グリーン車の患者

天上和音

第1話

ボクは、グリーン車では窓側に座り隣の座席に荷物を置くのが流儀だ。そのためのグリーン料金だと思う。もちろん隣のお客さんが来ればすぐに空ける。本当の乗客ならね。過去に嫌な経験をしたので、そんな下品な流儀が身についた。のぞみのグリーン車にどう見ても縁のなさそうな風体態度のオッサンが、キョロキョロ周囲を物色しながら、いかにも空席を探している風情で、ボクの隣の空席に目をつけて滑り込んだことがあった。それも一度だけじゃない。昔と違い、今じゃグリーン車内で車掌の切符確認はない。だからこんな輩に座られてしまうのだ。


こうした連中は大抵、テーブルにビールと日本酒、それから酒の肴を目いっぱい広げた上に、レジ袋やら手提げ袋やらを座席の前の隙間に所狭しと置く。道を開けてもらう手間と時間を考えるとトイレを我慢する方が面倒くさくないかなと、遠慮する自分に腹が立つ。こういう不愉快な目に合わないためには、すぐにどけられる荷物を隣席に置いてしまうのが、行儀が悪いと知りながら癖になってしまった。まあ最近数年のことなんだが。


ところがある週末、新大阪から東京に向かう車中で、うっかり隣席に荷物を置き忘れ荷物棚に上げてしまった。今日は日曜なんで朝寝したのがまだ尾を引いていて、ボケていたんだ。こんな時に限って、そいつは滑り込んで来る。全く迷惑なジイサンだ。シマッタと、目いっぱい心の中で舌打ちしたが、もう遅い。今日は我慢の日だな。PCで打ちこんでいた論文を途中で諦めて座席に沈み込み、観念して目を瞑ると、なんだ? 隣がしきりに話かけてくる。


「あの~ 失礼だがね。ひょっとしてアンタね、帝都大病院の高円寺さんじゃないの?」

そう! 大いに失礼だ! アンタこそ、ただのジジイだろうが。隣の乗客がノーベル賞学者とか、文化功労者とか、内科学会の理事長とかなら上から目線で当然だ。土下座せんばかりに最敬礼だ。ただのジイサンが隣に座っただけで、いきなりなんなんだ、そのタメ口は。ボクは目を瞑ったまま黙っていた。


「ちがうかね。高円寺さんじゃないかね」

タメ口だけじゃなく、口臭もきつい。それになんだか急に背筋がゾクゾクしてきて気分が悪くなった。反吐が出そうになりながら、ボクは目を開いた。どす黒いネガティブなオーラが隣席から漂ってくるのが目に見えるようだ。

「いかにも。その通りだが」まるでTVドラマのような、思いっ切り芝居がかった偉そうな態度で答えてから睨みつけてやった。

「北垣だよ、アンタの患者の」

ボクは返事はせず、まずは背広の内ポケットに常備しているサージカルマスクで鼻を塞いでから、患者だというジイサンを上から下までを検分した。白髪と皺、筋肉のこそげ落ちた痩せ方から70代後半といったところか。毛筆でしたためたスローガンめいたものが白抜きになった紺のTシャツに、白いシアサッカーのジャケット。ボトムは濃紺のデニムパンツ。年齢にしてはなかなかおしゃれじゃないか。だが、裸足にサンダル履きだ。サンダルとはいっても、つま先が皮で覆われているグルカサンダルで金はかかっていそうだ。空席のグリーンに自由席券で滑り込んで来る連中よりは金持ちかな。でも、ジャケットの袖口から時計が見えそうで見えなくて、どれほど金持ちなのかは分からない。引退して暇はもて余してはいそうだ。全身に怠惰で横柄な雰囲気が淀んでいて、顔色はどす黒くくすんでいる。外来の時もこんなだったろうか。記憶はあやふやだ。


