第3話 恋、そして愛の前触れ

ディーンが今まで味わったことのない不思議な感覚を味わったのは、十八の春の時分だった。

 研究室には教授を覗いて六人の研究室性がいたが、その中の院生の一人を見るとなぜかとても胸が切なくなったのだ。その人はこい茶色の長い髪をした背の高い女性で、研究室の中でもリーダー的な役割を担っている人だった。四歳年上で、機転もきき、頭の回転の速い人だった。

 一度ゼミを見学した時、彼女はある論文について懐疑的な質問を投げかけていたが、それが実に的を射ていた。彼はジャン以外の人間に初めて感心した瞬間だった。以来、彼は彼女のことを良く目で追うようになった。彼女といると胸が苦しくなるため、若年性の更年期障害と喘息を疑った。

 どうすればよいのか全く分からず、久々にキッシンジャーを開いた。


「久々だな、親愛なる孫よ」と彼は言った。


「最近おかしいんだ、彼女を見ると」

 彼は事の顛末を一部始終話した。


「もしかしたら病気かもしれない」

「案ずるな」キッシンジャーは極めて落ち着いた声で言った。

「それはただの恋だ。ただの精神病にすぎん、お前は彼女に恋をしている」

「どうすればいいんです?」

「どうしようもない」

 キッシンジャーはきっぱりと言った。

「ただ自分の心にどうしたいか聞いてみるのだ」


 ディーンは十秒ほど沈黙した。

「わかりません」


顎に手を当てて彼はゆっくり言う。


「ただ苦しくて仕方がないんです、彼女を見るとなぜかとても切なくなります。この苦しさが無くなって欲しい、今はただ……」


「苦しさがなくなるかどうかはわからない」

キッシンジャーは淡々と語った。

「ただ、己がどうしたいのか、自己に聞いてみるのだ、汝の心の深いところまで菜」


彼は自分の体である書物の一ページ目に「汝の心を聞け」と文字が浮かび上がらせた。

「それには時間がかかるかもしれない。焦らずゆっくりと自分に問うてみるのだ」

 そう言ったきり、彼は黙ってしまった。書物の一ページ目の文字だけは消えなかった。


 その日の夜、彼は眠れなった。眠ろうとすると彼女の顔が浮かび、消えていった。論文を読む真剣な彼女の横顔や真摯にゼミナールに取り組む姿、打てば響く頭の回転の素早さを体現した彼女の言葉の一つ一つ、そういった彼女のありとあらゆる光景が頭の中で駆け巡り、嵐のように消えていった。



