Who killed Cock Robin ?

「まだ見つからないのか。あんな病人みたいな野郎に何をそんなに手こずっている」

 ……遠くで誰かが話している。

「すみません、奴は身体能力は大したこともなさそうなんですが、何故かどんな追い込み方をしてもするりと抜けちまいまして……攻撃はしてこないんですが、こちらの攻撃も全然当たらなくて」

 いや、距離はすぐ近くだ。遠いのはきっと、僕の意識の方。軍属時代に少なくない回数経験した、意識回復のプロセス。そのスタートライン。

 霧がかった意識の中で、最低限の情報だけは回収する。

 慧はまだ捕まっていないようだ。

「起こせ」

 という声が聞こえるや否や、いきなり顔に水をぶっかけられる。

「冷た……」

 急速に意識が焦点を結ぶ。がらんという音。おそらくバケツが投げ捨てられたのだろう。

「おいあんた、うちの“眠り子ハッシュドベビー”に何の用だ。警察かとも思ったが手帳は持っていないようだしな……探偵か?」

 眠り子ハッシュドベビー。闇社会での呼び名。薬物を摂取し、快楽粒子を生み出す役割の人間。そこで生まれた快楽粒子は、富裕層の楽しみのために利用される。ノドゥス粒子を用いれば、薬物を摂取することによる身体への悪影響を回避しながら、快楽だけを取り込むことができる。身代わりとなる眠り子は、身体を蝕まれながら快楽すら得られない。それで得られるのは、わずかな金。

 椅子に座らされ、両手は手錠で縛られているようだ。場所は……よくわからないが、どこかの地下空間だろうか。反響からしてかなり広く、既に周囲は囲まれている可能性が高い。僕が座らされているところ以外は、照明が落とされていてかなり暗い。

 顔を上げると、NPMSらしき装置を顔に装着した体格の良い男と——春原花純。

「春原さん……?」

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 春原花純は眠り子ハッシュドベビーではない。もしそうであれば、会った時点で慧が気づいている。では彼氏の方か。弱みを握られている? だとしたら……そういうことか。

「彼氏さん……坂島隆介さかしまりゅうすけさんだっけ……が借金か何かで闇社会の人間に脅されて眠り子に落ちた。春原さんは彼氏さんを助けるために強制されて一芝居打った。そこまではわかるけれど、何故そんなことを? 何のための芝居?」

「——その質問には、私が答えよう」

 闇の奥から、声とともに足音が聞こえてくる。そうして現れた人物は、奇抜な意匠が施された衣服に身を包んでいた。頭から足元までをすっぽりと覆う深紅のローブには様々な形状の文様が縫いつけられ、その上に橙、緑、青の帯状の飾りが巻きついている。頭から肩にかけては大きな一枚布で覆われており、顔にも布が下げられていて一切の表情は伺えない。

呪術師ウルラ……」

「その通り。けれど名乗りはしないよ。私達の仕事を邪魔する者達がいると聞いてね、いくつも罠を張っていたのさ。一風変わった事件で、かつノドゥス粒子絡みになると出てくるという噂だったし、それらしい演出はしてみたつもりだが……本当にいたのだね。かかるとは思っていなかったが」

 布の向こうから、思いのほか明朗な声が返ってくる。おそらくこれも、その衣服と同じく演出だろう。種明かしをすることによる恐怖の増幅。しかし

 ……呪術師ウルラ。あまりに時代錯誤な存在である彼らは、ノドゥス粒子の登場とともに再び世間に姿を現した。彼らはいずれも情動粒子感応者クラヴィスだ。それも負の感情の操作に特化した形の。

 近代における科学の光によって消滅したかに思えた呪術という概念は、ノドゥス粒子の存在によって再発見された。負の感情は、それ自体が本当に他者を害するのだ。不思議なことに、ノドゥス粒子が発見されてから人体における情動の影響は過去に比べて強くなった。信仰の身体への影響を、図らずも最新の科学が支えてしまった形になる。

「あの容器を部屋に転がしたのも、あんたか」

「容器?」

 このタイミングで隠す意味はない……ということは、春原さんが本当に使っていたのか。彼氏が眠り子に落ちた、その影で。

「まあいい。君は情動粒子感応者クラヴィスではないようだ。仕方がないから、この特別製のNPMSを貸してあげよう……私の悪意マリスが、よく見えるように」

 悪意マリス。人間の負の感情の総称。黒い情動粒子。

 呪術師ウルラが、僕の顔に異形のNPMSを取り付ける。

「さて、本物のショーをはじめよう。おいでなさい、眠り子ハッシュドベビー

 坂島隆介が暗がりから歩いてくるが、その足取りはおぼつかない。目は焦点が合っておらず、口元はだらしなく開いている。春原花純は今にも泣き出しそうな顔でその姿を見守っている。