どんな病状だったのか、思い出せない。医者により違いはあると思うが、ボクはレントゲンや心電図あるいはCTを見ると、その患者の病状が思い出せることが多い。だが、顔を見ても名前を聞いても、緊急入院などイベントがなかったら、まあ思い出せない。特にボクみたいに外来患者が五千人にもなるとね。そうそう、Tシャツで思い出した。このTシャツのジイサンは、最近なん度か薬を減らせ止めろとイチャモンを付けに来ていたよな。そうだ、肺がんだ。呼吸器外科から胸部CTで血栓が写っているのではないか、と内科に紹介があった患者だ。そこまで思い出すと、ジイサンの上着の胸のあたりの皺の寄り方が不自然なことに気が付いた。ジイサンの咳払いの瞬間に内ポケットに黒っぽい機械めいたものが一瞬覗いた。瞬間、緊張して言葉を選んだ。


「そうでしたかね。なにぶん私の外来患者さんは五千人を超えてるもんでね。なかなかお名前をすぐに思い出すのは・・・」一応研修で習った接遇に則って、もったいぶった答え方をした。態度が悪い患者というのは行動全般が特異で、周囲にネガティブなオーラを振りまく。今しがたゾクゾクした体の反応は、名前と顔が一致しなくても、反射的にあの嫌な奴だなと自律神経が応答する、まさにそれだったんだ。

「前から聞きたいことがあったんよ」

何度も聞いたなこのセリフ。ジイサンが外来に来るとやたらに時間を食って、後の患者からいつも文句が出る。なぜこの薬やあの薬が止られないのか、と毎回喰らいつくんだ。


「お弁当にお茶、サンドイッチ・・・」車内販売のワゴンが急ぎ足に通り過ぎて行った。ボクはコーヒーを買おうと小銭入れを握ったままだった。ジイサンが道を塞いでて声をかけそこなった。ボクの緊張と慎重さはそこまでだった。前後の席に知り合いの医療関係者がいるかもしれない時には、不用意な発言は禁物だと分かっている。だがワゴンが通り過ぎた瞬間、良識がプツリと切れた。


「新幹線でつかまえて聞き正してやろうと、駅で待ち伏せてたってわけ?」

「偶然だよ偶然。ワシゃ新幹線はグリーン以外乗らないからな。で、座ってみたら隣がアンタだったわけ」

どうして出張の日程がばれたんだろう。日程が分かったとしても予約した座席までは分からないだろう。駅で待ち伏せていたにちがいない。通路側座席にかばんを置かなかったことをもう一度後悔した。

「ワシの薬を止めたのはなんでなん」

「薬を止めたい止めたい言うてたんは、アンタの方やで」


ボクは東京で生まれ育ったが、働き始めてからはずっと関西だから、関東弁と関西弁がハイブリッドしている。と、まわりには格好を付けてそう言っているけど、単に方言がごちゃまぜなだけだ。人の集まりがあると関東弁を使うか、関西弁を使うか、はいつも考える。TPOに合わせて意図的に切り替えないと、偉い先生方に変な印象を与えてしまう。医療関係の集まりの時はとても気を使う。変な印象をもたれてもすぐに実害が出るわけじゃないが、友人の指摘はいつも耳に痛い。「お前、もう標準語じゃないな」「相変わらずおかしな関西弁やね」


関西弁で返されてオッサンは目を丸くした。

「あんた、関西なのか」

「生まれは神田の江戸っ子さ。北垣さんの言葉は、そうだな~、北陸近辺かな」

「どうして分かるんや」

「オレは人間を値踏みするのが得意でね。ところで、アンタ、アンタって、北垣さんはどの医者もアンタ呼ばわりするのかい?」

自分を強く押し出したいときボクはオレを使う。

「いやアンタは先生って柄じゃないやろ。アンタ若いからな」

「ほかの患者さんはみんな高円寺先生って言ってくれるぜ」

タメ口、ネガティブオーラ、その上更にマウントしてくるって、むかつく奴だぜ。


ジイサンはしばらく黙りこんでいた。ここぞとばかりに、ジイサンに邪魔された書きかけの論文抄録をそそくさと完了した。どうもその後、ボクはほっとして寝落ちしてしまったようだ。