 翌朝、彼はたまらずジャンに相談した。ジャンは大学を卒業後、経済学の大学院に進みながら文学の研究を空いた時間に行っていた。


「どうすればいいのかわからないんだ」ディーンは正直に告白した。


「どんな本を読めばいいのかもわからない。対処法が書いていない」


それもそのはずだった、彼は理路整然とした理屈の通る書物は好んで読んだが、ロマンス小説の類はあまり好きではなかった。


「これはびっくりだな」

ジャンは笑った。


「お前から恋愛の相談をされる日が来るなんて思わなかった」

爽やかな嫌味の無い言い方だった。ジャンは純粋に滅多に見れないものを見て喜んでいた。


「本当にどうすればいいのかわからない」

ディーンは混乱の中にいた。


「まず恋とは何かわからない。定義がわからない」

「ある人物により人生が狂わされることだよ」彼はディーンと違って、人並みに恋愛経験があった。

「なぜ神は生命にそんなシステムを与えたんだ?」ディーンは未だ十代で、この世のあらゆることには理屈がつけられると信じて疑わなかった。


「たぶん、種を反映させやすくするためじゃないかな」

「どういうことだ?」

「種を反映させるためにはオスとメスがいなければならないけれど、性行為を促すために作られたシステムなんじゃないかな」

「ということは、僕は潜在的には彼女と性行為をしたがっているということなのか?」

「それはわからないよ」とジャンは笑った。

「そう思うならばそうだし、でもそれは極論すぎる」

「でも君の理論から言えばそうだ」

「君はそう思うのかい?」ジャンはにこやかに言った。

「わからない。考えたこともない」


 ディーンは赤面した。確かに彼女の寝顔を最近想像していたが、実際に行動にそれを行動に起こしたいとは夢にも思っていなかったからだ。


「じゃあまず自分に聞いてみることだな」


 ジャンは笑った。幼いころから神童と呼ばれ教師からも一目置かれていた天才の友人が、恋愛の領域に立たされた今、手も足も出ないことがおかしかったのだ。


「それと、彼女とももう少し話してみるべきだと思うな」

「どんな話だ?」ディーンは恋愛に関しては全くの素人と言ってもよかった。

「君が聞きたいことでいいんじゃないかな」

「ヘーゲルとカント批判についての考察とか話すべきかな。彼女、カントを学んでいるけれどその後のカントが与えた影響について大きく学んでいるんだ」

「相手の話しやすいことでも確かに良いかもしれない」

 彼はおおらかに言った。


「でももっと、研究を離れて彼女が普段していることとかを話してみるとより親密になれるかもしれない」

「例えば?」

 ディーンはこの時分、本当に何を話せばいいのわかっていなかった。


「彼女の好きな食べもの、好きな花、好きな映画、好きな本……」


ディーンはノートを取り出し、まるで講義を聞くかの如く熱心にジャンの発言を書き留めた。


「好きな本、それから?」

「休日に何をしているか聞くのもいいんじゃないかな」

それもディーンは真面目にノートに取る。

「休日にしていること……」

「そうそう」彼は穏やかに言った。


「休日に何をしているか聞いて、嫌な気持になる人はいない。仕事ならともかく」

「なるほど」ディーンは膝を打った。さすがはジャン、言うことが論理的だ。


「あとはなるべき自分ばかり話し過ぎないことだけど、お前にはそのアドバイスは不要かな」

「わかった」


話し過ぎない、と彼はノートに書いた。


「君は本を書くべきだよ、論文じゃなくって」

「誉め言葉として受け取っておくよ」

「ジャン、ちょっとシミュレーションしたいんだ」

「何の?」

「会話の」

「いいよ?」

「彼女をお茶に誘いたいんだ」





 かくして、ジャンの指導の下、ディーンは彼女をお茶に誘うことにした。


 彼女の名はレベーカと言った。レベーカは朝から晩まで研究室にいるような人間で、いつも雑用やら研究やらで忙しくしていた。先生やディーンを含む後輩にいつも気を使っていて、周りに目を配らせている。彼女と二人きりになって話しかけることは容易ではなかった。


 彼は近所でも評判のクッキーを一袋買い、メモを添え、レベーカの机にさりげなく置いておいた。


[研究お疲れ様です、一息ついてください]。


義理堅いレベーカは早速気づくなり、彼にお礼を言った。


「ディーン君、クッキーをありがとう」

「あ、いえ」


ディーンは彼女に話しかけられて体の内側に熱がこもるのを感じた。


「レベーカさんはいつも頑張っているので」

「そう?」彼女はフフッと笑った。それがとても上品で、その笑顔はディーンの瞼に焼き付いた。


「今度お礼に、何か私からも送るわ」

「あ、いいんです。僕が勝手にしたことなので」

「遠慮しないで」


彼女はディーンよりも四歳上なのだが、この時彼はもっと彼女が年上であるかのように感じられた。


「今度じっくり話しましょうよ」彼女は上品ににこ、と笑った。




 かくして、彼はデートにこぎつけることができた。


 デートの日、といってもそれはただ二人で食事をするだけなのだが、キッシンジャーとジャンにアドバイスをもらい、近頃評判のパスタのお店に向かった。彼は初めて発表会に参加する子供のように緊張していた。


 待ち合わせの五分前に彼女はやってきた。彼女はいつもは履いていない濃いオレンジのスカートに黒のニットを着ていた。髪の艶も一層綺麗な気がする。彼女にはいつも研究室で見るよりも心なしか大人の女性らしい雰囲気が漂っていた。


