第2話 青春の始まり
オトメイアは一度、養子の彼を精神科病院に連れて行った。簡単な医師との面談があったが、そこではメモを使わず彼ははきはきと答えた。それは凡そ普段の彼からは想像できない姿だった。医師は彼を正常と判断し、何もせずに帰した。オトメイアはさらにびっくりし、戸惑っていた。シドにはない何かがこの子にはあるとこの時分から彼女はうっすら感じるようになった。
彼が小学校に入る一か月前のことである。彼はその年の子供が往々にしてそうするように、道端にかけ石で何やら落書きしていた。洗濯のために外に出たオトメイアが何を書いているのか見てみると、彼は微分積分の計算式を書いていた。大学の出ていないオトメイアには彼が何を書いているのかさっぱりわからなかった。それがかろうじて微分の式だということはわかったが、もう学生時代に習った式などすっかり忘れていた。
同級生とドッジボールやサッカーに興じているシドは彼女にとって扱いやすかったが、ディーンは未知だった。彼女の知らないものを幼い子供が知っている、それは彼女にとってどう対応すべきかどうかわからないことだった。うすら寒い恐怖を覚えることもあったが、単純に彼が勉強のできることをオトメイアは喜んだ。
彼女は夕食の席でシドと夫にそのことを伝えたが、反応は芳しくはなかった。シドは勉強の類に一切興味がなく成績もいい方ではなかったため、ディーンを一種の恐怖の対象として見るようになった。
ブライアン・オータスに至ってはディーンが微分積分を理解しようが、宇宙に行こうが、てんで興味の無いようだった。それもそのはず、彼は一年の林業の目標生産高を前年度より5%アップさせることを目標としていたが、その政策がなかなかうまくいっていなかった。加えて今年の国家予算は林業に多く回していたため、是が非でも生産高をアップさせたかった。
しかし大方の理解の通り、林業が盛んになるためには到底一年で結果が出るものではない。ハナから彼の政策には無理があったのに無理やり目標を達成しようとして、大勢の人をこき使っていた。彼自身も尽力し、ひどい時には一日十二時間働く日もあった。まさに仕事一片の人生で、彼の頭には林業以外に一切の隙間が無かった。
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ディーンは小学校に上がった。彼は教科書をすでに読んでしまっていたので授業中はほとんど先生の話を聞かず、本を読んでいた。初めこそ先生に怒られはしたものの、彼が高校三年生の背教科書を開いて積分を始めたころから先生は何も言わなくなった。
彼の成績は教師でさえ測れるものではなかった。彼のお気に入りは『純粋理性批判』と『元素図鑑』で、一日中でもその本を眺めていられた。しかしカバンに入っており絶えず肌身離さずにいるキッシンジャーを人前で開くことはなかった。
彼には友人がいなかった。彼と話の合う人間がいなかったし、彼自身も本さえあれば充分満足できるようだった。教師は度々彼に友達と遊ぶよう誘導してみたが、彼自身は何回かその輪に入り、つまらなかったのか数回でやめてしまった。それでも学校の成績自体は申し分なかったため、教師からは特別扱いを受けた。
彼に友人がいないのは、彼の性質もあったが、キッシンジャーの影響もあった。
「孫よ」キッシンジャーは六歳になるディーンに言い聞かせた。
「お前に大事な話がある」大事な話、と本の一ページ目に文字が浮かび上がった。
「なんでしょう、キッシンジャー様」
「お前は命を狙われる可能性かある」彼は厳かに言った。
「知っての通り、お前のかりそめの父、ブライアン・オータスの兄は現在王位に就いておる。儂の息子は十人もの兄弟がおるが、孫も同じくらいおる。順当に考えれば養子のお前が出る幕ではない。しかしお前には私がいる。かつて王だった私がお前に肩入れしていると知ると、兄弟たちはお前を殺すに違いない」
「僕は狙われているのですか?」
「左様。今はまだ儂がいるからうかつに手は出せんがな」
「シドも狙われているのですか?」
「左様。シドは性格上、上に立つものに向いていないから殺すまでもないが、それでもブライアンは今いる兄弟の中では二番目の地位にいる。狙われるのは当然だ」
「シド以外にもたくさんの子供が狙われているのですか?」