「で、なんでワシの薬止めたん」

何度かこの言葉が聞こえてきて、夢の中で旧友と話しこんでいたボクは現実に引き戻された。どこまでもしつこい奴だな。まるでストーカーだぜ。


「もちろん、薬がいらないからだよ。CTで血栓はなかったんだから。こないだ写真見せたじゃないか。北垣さん、いつも言ってたじゃないか、薬止められないのかって。薬を続けるエビデンスはあるのかとも言ってたな。エビデンスって流行りの言葉で、誰もかれも使うけど、医者はそういう使い方はしない。医学上のエビデンスというのは単なる証拠という意味じゃなくて、ある標準治療が確立するのに必要な臨床試験の結果の事をいうんだ。だからこの場合にはエビデンスというより、薬を使うべき病態というか、薬効のターゲットがあるかってことさ。それがないんだから飲まなくていいじゃないか」

ボクは一気にまくしたてると、改めてジイサンの顔を覗き込んだ。深く暗く落ち窪んだ眼窩には意外に大きな目玉があって小刻みに落ち着きなくひくついていた。ボクと直接視線を合わせないよう避けるのだが、ジイサンなんだか涙目に見える。口は悪いのに、まるで懇願してるような表情だ。その時初めて、ジイサンの唇の色の悪さに気が付いた。黒紫色だよ。チアノーゼじゃないか。こいつは重症だぜ。まるで救急当番に当たっている時の様に、体が勝手に座席から飛び出そうとした。自分で自分を押さえつけるのにずいぶん努力が要った。ただ見た目と違い、呼吸が荒れている様子はない。変だな・・・、と医者らしい思考にスイッチが入る。いやいや、今身体の心配をしてやったら、ここぞとばかりに増長してしまう。ボクは更に追い打ちをかけた。


「ところでさ、今日はオレ公的な出張なわけよ。病院から許可と交通費が出てる。学会に出席して専門医の単位をもらってこないといけないの。だから今はその業務中ってわけ。外来患者のアンタは病院の外来受付時間内に来たらオレが対応するけど、それ以外の時間は当番の担当医か救急医が対応することになってる。連中は、もちろんどんな質問でも受け付けるよ。オレだって他の医者の患者対応で毎日苦労してるんだから。でもさ、今日みたいに待ち伏せして人を詰問するって、いわゆる業務妨害でさ。というか、もうストーカー行為にあたるよね。もし警察に届けてストーカー認定がされたらアンタさ、オレの患者どころか周囲百メートルには近寄れないことになるんだぜ、いい?」


そこまで言って、やっとボクは落ち着いた。日頃は言いたくても言いたくても、ぐっと言葉を飲み込んで作り笑いをする。どんな理不尽な患者の我儘にも、院長から言われている通り、自己犠牲を払って対応している。その分余計に言い過ぎた感じもする。ジイサンの視線は空中をさまよい、体は小刻みに震えているように見えた。こんな年寄りにちょっとかわいそうだったなと一瞬思ったが、油断は大敵だとすぐに思い返した。他人の迷惑顧みず、大手をふるって権利を振り回す年寄りたちには、このくらいでちょうどいいんだ。


「飲まなくて、本当に大丈夫なのか」

またかよ。

「今の所はね。しかし将来は分からないな。まあ、オレがアンタの病気なら飲み続けるけどな」

「どっちなんだ。飲まなくていいのか、飲まないといけないのか。ワシをいじめてるのか」

「いじめてるもんか。本当にどっちも正しいんだ。アンタはできるだけ薬は飲みたくないと言った。だからなくせる薬はなくしたんだ。だが、もしオレがアンタと同じ肺がんだったら、一旦血栓がなくなっても飲み続ける。なぜなら飲み続けないと、すぐに再発するからだ」