「待った?」

「いえ」彼は口ごもった。


「あの、今日はなんか一段と、きれいですね」

「え?」

「雰囲気が大人っぽく感じられます、なんとなく。ヘンなこと言っていますかね……」彼は真っ赤になった。


「ううん」彼女は笑った。


「ありがとう」にこ、と彼女が上品に笑う。何もかもわかっているわよとでも言いたげな、少しいたずらっぽい笑みが彼にとってはまぶしい。

「行きましょ」



 彼は、ずっと顔を赤くしたまま、しどろもどろになりながらも彼女の分の注文も取った。


「ありがと、エスコートしてくれるんだ。ディーン君、年下なのに」

「いや、そんな大層な物じゃないです」

「そう?」彼女はまた上品に笑う。


「前からディーン君とは話してみたかったの」

「僕と?」

「ええ」彼女は背もたれに背中をつけ、足を組んだ。


「大学を飛び級、物理学を修めて哲学科に再入学した孤高の天才。学内じゃ貴方のこと知らない人はモグリね」


「そんな」ディーンは今までずっとそうであったように、彼は自分の世界を持ちすぎているあまり学内の噂や自分の評判など気にしたことが無かった。


「そんな風に見えます?」

「もちろん……」


彼女は一息入れて続けた。


「もちろん、そう思う。でも哲学に関してはまだまだ私には及ばないかもね」そう言って彼女はふふっと笑った。それが不思議と嫌味らしくない。

「ただあなた、どうしてまだ学部生なのにあんなにもカントのことを知っているの?」


「小学生のころからずっと読んでいたんです」


彼はありのままに答えた。


「何か困ったときや嫌なことがあると、僕はすぐにカントの理路整然とした世界に逃げ込みました。小さいころから『純粋理性批判』は僕を救済する逃げ場所だったんです」

「小学生からカントを?」

「ええ」彼はこともなげに答えた。

「初めは意味などわかりませでした。ただそこにある文字列の美しさが僕を引き付けた。僕は本を繰り替えし繰り返し読みました。それこそ擦り切れるほど。そうしているうちにだんだんとその文字列の意味が捉えられるようになってきました。それでもわからないことがあるから、学校に再入学して教授に聞くようになったのです」


「すごいわ」


彼女は紅茶に檸檬を入れてかき混ぜながら言った。


「物理学にも興味が?」

「哲学を学ぶために物理を学んだだけなんです」

彼は正直に言った。レベーカはそれを聞いて目を丸くした。

「あらゆるこの世の事象を知っていないと哲学はできないかと思って」

「懸命だわ」

彼女はゆっくり紅茶を飲んだ。一息ついて彼女は言った。

「私にもよかったら物理を教えてくれない?」



 恋。


 若いディーン・オータスの頭の中を、素晴らしい文字列の代わりにレベーカが支配した。不思議なことだったが、その原動力はすさまじく、レベーカの為ならば何でもできるという奇妙な自信が彼に生まれていた。

 彼はレベーカの言葉通り優しい物理学の本を彼女のために買い、数学の初歩であるピタゴラスの定理から教えた。


 二人は度々話すようになった。ジャン以来、こんなにも話の合う人間がいなかったため、彼は夢中で話した。彼はいつまででもレベーカと話したいと思った。いつしか彼はレベーカ以上に哲学の知識を持つようになっていた。



 十九のころ彼はカントに関する新しい解釈の論文を発表した。カント批判についての批判とその影響に関する論文だった。それはある分野からは大絶賛され、ある分野からは大いに嫌われた。しかしその論文を皮切りに、この小さな研究の世界で名が知られるようになった。


「すごいわね」


レベーカは論文が受理されたお祝いに一緒にイタリアンに行った。とはいえ、彼女の論文も雑誌にはまだ載っていないがアクセプトされたばかりで、そのお祝いも兼ねていた。


「いえ、レベーカさんには及びません」

彼は本心で言った。

「本当は謝辞に貴方の名前を入れようと思ったんですけど、教授に止められたんです」

「謝辞に? 私を?」

「ええ、一番哲学について教えてくれたのはレベーカさんですから」

彼は大まじめに言った。

「あはは、無理よ、そんなの」


レベーカは腹の底から笑った。


「そういうものなんですか?」

「そういうものよ、だって私はただの学生だもの。でも、ありがとう」

「いえ、こちらこそありがとうございます」

「ワインを頼んでいいかしら」

「ええどうぞ」

「せっかく十八も過ぎたんだから、あなたも頼んでみたら?」

「そうですね」


彼はこの時分気が大きくなっていたが、彼はこれまで酒など飲んだことが無かった。早速白ワインが運ばれてきた。


「乾杯」

レベーカの言葉とともにカチンとグラスが響いた。


そこで彼の記憶は途切れた。

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