「左様。王位を継承するということはそういうことだ。たくさんの陰謀と欲望が渦巻く。それを乗り越えて王位に就くのだ」
「何か僕にできることはないですか?」ディーンはまっすぐにキッシンジャーを見つめていた。
「書物を読み、勉強し、体を鍛えるのじゃ」
「体を鍛える……」
ディーンの顔が曇る。確かの頭脳明晰さは誰もが認めるところであったが、体力にはいささか自信が無かった。
「何、剣術を学びたいと言えばいい。あとは毎日走ることだ。儂の234頁にからの鍛え方については詳しく載っているから(彼はそのページを自分で開いて見せた)、参照するがよい」
「わかった」ディーンは葉を栞代わりにしてそのページに挟んだ。
「僕、みんなが殺されないようにします」
彼は背筋を伸ばし、高らかに宣言した。キッシンジャーは左様、とだけ言った。その声は心なしかいつもより低く、暖かい気がした。
その日からディーンは毎日走るようになった。オトメイアに剣術を学びたいとも言った。彼女はいつも本を読んでばかりのディーンがそんな発言するとは思いもよらなかったため心底驚いたが、彼が自分の意見を口にすることは滅多にないので、喜んで教室に通わせた。
ブライアンは相変わらず子供の教育には無視を貫いていた。シドはディーンが教室に通い始めてから、あまり彼と接しなくなった。
一年生の年度が終わるころ、オトメイアは学校の先生から呼び出された。若い信任の女教師が言うには、「彼は私の手に負えませんので私立の特別教育を受けたらどうでしょう」ということだった。彼女は教師の言うことに納得した。
オトメイア自身、ディーンは効率の小学校に向いていないと感じていた。教師はいくつかの専門教育が施される学校を紹介した。そこでディーンは試験を受け、特別学級に入学するべきだと主張した。オトメイアもすっかり教師の言い分に感化され、ディーンを転校させる決意を腹の中でした。
帰宅後に夫に相談したところ、彼はあっさり了承した。もとよりお金は余っていたし、何より彼には育児に関して積極的に考えることを放棄していた。そのためオトメイアの言うことに彼はすんなり従った。彼女は早速、新しい学校の見学にディーンを連れて行った。何校か回り、一番校風の自由そうな学校を受験することにした。受験はペーパー試験と面接だったが、事前に行ったペーパー試験が満点だったため面接はほぼ受験意思の確認のために行われた。
かくしてディーンは首席で私立の小学校に入学した。
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転校先で彼はのびのびと暮らすことができた。相変わらず友人はできず、授業中に本を読む癖は抜けなかったが、教師はそれを誰も咎めなかった。制服などうるさい規律もなく、勉強さえできていれば誰も咎めなかった。
公立の小学校では彼は同級に奇異な目で見られたが、試験を満点で通過したこともあってか、同級生たちからは一目置かれる存在となった。彼に話しかけようとする者は現れたが、彼はどこ吹く風、質問されれば答えはしたものの、積極的に級友たちと関わることはなった。彼にとっては本を読むことが何よりの生きがいで、それ以外のことは些末な事象でしかなかった。
彼は小学校六年まで首位をキープし、教師からも生徒からも羨望の目で見られるようになった。教師たちは彼に将来研究者になることを切望した。彼自身もまた、将来はぼんやりと何かしら研究をして過ごしたいと考えるようになっていた。
中学に入ってから、彼に友人ができた。彼の名をジャン・パーカーと言った。ジャンは中学校から入ってきた特待生で、入試で一番だった。成績も良く運動神経も良く、明るい性格で誰からも好かれた。
彼は、入学式の日に教師の説明を聞きながら片手で『純粋理性批判』を読んでいたディーンに話しかけた。
「それ、おもしろいよな」屈託のない笑顔でジャンは言った。
「おもしろい」ディーンは口を開いた。
滅多なことで口を利かない彼は級友に話しかけたことで周りをびっくりさせた。
「とても理路整然としている。これを読んでいると落ち着く」
彼が二文以上話すことはまれだったので、これまた周りは驚いた。彼は初めて自分の世界を共有できる人間がいることに静かに喜んでいたが、顔には出さなかった。
「わかるよ」とジャンは言った。
「でも今は俺、ミルの『自由論』にはまっているんだ」