「ここにいる二人は、黒い情動の塊だ。坂島隆介はギャンブルがやめられず、闇社会の金に手を出して眠り子ハッシュドベビーに落ちた。春原花純は最初彼を助けようとしていたものの、そのストレスから快楽粒子に手を出して、今では助けるどころか坂島隆介の負債を増やし続けている。かつては愛し合ったであろうに、今ではその愛が互いへの憎しみに変わっているのだよ。今回の件への関与は互いを危険に晒すものだったけれど、この状況からの解放を匂わせたらそこに躊躇いはなかったねえ」

 呪術師ウルラは嬉しそうに語る。

「さらにそこにもう一つ、見知らぬ誰かのスパイスを加えよう……凄惨な動画を見ることで生まれる感情のうち、正義と憎しみはどちらが多いと思うかな?」

 立ち尽くす坂島隆介。うずくまり泣き声を上げる春原花純。その二人の周囲に、NPMSによって可視化された蝿のような黒い悪意マリスが、渦を巻くように集まってくる。

「ここに集まっているのは本当に無責任な情動達だ。生み出すだけ生み出しておいて、誰もそれを片付けようともしない。黒い情動は放射性廃棄物のようなものだ、存在するだけで周囲に悪影響を及ぼす。私の結社はね、そんな悪意マリスを有効に活用しているというわけなのだよ」

 そんな詭弁を聞く間にも、悪意マリスは拡散していた状態からどんどん集約されていき、やがて渦巻く巨大な暴風へと成り果てた。一度NPMSを取ってしまえば常人には見ることすらできない闇の化身。そんなものが、実害を及ぼすほどの影響を持っているという事実。この悪意マリスを全てぶつけられたなら、到底生きてはいられないだろう。以前に見た悪意マリスによる殺人事件の被害者は——全身の細胞が残らず腐り果てて死んでいた。

「誰が殺したクックロビン、というやつだ。ではな青年。みんなの悪意で溺れ死にたまえ」

 呪術師ウルラがその手を僕に向けて伸ばした刹那。

 僕から見て部屋の奥、間取り的には入り口があるであろう方角から短い銃声が聞こえ、ドスンという鈍い音がして、そして途絶えた。

 同じような音がもう二度ほど聞こえたあとで、その真白い人影が闇の中から姿を現した。

「慧……遅いよ」

「ごめん」

 困ったような笑顔を浮かべて答える慧。僕が彼に不平を言ったときに、いつも見せるそのパターン。その手には、黒い革手袋がはめられている。

「ほう……君が噂の白い情動粒子感応者クラヴィスか。粒子操作技術で右に出るものはいないと聞くが、この暴風はどうかな?」

 呪術師ウルラがその手の示す先を、慧に切り替える。

「行け」

 黒い暴風が生き物のように蠢き、のたうつようにしながら慧へと近づいていく。動き始めは緩慢に見えた動作も徐々にその速度を上げ、やがて一匹の大蛇のような濁流となって慧の全身に降りかかった。

 慧は。

 いつもの無感動な表情で、変わらずそこに佇んでいた。

「何……?」

 呪術師ウルラが初めてその芝居掛かった振る舞いを解いた。当然だろう、常人であれば悶え苦しんで死ぬ質量の悪意マリスを浴びせられて立っていられる存在はありえない。まして情動粒子感応者クラヴィスならなおさらだ。彼らは粒子操作を行うことができる一方、感応者の呼び名の通り、受ける影響も大きい。この呪術師ウルラも、常人以上に悪意マリスのことを恐れているはず。

「何故だ。何故通じない」

「慧の情動は死んでいるんだよ、呪術師」

 過去——軍属時代に慧が遭遇した事故は、彼の脳の一部に大きな損傷を残した。ノドゥス粒子に関する研究は未だ発展途上であり、詳しいメカニズムがわかっているわけではないけれど、彼は何か強い感情を実感したり、他者の感情に共感したりする能力を丸ごと失ってしまっているのだ。皮肉なことに、ノドゥス粒子への干渉能力は残したまま。

 慧が日々感じているのは——彼に感情があればという矛盾に満ちた前提が必要になるけれど——果たしてどんな気分なのだろうか。僕にとってそれは、悪意マリスよりも恐ろしい想像だった。

 狼狽える呪術師ウルラに向けて、慧は手を伸ばす。先程呪術師ウルラ自身がそうしたのと鏡合わせのようにして。

「君の悪意マリスも足し合わせたよ。使わせてくれてありがとう——ぼくには悪意マリスは、作れないから」

 慧の周囲で行き場を失ったように漂っていた濃密な悪意マリスが、息を吹き返したように身悶える。そして部屋のそこかしこに控えていた呪術師ウルラ以外の構成員も含め、ありとあらゆる方向へ無数のうねりが殺到し——爆発するように拡散したのち、消滅した。

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