「ワシの血栓は再発するのか」

「いずれはね。いつかは分からんが」

「もし血栓ができても、薬を飲まなかったらどうなるんだ」

「肺の血管が詰まって息ができなくなるね」

「苦しいのか」

「ゆっくり詰まってくる時には、たぶん分からないだろう。でも、いきなり大量に詰ったら息できなくなるね」

「息できないって、窒息みたいなもんか」

「北垣さんは物分りいいね。その通り、まさに窒息だよ」

「てぇことは、死んじまうじゃないか」

「その通り、窒息死だね」

「まるで他人事みたいに言うな」

「言葉は悪いがその通り、他人事だからね」

「じゃ、飲まなかったら死ぬってことか」

「飲まない、イコール、100パーセント死ぬじゃないよ。血栓が見つかったところで薬で溶かせばいいんだから」

「また検査ってことか」

「北垣さん、全然わかってるじゃないか。その通りだよ。だから今すぐは飲まなくてもいいんだよ」

ボクは続けた。

「癌というのは血栓準備状態なんだ。人は、それぞれ人生観がちがう。余分に薬を飲んで安心したい人間もいれば、無駄なものは一つでも一秒でも手放したい人間もいる。オレはね、患者の人生観・価値観を一番大事にしているわけ」

ジイサンはまた黙り込んだ。車両の端に付いている電光掲示板のニュースを凝視しているようにも見えるが、自分が本当はどうしたいのか、どうなりたいのか、分からなくなってしまっっているようにも思えた。


このジイサンだけじゃないだろう。誰もが患者という立場になれば不安になるのはしかたない。だが、そこにつけこむと金が稼げると踏んだメディアやタレント医者が、これでもかと不安材料をばら撒くわけだ。すると不安にかられた患者は答えを求めて右往左往する。タレント医者はシタリ顔で、ウチに来なさい、正解を教えてあげるよとささやく。そんな詐欺師医者があっちでもこっちでも好き勝手な「正解」を言うもんだから、医者を詰問してやろう、となるわな。医学の答えは一つしかないはずだ。本当を言っているのか、ウソを言っているのか、確かめてやろう。最初はそんな気持ちだったのだろう。答えは一つじゃなく、患者の数だけあるのに。患者は誰しも疑問に思う。自分は生き残れるのか、死ぬ運命なのか。医者は知っているはずだ、と患者は考える。でも、患者集団ごとの確率をある程度知ったところで、目の前のジイサンが明日生きるか死ぬかなんて分からない。医者を追い詰めれば最高の医療が手に入るはずだ。日本は国民皆保険だ。アメリカの様に高い金を払わなくても、誰でも自動的に最高の医療を手に入れられる。手に入らなければ医者が悪いんだ。医療ミスだ。厚労省の責任だ。新聞・テレビでいつも言ってるじゃないか。神の手外科医とかドクターGとか。そういう医者にかかりさえすれば永遠の命、最高の人生が手に入るはずなんだ。手に入らなかったらそれは医者が悪いか医療ミスなんだ。こんな考え方を一体誰が吹聴したのか。思うに、売名好きのタレント医者自身じゃないかと思う。同業者に恨みを持つ医者が、癌と戦うなと言ったりして同僚の足を引っ張り続けるから、マスコミはその後に続いたんだろう。


「要するに病気はワシの自己責任で、アンタは関係ないって言いたいわけだな」

「ちがうちがう。関係ないなんて言ってない。患者と医者の共同作業だっていう意味だ。」

接遇教育で習ったぜ。共同作業って言葉。

「でも薬を止めたのはアンタだろ」

「薬を止めたいっていったのは、アンタだぜ」

「一体、ワシはどうしたらいいんじゃ」

「逆に聞くけど、北垣さんは一体どうしたいの。選択肢は二つある。それを選ぶのはアンタだよ。一、薬を飲む。再発をふせぎたければな。ただ金もかかるし、副作用が出ることもあるけど。二、薬は飲まない。しかし再発した時には薬を飲むことを勧めるよ。その時も飲むか飲まないかはアンタの決断だ。考え方次第で、二つのどちらとも正解なんだ」

