスの外れにいた。炎はきゃんおあすの敷地に焚火のように燃え上がった。
「貴方、魔法が使えるのね」
「呪文だよ。錬金術がもとになっている。化学と物理法則を理解して再構築するんだ。決して魔法のように万能ではないけど役に立つよ」
「本当にすごいわ」彼女は炎をぼおっと見ていた。二人に沈黙が流れた。
「僕は命を狙われる可能性があるんだ」彼も炎を見つめて言った。彼の目にはそれが写っている。
「でも改めて君に言いたい」彼はレベーカを見つけ、彼女の手を取った。彼は膝真づいた。
「僕と結婚して欲しい」二人は炎に照らされ赤く燃えていた。彼女の瞳に測れが、彼の瞳には彼女が、二人の瞳には炎が映し出されていた。
「君が嬉しい時」彼は語り始めた。
「君が嬉しい時、僕も嬉しい。君が悲しい時は僕が精いっぱい力になりたいと思う。どんなあらゆる災厄から君を守りたいと願う。君が寒い時は僕が炎をつける。君が暑い時には僕は水を作る。君はただ笑顔で僕の周りにいるだけで良い。それだけで僕は癒される」彼はレベーカの手の甲に口をつけた。
「僕と結婚して欲しい」
彼女の目には炎が宿っていた。やがてそこに海ができ、たまらずその波が押し寄せた。
「喜んで」
かくして二人は抱き合い、遊び事の結婚式を挙げた。
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彼は早々に両親に結婚することを告げた。何も知らなかったオトメイアはこの養子の急な申し出に驚き持っていた紅茶のカップを落として割った。
「大丈夫ですか」彼はオトメイアが割ったカップを拾い上げた。
「それより今、なんて?」オトメイアの手は震えていた。
「結婚します。相手はレベーカと言う女性です。今度紹介します」
「まあ」オトメイアはカーペットに紅茶が広がるのもなんら気にせず彼の顔をまじまじと見た。
「現実なのね」
「現実です」
オトメイアは目を潤ませ、口を震わせた。何か言いたげだが言葉が出てこないようで、彼がするように落としたカップを拾い上げ、カーペットのシミを布巾で拭った。
「まさか……貴方が結婚する日が、こんなに早く来るなんて」
「そうです、僕は結婚します」彼はきっぱりといた口調で言った。
「ああ」彼女は感極まり、嗚咽するほど泣いた。
「あんなに小さくていつも本ばかり読んでいた貴方が」オトメイアは子供のようにわんわん泣いた。
「それが今やこんなに立派な姿になって、親孝行までしてくれるなんて」
オトメイアは鼻をすすり、震える声で彼に語った。昔自分がどれだけ育児に悩んだか、夫の協力が得られない不安や苦しみ、自分にはない才能を持つ子供の扱いの苦悩など。彼にまつわる自分自身の話を聞かせてあげた。
「今まで本当にありがとうございました、お義母さん」
「ああ」彼女はディーンのはっきりした物言いとその言葉に感激し、またも激しく嗚咽した。
「私はなんて恵まれているんでしょう、シドと言いディーンといい、あなたたちは私の宝だわ」
「僕は……」
彼は言葉を濁らせた。彼は自分が、ひいてはシドさえもこれから命の狙われる危険性があるということを彼女に伝えるかどうか迷った。
しかし彼は
「僕は立派かどうかなんてわかりません。でも、今まで育ててくれた貴方に感謝しています」とだけ答えた。彼は感情の高ぶりの激しいオトメイアにはこのことは伏せておこうと考えた。
「なんて立派なの」彼女は止まない夏の雨のようにさめざめと泣いた。
「今日はお祝いよ」
オトメイアは自分が今できる限りの最大のごちそうを作った。彼の好きなオニオンスープとアワビを用意し、町で一番おいしいピザを注文した。その日は久々にブライアンが早く帰ってきた。シドも食卓に着いた。久々の四人での食事だった。
次の日曜日、レベーカがオータス家を訪れた。彼女は紺のワンピースに金のイヤリングをしていて、それがまたとても上品だった。
「私、大丈夫かしら」彼女は髪をかきあげた。
「すごくきれいです」彼は彼女の手を繋いで言った。
「本当に、このまま保存したいくらい」