ディーンは誰にも気づかれなかったが片眉をピクリと動かした。
「ああ」とディーンは平静を装って言った。
「それも好きだね。君はヘーゲル哲学の方が好きなのか?」
「いや、俺はまだどの思想にもはまっていない」
とジャンはあっさりと言った。
「ヘーゲルは未だ読み込んでいいないんだ。今は誰の思想に胃も染まる気はない」
「なるほど」ディーンは腕汲みをした。
「僕もだよ。でもこれを読んでいると不思議と落ち着くんだ」
そんなわけで彼らは度々話し合うようになった。
ディーンは人生で初めて友を得た。ジャンは級友にも好かれていたため、彼にとっては多くの友人のうちの一人がディーンであったかもしれないが、ディーンにとってはジャンが唯一の友達だった。彼の周りで『純粋理性批判』を読んだことがあるのは彼だけだったし、バーゼル問題の初等的な証明の美しさを語ることができるのは彼だけだった。
彼らは時にいろいろな話をした。何か本を読んで感動することがあれば、ディーンは真っ先にジャンに報告した。ディーンのお気に入りは『純粋理性批判』の他にヘミングウェイの作品で、ジャンのお気に入りは『ファウスト』と『車輪の下』だった。彼らはたびたび本の話をした。美しい数学の定理や物理の公式、美しい化学構造や生命の神秘についてひたすら語り合った。
十五の時、彼らは一緒に飛び級で大学に入学した。大学でも彼らの成績はトップクラスだった。総合学科に彼らは入学したが、ゆくゆく、ディーンは哲学を、ジャンは経済か法律か化学を学びたいと考えていた。飛び級の制度を利用したのはその年度では彼らだけだったため、二人は大学で多くの時間を共に過ごした。
この頃からディーンはひげが生え始め、筋肉も付き始めていた。毎日決まった時間に走り込み、剣術の教室にも暇があれば顔を出していたため、その体つきは以前のひ弱な彼とは少し違っていた。
シドはその時分から音楽に目覚め、ギターをしょっちゅういじるようになった。特別ディーンはシドと関りを自分から持とうという気にはならなかったが、時折シドがギターの練習をしていると
「良い曲だね」
などと話しかけるようになった。
そのたびにシドはニヤッと笑った。
十八の時にディーンは哲学を専攻したいと考え得ていたが、哲学を理解するためには宇宙の法則を知らなければならないという持論から物理学科を選択し、論文を書き上げた。論文は高く評価され、ぜひ大学院に進学するよう教授陣から勧められた。ジャンは経済学と現在の政治制度に関する論文を書き上げ、それも高く評価されたが、彼はさらに進学するつもりはなかった。
「飛び級で進学できたし、あと一年大学に残って文学でも気ままに研究してから社会に出ようかな」
そんなジャンの発言にディーンは大いに賛成した。
「実は僕も物理はこれでオサラバしようかと迷っていたんだ」
ディーンはもとより、哲学を研究するための手段として物理学を学んでいたため、本当にやりたいことは別にあった。しかし彼の中では物理や数学をもう少し学びたい気持ちと、哲学を早めに学びたい気持ちとが混在していた。
「君なら哲学を学びながら物理も学べるんじゃないかな」
ジャンの何気ない一言で、彼は教授陣の期待を裏切り、あっさりと物理学から足を洗った。代わりに哲学科に再度受験し、これまたトップクラスで入学試験をパスした。
十八の秋、彼は二度目の大学進学を果たした。周りには同じ学年の子たちが集まっていたが、彼はすでに学内で有名人になっていた。とはいえ彼自身は周りからの評価などお構いなしに、暇さえあれば哲学書を開いて過ごしていた。それだけでは飽き足らず、わからないことがあれば自分で研究室の扉を開き、教授陣に質問した。
いつしか教授たちにも彼の天才ぶりは認知されるようになり、研究室に入り浸るようになった。
シドは音楽の専門学校に行き、本格的にギターを学ぼうとしていた。二人の生活はてんでばらばらだったがそれが逆に良かったのだろう、この時くらいからお互いがお互いをリスペクトするようになっていた。かつて小さかったことに会ったわだかまりはほんの少しだけだが消えていた。
ディーンがおよそ説明のつかない、奇妙な感覚に陥るようになったのはこの頃からだった。
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