「なんでそうやって、問題をワシに押し付けるんじゃ」

「押し付けるんじゃなくて、最初からアンタの問題だろ。オレじゃなくてアンタが病気なんだぜ。薬代を払うのもアンタ自身だろ」

「もうすこし親切な言い方ってもんがあるだろう」

「甘えたいんだったら、オレじゃなくて親切な女医さんを紹介するぜ。彼女の診療所は完全予約制の自費診療だから懇切丁寧だぜ。国民皆保険ていうのは赤字ギリギリの公定価格で慈善事業の延長みたいなことをやってるわけなんや。アンタら臣民は、ありがとうごぜえますだと、ひれ伏して薬を押しいただく、そういう制度に作ってあるんだぜ。そんなに親切にしてもらいたかったら、自費診療に切り替えてくれよ。コンシェルジュが付っきりで案内してくれる入会金三百万円のメディカル・セレブ・クラブってのもあるぜ」

「ばかいうな、オレたちはちゃんと三割の負担払ってる」

「アンタの年齢だと一割負担だよ。九割は国が面倒みてるんだ。偉そうなことは言えないんだぜ」


またしても沈黙が続いた。

「もう二度と薬は出さないんだな」

「何度だって出せるさ。検査で異常があればまた飲んでもらう」

「まだ検査が続くのか」

「今度はCTじゃなく、放射線を使わない超音波で検査させてもらうよ。だから体にはやさしいぜ」

「一体いつまで検査するんだ」

「癌の心配がなくなるまでだね」

「いつ、心配なくなるんだ」

「さぁ、癌センターの偉い先生に聞かないと、オレには分からないね」


イギリス英語をへんてこに気取って真似した車内放送が始まり、そろそろ新横浜だと言っている。新横浜を過ぎて、このまま東京までジイサンに付き合わされるのは嫌だな。遠回りになるが、新横浜で下車してしまおうか。ただ荷物が多いから難儀だな。決心の付く前にまずトイレだ。他の乗客も停車前にトイレに駆け込むから、急がないと。名古屋から乗り込んできたジイサンだが、なんだかソワソワし始めた。やっぱりそうなんだ。新横浜で乗り降りする乗客はかなり多い。ボクの隣席の本当のお客さんが乗り込んでくるんじゃないか、ジイサンもそれを心配するのだろう。


「ごめんよ」と、ジイサンに声かけると、なんだ瞬間移動かって、思うくらい素早く席の隣に立ちあがった。ずいぶん背が高いじゃないか。でも眼は落ち窪み唇は紫で、皮一枚だけに痩せた頸には喉仏が目立ち、腰が曲がったままかすかにプルプルと体が揺れる姿は情けない。いやいや同情無用だ。他の乗客が立ち上がる前にトイレへ行かないと。


先客が時間かかったので、車両に戻ってくるとあちこちで棚から荷物を降ろす人たちが目についた。よしっ。ボクもここで下車するとするか。ジイサンとはおさらばさ。オヤッ。座席に近づくと、ジイサンは居ない。思った通りだぜ。本当の客が乗り込んでくる前にズラがったな。それじゃ、リラックスしてこのまま東京まで乗るとしよう。日曜なのに車内で論文を仕上げようと張り切って重たいPCを担いできたが、ジイサンにエネルギーを奪われたせいで、もう車中ではやる気が起きない。


東京駅真横の学会場に着く直前に病院から着信だ。どうしてこう日常業務のことを忘れようって日に限って病棟から電話なんだ。

「高円寺先生の携帯ですか。帝都大七階病棟ですけど」

「なに?今、学会なんだけど」

「退院時処方のことで・・・」

「昨日、病棟に上がって入力しようとしたら、まだ退院確定じゃないから電カル上は入力できませんと断られたんだぜ。どうやって東京から電カル入力するんだよ。病棟の当番に頼めよ」