「何言っているの」彼女は笑ったが、その実まんざらでもないようだった。
「行きましょう」
いつもより上品なワンピースに身を包んだオトメイアは彼女を快く出迎えた。
「あらあらあら」
レベーカはオトメイアが想像していたよりも遥かに美しかった。
「こんな美しいお嬢さんだとは思わなかったわ」
彼女は普段より高い声でレベーカをもてなした。
リビングではシドがギターをいじりながら煙草をふかしていたが、彼女を見るなり煙草を口から落とした。
「まあ、危ないわ」とレベーカが言った。すかさずディーンが水を呪文で出し、事なきを得た。
「レベーカ・オルセンです」
彼女はシドに挨拶した。
「ああ、シドって言います。ディーンの兄貴です」
「ギターを弾いているの?」
「え、ええ」
シドは突然弟が美しい娘を連れてきてどうしていいのかわからなくなっていた。ディーンはなんとなくそんなシドを見ているのが珍しくて面白かった。
「レベーカさん、よかったら紅茶とクッキーがあるわよ」
オトメイアが皆をテーブルに誘導した。
「頂きます、大好きです」
「シドも食べようよ」ディーンは初めてシドに笑って話しかけた。
「あ、ああ」
その後はオトメイアが矢継ぎ早にレベーカに質問し、彼女はそのたびに快く答えた。レベーカの要望でシドはギターを弾いた。甘い曲だった。アコースティックギターをわざわざ持ち出して来て、メンデルスゾーンの結婚行進曲をアレンジして披露してくれた。レベーカはそれを聴き、手をたたいて喜んだ。
「何事か」ブライアンが書斎から降りてきた。
「ああ、あなた。ディーンの婚約者のレベーカさんよ」
「初めまして」彼女はブライアンの方を向いて一礼した。
「初めまして」
ブライアンは一瞬、彼女の美しさに動揺したがそれを悟られまいと威厳を保った。彼もテーブルについた。
それからはブライアンがまるで仕事の面接かのように彼女に質問した。今は何を研究しているのか、どんな論文を投稿したのか、政治についてはどう思っているのかなどカタい話が続いた。
「それで、どっちからプロポーズしたの?」
オトメイアが頃合いを見計らって口を開いた。ずっと聞きたくてうずうずしていたのだろう、彼女の声はいつもよりも高く、大きかった。
「あ……僕が」ディーンは耳まで真っ赤になった。それを見てレベーカが上品にくすくす笑った。彼の先日のプロポーズの言葉はオータス家の皆に一文字残らず知られることとなった。
君が嬉しい時、僕も嬉しい。君が悲しい時は僕が精いっぱい力になりたいと思う。どんなあらゆる災厄から君を守りたいと願う。君が寒い時は僕が炎をつける。君が暑い時には僕は水を作る。君はただ笑顔で僕の周りにいるだけで良い。それだけで僕は癒される。
シドが口笛を吹き、オトメイアが拍手した。ブライアンもこの日初めて笑った。オータス家は幸福に包まれていた。ディーンも幸福に包まれていた。こんな日がレベーカといることで一生続けばいいと本気で思った。
ディーンの家からレベーカが帰宅する帰り道の途中で、二人はどちらからともなく抱き合った。
「今度は僕が君の家に行くよ」
「ええ、でも修業は大丈夫? あと一か月で貴方の誕生日が来るわ」
「大丈夫、あとは保護呪文を覚えるだけなんだ。でもそれがなかなか難しいんだ」
「そう」彼女はディーンの頬に優しく触れた。
「応援しているわ」
「僕も君を応援している」二人は熱いキスを交わした。彼はこの時が永遠に続けばいいと思った。世界は美しかった。
いつかジャンが言っていた。彼の大好きな『ファウスト』のシーンは、ファウストが世界に感激し、時が止まって欲しいと願うシーンだと。彼には今、そのジャンの気持ちが理解できた。
時よ止まれ、世界は美しい。
美しい時は永遠に続くものではない。必ず始りがあり、終わりがある。
終わりの始まりはディーンの二十歳の誕生日の夜だった。
まさに彼が二十になったその瞬間、オータス家のリビングの窓が何者かに破壊された。
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