全く出来の悪い病棟だ。五階や六階はそんなことないのに。この病棟だけはいつでもタイミングがずれてるし、行き違いも多い。まあ十年前にパワハラ師長に虐待された新人看護師が飛び降りなんてしなきゃ、キッチリと教育する仕組みを壊したりはしなかったはずだが。結局、ツケはいつでも医者に回ってくるんだ。


ムカムカしながら学会場に入ってゆくと、懐かしい知り合い達が挨拶してくる。そうこれでこそ、非日常生活。多少は勉強もするけど、不愉快でくだらん業務から逃げ出すために、学会の価値があるんじゃないか。やれやれ、やっと東京まで出てきた甲斐があったってもんだ。


大阪に戻って一週間、また矢のように時が過ぎて行く。痩せ細った高齢男性患者を見るたびに、またジイサンが文句を言いに来たのかと緊張したが、ついぞ姿を見かけなかった。毎日、午前も午後も膨大な患者をさばいて・・・、そう、診察ではなくさばいて日々が過ぎてゆく。とても三分間すら診療時間はとれない。なんたって患者五千人なんだから。でも今週は幸い薬を減らせ、止めろとは誰にも言われなかった。 


ボクだけじゃなく周りの医者も薬がどんどん増えてゆくのは良くないと自覚はしてる。だけど次々に症状が増えてゆくのだから、ガイドラインに決められた薬を、添付文書通りの投与量で付け加えてゆくのはしかたないよな。薬出さないで死んだり入院したら、訴えられるのはこっちなんだからな。


明日からの土日、また学会で東京だ。今度は飛行機にしてやった。待ち伏せといて隣に滑り込みなんてもうできないぜ、ジイサン。しかしジジイというのは何でそんなに暇なんだ。昨日の夜も、締切ギリギリの書留を持って郵便局の窓口にならんだら、目の前のジジイが何が気に食わないのか、窓口で噛みつく噛みつく。聞いてたら、担当者の言い方が悪い、態度が悪いってどうでもいいことじゃん。十分近く粘るから、さすがに行列の後ろからどうなってるんだの抗議の声が聞こえてきて、ジジイは退散した。きっと独居老人で日頃誰にも相手にされないから、たまたま相手をしてもらうと、寂しさのあまり喰い付いてしまうんだろうな。気持ちは察するが、いい迷惑だぜ。


まさか、あのジイサンも寂しかったのかな。そういや、がんセンターの主治医が手術前にリスク説明したいのに、親族らしき人物が見つからずに困ったとか言ってたな。ジイサン、あれからどうしてるんだろう。唇紫色だったのに。相談に来るんだったら、ちゃんと病院に来いよな。金曜の夕方、今日も長かった外来から解放されてボーっとそんな事を考えていた。


「先生宛にがんセンターからです」

就業時間が過ぎて、医者以外のスタッフが通用口から大勢出てゆく流れに逆らって医局に戻ると、帰り支度した医局秘書から封書を渡された。当直医たちは、病棟に上がってしまっているみたいだ。ボク一人が医局に残っている。めずらしいな、がんセンターの外科医が連絡してくるなんて。手術が終わったら、もう外科は関係ないみたいな顔して、術後フォローは全部こっちに丸投げするのがこの人たちの流儀なんだけど。


帝都大学医学部附属病院 総合診療内科

高円寺省吾先生 侍史

いつも大変お世話になっております。

先生にかかりつけの北垣又吉様ですが、先週日曜日に心肺停止にて当院に救急搬送されました。蘇生を試みましたが甲斐なく、死亡を確認いたしました。ご遺族のお許しをいただき剖検させていただきました。肺血栓塞栓症が死因として推定されております。がん病巣の経過を含む詳細な病理報告はまた後日にお送りできるかと存じます。取り急ぎご報告させていただきます。今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。

県立がんセンター 呼吸器外科 藪内 当 拝

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

グリーン車の患者 天上和音 @amakami

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る